第一話
――私がもし、人間じゃなかったらな。
ノマが目にしたのは、吊るされたシャンデリア。蹴散らされたシーツの上で、彼女はもう一度瞬きした。
体格の差に圧倒されて、ノマは倒れることしかできなかった。
相手の隙をついて逃げ出すことはもちろん、叫び声をあげることすらできなかった。
「どうし、て」
散らばった服に、乱雑に腕を通す。重心が左右にゆらゆら揺れる。
「どうして」
ベッドの下に落ちていたのは、黄金色の装飾が施された腕時計だった。
――これなら、持ち帰れそうだ。
裂けそうなくらいに痛む全身を抱えて、彼女はドアノブを回した。
「すっごく偉い方のお屋敷に出向くことになったの!私の研究を見てくれるんだって」
ノマの母と父は、その知らせに手を叩いて喜んだ。
「よくやったじゃない、頑張ってきなさいね」
今の彼女になら分かる。他の候補生が見向きもされず、ノマだけに招待が届いた理由。
それは絶対、彼女が彼女だからではない。
ノマが平民で、その性別が女だったからだ。
「はぁ、はぁ」
息を切らせながら、日が昇る前の屋敷をあとにする。
外から見た屋敷は、その「中身」よりもずっとずっと綺麗だった。
「っお母さん、お父さん」
何処から買ったのか洋菓子を用意して祝ってくれた母にも、涙を浮かべていた父にも、もう会うことはできない。
動かすだけで攣りそうな足を引き摺って、ただ、逃げる。
暗闇の中で頼りになるのは、痛覚と歪んだ視覚だけだ。
足音に合わせてノマは呟く。
「人間じゃなかったらなあ」
もしもの話だ。もし人間じゃなかったら、もっと力が強かったらどうだろう。
……あの男の喉笛を掻き切ったのに。あ、でも、そうしたら殺されてしまう。
「そっか!不死身だったらよかったんだ」
彼女は名案に顔をあげた。笑いだしたいような衝動に駆られる。
もしも死ななかったらな、もしも私が強かったらな、もしも私が男で貴族だったらなぁっ。
その世界に逃げ込まないと、もう彼女は息を吸うことができない。
森の中、ノマは地面に倒れこんだ。
ああ。もし。
――もし、私がヴァイレート様だったら!
ヴァイレート・アムレア。誰もが一度は耳にする、とある街を救った大魔法使い。――それは、不死身の魔法使いの名だ。
そう、ノマが一番尊敬している存在でもある。
まだ彼女が十にも満たないころだっただろうか。ノマの赤い目は誰に似たのか、母と父が顔を見合わせ話し込んでいた。
「おかあさん、この目ってそんなに珍しいの?」
彼女は、自分のそれとは違って青い母の目を覗き込んだ。
「そうよ。千人に一人もいないらしいんだから。珍しい、ってちょっと嬉しいでしょう」
父はノマの髪を優しく撫でる。
「何か言われたって、ノマは誇っていいんだぞ、だってあのヴァイレート様も赤い目だろ?」
――そういえば、私ってヴァイレート様と同じところがあるんだ。
草の匂いがする。朝日が昇り始めて、少し暖かい。
もしも彼みたいに強く、優しく、そして絶対死なないように。
「っなれないかぁ」
そう言ったノマは、地面に爪を立てて立ち上がった。
――一ヶ月が経った。
何かを忘れるくらい、生活に必死だった。
そろそろこの町ともお別れか、と、ノマは心臓のあたりに手を置いた。
きっとここも最初の街と同じだ。珍しい目のせいで、「領主が赤目の少女を探している」という話が出回ってくる。
盗んだ時計を売った金で生きようにも、正体が透けてしまってはしょうがない。目隠しをして歩いてはいるが、そのせいで逆に怪しまれることも多かった。
「あ」
ぐぅ、という音がして、彼女はふと気づく。
今日、何にも食べてない。
別に死にたくないとは思わなかったが、それにしてもお腹は空く。小麦の香りに吸い込まれるようにして、ノマは大通りへと足を進めた。
「すみません。これ、一つ」
「はい、お代は確かに……あんた、怪我?」
「いえ。ありがとうございました」
怪訝な顔をしつつパンを渡してくれたおばさんに礼を言って、彼女はまた路地裏へと帰っていく。裏の世界はいつも静かで、身を隠すのにもってこいだ。
ノマはパンを口に含んだ。乾いているそれは口の中の水分を持っていき、思わず咽そうになる。
「まぁ、美味しいからいいか」
これからの暮らしについて、何の目途も立たなかった。貴族を敵に回したも同然の彼女は、実家に帰ることもできなければ近くで職を探すこともできない。
「……死ぬのかな、私」
一か月間、考えては頭から消していたものだった。ぼんやりと浮かんでは消えるそれは、いつも唐突に訪れる。
「死にたくない、か」
必死に逃げていたころの自分が懐かしい。今はもう、そんな体力も気力もないって言うのに。
突然、表の方から悲鳴が耳に入る。
「――いやですっ、わたし、まだ!」
その響きだけで、ノマの心臓が共鳴する。赤いカーペットの上を駆けた記憶、金色の時計の感触。それに身震いし、恐る恐る彼女は通りを覗いた。徐々に声が大きくなり、惨状が近づく。
「そう言われても遅いんだよ、契約だろ」
案の定。手首を掴まれている少女の髪は乱れていて、それは服も同じことだった。
「助けてください、誰か、助けてっ」
通行人は皆目を逸らし、僅かに、でも確実に彼らを避ける。
昔の私だったら同じことをしたのかもしれない、とノマは思う。あんな状況に身を置くことなんて、誰も想像しないだろうから。
ノマは一歩進み、また一歩下がった。……怖い。目の前がちかちかして、呼吸音が五月蠅い。
助けなければ、と思う反面。ここで女の子を逃がしても、ノマ自身が逃げられるはずはない。
それに、と彼女は思った。
――もし少女が助かったとして、そこからどうやって生きるのだろう。私みたいに宿に苦労して、ご飯に苦労して死ぬんだろうか。
一か月前からかなり瘦せ細った腕と、痙攣が止まらない瞼。こんなことなら、いっそ、もう。
ぐるぐると頭の中を記憶が巡る。この生活を押し付けるなんて、この苦しみを見たら彼女は――。
「おい待て逃げるな!」
一瞬ノマと、そして男が目を離した隙だった。名前も知らない少女は、迷いなく通りを駆けていく。
そして。その手には、さっきまで男がつけていたブローチが、しっかりと握られていた。
「……あ」
この子は、それでも生きたいと思ったんだ。どんなに残酷なものが待ち受けているか、彼女はまだ知らなくていいんだ。
ふら、と足が前に出る。一歩、また一歩。
ノマは、男に近づいていく。
震える足取りで、日の光が眩しい表通りに出た。
男の視線が自分に向いたのを確認して、ノマはゆっくりと目隠しを外した。
「お兄さん。さっきの子やめて私にしてみたらどうですか」
「……誰だ」
「見て分からないんですか?赤い目。希少でしょう?ついでに今なら賞金付き」
それにぴくりと反応した男に背を向けて、路地裏に向かう。
「狙うなら今ですよ。こんなチャンスないんですから」
「おい、お前――」
路地裏の暗さに狭さ、そしてここの街の道。彼女の方が、男より何倍も慣れていた。
一歩、二歩――三歩!
合図で走り出したノマは、路地を駆けた。風を切る感覚は、思っていたより少しだけ心地いい。
いつもよりもずっと早く足が動く。
なんでかは分からないけれど、どこか遠くから自分を見ているみたいだった。最高に変な人で、ちょっとだけ、ノマはその瞬間人ではなかった。自分自身を、どこかの魔法使いみたいだと思った。
――女の子どうするのかな、あなたもちゃんと生きたかったんだよね。領主に復讐でもしたかったなあ。
――お母さんとお父さん、元気にしてるかな。
――え、もしかして私って指名手配されてたりするのかな。ちょっと面白い、かも。
――今の私を見たら、ヴァイレート様は、きっと。
「っはぁ、はぁっ」
それでも筋肉の落ちた体では、すぐに息が上がってしまう。地面に足の裏がぶつかる度、全身がぎしぎしと痛む。
「赤い目の女!」
遠くから確実に迫ってくる声に、彼女は笑った。
「ふ、あはは」
人間だからだ。ここが現実だからだ。ノマは逃げられないし、生きていくこともできない。
――だめかあ。
さっきの少女のことが、ノマの頭をよぎる。彼女を助けられたからいいんだ、と言い聞かせる。それでも、心臓の鼓動も掌を伝う汗も、まだ生きようとする。
それは、ノマの意思でもあったのだ。
「……まだ生きてたかったんだぁ、私」
笑って、認めて。そして、彼女は泣いた。
一か月間流せなかった熱いものが、頬を伝っていく。
女というものにも、肉体にも囚われたくなかった。人に囚われたくなかった。やっぱり、やっぱり。
「――私はっ、人間を、やめたい」
ノマは膝をついた。
「……やめたい、あ、ぁ」
涙でぐちゃぐちゃになりながら、ノマは叫んだ。
――上の方から声が降ってくる。
「赤い目の女、ってお前か」
彼女は泣き続けた。死ぬのが怖い。終わりが怖い。でも、尊厳だけは捨てたくなかった。
冷たい水みたいな声だなと思った。
「僕の屋敷に来い」
「……っいやです、死んでも、行かない」
言葉にならない言葉を吐き続ける。息が苦しくなって咽返った。
「っいやだ、死にたくない」
「早く来い、手当てする」
――手当て、なんで?
残酷で淡々とした声に、ノマはばっと顔をあげる。涙で髪が張り付いて、気持ち悪い。
「要らない――誰ですかっ」
彼女が視線を上げた先にいたのは、髪の長い男だった。
風に舞う白い髪によく映えたのは、彼女と同じ赤の瞳。
一瞬で、それが常人の纏う冷気ではないと気づく。美しくて、少し怖い。
……嘘だ。そんな。
「誰……ですか」
彼が口にしたのは、ノマが一番待ち望んでいて、でも一番聞きたくない男の名前だった。
「――ヴァイレート・アムレア。知っているだろう」
「……なんで」
ヴァイレートと名乗る彼は、音もなく地面に降り立った。長い髪が少し靡いて、ノマは少し目を奪われる。
――このひとが、私の憧れの。
「お前、男に追われて泣いているのだから」
彼は、目を伏せて前髪を掻き上げる。
「……助けにきてくれた、ってことですか」
しゃくり上げながら口に出すと、その人はノマに向かって手を差し出した。
「そういうことにしておく。来い」
ノマはゆっくりとその手を取ろうとして、出した右手を引っ込めた。……どうしても、震えてしまう。
「……すみません、私情けないところを」
彼が本当にヴァイレート様だとしたら、と考えるとどうにも恥ずかしいような、申し訳ないような心地になる。
「とりあえず向こうで話をする」
「……すみません、でも」
男は差し出していた手をすっと引いたかと思いきや、それを胸ポケットに持っていった。高貴な身分なのだろう。服はどこもかしこもひらひらとしている。
「これでも着いてこない、か。強情な娘だ」
無理やり連れていかれるのだろうか、とノマは思う。でもヴァイレート様だったらそんなことをするだろうか、連れていかれた先にあるのは前みたいな地獄なんだろうか。
「いくぞ」
「えっでも」
「見てろ」
彼は三回杖を振った。その先からは赤い光が溢れ出し、ノマたち二人を絡めとる。地面に立っているのに、体が浮かび上がって落ちていくみたいな感覚。
――転移魔法。
「目をつぶっていろ」
「――はい」
慌ててぎゅっと目を閉じたそのあとだった。一瞬にも永遠にも思える時間の後、風がノマを包み込む。吹きすさぶそれは、まるで五感の全てを覆い隠すみたいだった。
「もう開けていいぞ。さ、驚け」
ゆっくりと、ゆっくりと目を開けると、そこに広がるのは屋敷ではなかった。
――雲が、近い。
最初に見えたのは霧のような雲。そのほかは見渡す限り一面の青で、風はまだびゅうびゅうと吹いている。
「え」
恐る恐る足元に目をやると、全てが遥か下にあった。豆粒ほどの大きさしかない建物たち、人なんてほぼ視認もできない。
不思議な感覚だった。高いところは怖いはずなのに、足元は安定していて落ちるとはこれっぽっちも思わない。
「ふふ、こんな魔法が使えるのはヴァイレート・アムレアだけだ」
「……すごい」
「素晴らしいだろう。これで、少しは信じてもらえただろうか」
はっとして顔をあげる。びゅうびゅうと吹き荒ぶ風の真ん中で、彼の横顔だけが鮮明だ。
この人は、私をそのまま連れていかなかった。私を説得するただそれだけなんて、屋敷に着いてからでもできるのに。
魔力の大きさとか、そんなのは当たり前。ただ、私がずっと思い描いていた存在。優しくて、大きくて、少し変な人。
多分きっと、本物の、ヴァイレート様だ。
「……信じます。あなたはヴァイレート様で間違いありません」
彼は「よかった」と呟き、そのまま街を見下ろした。
「こうして空に来ると、人間なんて卒業したような気持ちになる」
「あの!」
自分のものとは思えないくらい大きな声で、ノマはヴァイレートを呼び止める。
「私、人を、やめたくて」
声に出した瞬間、彼女はその歪な響きに少し恥ずかしくなった。
――なんて言われるだろうか。
「いや、その」
彼は一瞬きょとんとした顔でノマを見た。沈黙が微かに流れる。
「はは、あはは」
「やっぱり、おかしいですか」
「いいや、娘。僕ならその手伝いができる」
そんな夢のような話があるんだろうか。そう思いながらも、ノマは拳を握りしめた。
「でも屋敷って、住み込みってことですよね。その……私男の人が、苦手で」
「は?何を言っている、娘?」
小さくなっていくノマの声に、ヴァイレートは首を傾げた。
「は、まさかそんな……は?」
何かに気づいたらしい彼は、急に顔を真っ赤にする。耳まで赤くなっている様子は、まるで普通の人みたいだと思った。
「そ、そんなことをするなんてこのヴァイレートにあるわけないだろう!」
「すみません、ただ……聞いておきたくて」
彼は咳ばらいすると、少ししゃがみこんでノマと視線を合わせた。
「すまなかったな、娘。お前への考えも、配慮も足りていなかった」
「いえ!いいんです、私の勘違いと言うか、その」
ヴァイレートはもう一度、彼女に手を差し出した。
その中指にはめられた指輪の赤い石が、光を反射する。
「許してもらえるならば、僕と共についてきてくれないか。お前に危害は加えない、約束しよう」
ノマの中の霧が、ゆっくりと晴れていく。
遥か遠くに見える世界のことが、少しどうでもいいような気持ちになって。
「――はい」
今度こそ、彼女はヴァイレートの手を取った。
まだ、少しだけ信じられない。こんな世界は知らないし、夢見ることすらできなかったから。
でも、震える手でノマは彼の手を握った。
あたたかかった。
「娘、名はノマであっているか……おい」
――ヴァイレート様。よかった。
体中の力が抜けていく。そのままへなへなとしゃがみこんだノマは、彼に返事ができなかった。
「おい、馬鹿寝るな!どこで寝ている貴様!」
それが、ノマがその日聞いた最後の言葉だった。




