第3話 公爵令嬢の矜持
学園の廊下は、今日も騒がしい。
騒がしい、というより、音が増えた。声が増えた。言葉が増えた。挨拶が増えた。笑顔が増えた。増えすぎたものは、だいたい信用できない。増えたぶんだけ、誰かが何かを隠している。
ベラトリア・レイブドールは、そういう空気が嫌いではなかった。
嫌いではない、というのは正確じゃない。むしろ好きだ。人間が焦る時にしか見せない顔が見えるから。息を整えられない者は、何を着ても乱れる。何を言っても乱れる。乱れる者は使える。乱れない者は危険だ。危険な者は早めに形にする。形にできないなら、距離を取る。
私は公爵令嬢だ。
この学園で「形にする側」にいる。形にされる側ではない。そこだけは、最初から決まっている。
「ベラトリア様、本日もお美しいです」 「まるで絵画のようで……」 「歩かれるだけで空気が変わります」
今日も取り巻きの声が耳に入る。褒め言葉は音として受け取る。意味として受け取ると、頭が鈍る。頭が鈍れば負ける。負けるのは嫌いだ。嫌いというより、耐えられない。
「ありがとう。皆、元気ね」
私は微笑む。微笑むのは礼儀だ。礼儀は盾になる。盾は薄いほど美しく見えるが、薄すぎる盾は刺さる。刺されない厚みを、私は知っている。
私の取り巻きは、子爵家以下が多い。男爵、騎士家、没落の家。皆、今の空気の中で「勝者の隣」に座りたい。座りたい理由は分かる。勝者の周囲は暖かい。暖かい場所には椅子が増える。椅子が増えると、人が生き延びる。
生き延びるために、彼女たちは私を褒める。
褒めること自体は構わない。問題は、褒め方の質だ。私は耳の端で、褒め言葉の中に混ざる“欲”を聞き取る。欲は悪ではない。欲は動力だ。動力は扱えば強い。
「午後の展示室、ミリシラ様がまた浄化なさるそうです」 「聖女の力は素晴らしいですね」 「でも今日は、ベラトリア様もいらっしゃるから……」
聖女の名前が出ると、空気が少しだけ柔らかくなる。癒しと浄化。小動物みたいにふわふわしているのに、胸だけはやたら主張がある。可愛い。確かに可愛い。だから“ヒロイン枠”に選ばれる。
だが、可愛いだけでは王妃にはなれない。
私は“婚約者候補”だ。
その言葉は重い。重いのに、周囲は軽く口にする。軽く口にするのは、重さを知らないからだ。王家に選ばれるというのは、祝福と同時に拘束だ。拘束されるのが怖い人間は、最初から候補にならない。
私は怖がらない。
怖がらない、ではない。怖い。怖いのが普通だ。怖いから、形にする。形にしたら怖さが減る。怖さが減ると、また次が形にできる。
私はそうやって今まで生きてきた。
自室の鏡の前で、制服の襟元を整える。学園の制服は誰が着ても同じ形に見えるように作られている。見えるように、というのがミソだ。実際は違う。布は同じでも身体が違う。姿勢が違う。歩き方が違う。視線の置き方が違う。
私は背筋を伸ばす。顎を上げすぎない。上げすぎると“見下ろす”になる。見下ろすのは悪役の仕事だが、見下ろし方にも品がいる。品がない見下ろしは、ただの下品だ。下品は公爵家に似合わない。
髪は艶のある黒。長く、まっすぐ。余計な飾りは要らない。飾りが必要なのは、飾りでしか勝てない者だ。私は身体そのものが武器だ。メリハリがあるからではない。武器に見えるように鍛えたからだ。立ち姿で黙らせる。歩幅で道を開けさせる。視線で黙らせる。
その技術を、私は幼い頃から仕込まれている。
家が、そういう家だから。
公爵家の朝は恋愛で始まらない。数字で始まる。領地の収穫、税、治安、婚姻。婚姻は政治だ。政治は甘くない。甘くないのに、表では甘く見せる。甘く見せられない者は、候補になれない。
私は甘く見せられる。
だから、私は候補だ。
廊下を歩く。取り巻きが半歩後ろに揃う。揃うのは、彼女たちが私を尊敬しているからではない。揃わないと怒られるからだ。怒られるのは嫌だ。嫌だから揃う。恐怖は整列を生む。整列は美しい。美しいものは、勝って見える。
勝って見えることは、勝つことに近い。
初回のこの学園は、みんな少し浮ついている。浮ついているのに必死だ。必死なのに笑っている。笑っているのに喉が乾いている。その乾きは、私には見える。
それは、いい。
乾いている者は、転ぶ。
転んだところを踏むのではない。踏む必要がないように、最初から道を塞ぐ。私は踏まない。踏むと血がつく。血がつくと面倒が増える。面倒が増えると、勝ちが遠のく。
私は“勝ち”を遠ざけない。
午前中、私は小さなお茶会を開いた。と言っても、派手なものではない。あえて小さい。小さい方が、空気の支配がしやすい。人数が増えるほど、余計な言葉が混ざる。余計な言葉は、予期せぬ火種になる。
場所は中庭に面した小サロン。窓が開けられる。逃げ道がある場所だ。逃げ道があると、人は安心して本音を漏らす。本音を漏らせば、こちらが拾える。
集めたのは、私の取り巻きの中でも“使える”3人だけ。褒め言葉が上手い子ではない。沈黙が上手い子。沈黙が上手い子は、聞くのが上手い。聞くのが上手い子は、噂の運び方が上手い。
「皆、座って」 私は淡々と言った。「今日は甘いものではなく、軽い焼き菓子にしたわ。午後の展示室で、胃が重いと顔に出るでしょう?」
彼女たちは頷く。頷き方が揃う。揃うのは、訓練されているから。訓練された頷きは、気持ちが良い。気持ちが良いと、こちらの気分が整う。整うと、判断が鋭くなる。
私はカップを持ち、ほんの少しだけ香りを吸った。
「今日は、誰が一番焦っている?」 問いは簡単にする。簡単な問いの方が、答える側の舌が滑る。
最初に口を開いたのは、伯爵家の分家筋にあたる子だった。子爵に落ちている家。落ちている家の子は、上がりたがる。上がりたい者は正直になる。
「ミリシラ様の周りです。優しいのに、優しさが……」 「重い?」 「はい。重いです。皆が“お願い”を乗せています」
私は口角を上げない。上げると意地悪に見える。意地悪に見えるのは悪役として正しいが、今は“分析”の顔でいる。
「それは彼女の弱点ではないわ。周囲の弱さ」 「はい……」 「周囲の弱さを、彼女が背負ってしまう。それが危ない」
私はカップを置いた。
「だから、彼女が“被害者”にならないようにする」 言い方は優しいが、中身は鋭い。「被害者は物語の中心に座るから」
3人が小さく息を飲む。私は続ける。
「悪役が彼女を虐めれば、彼女は中心になる。だから私がやるのは虐めではない。空気で押す。空気で押して、彼女の周囲を少しだけ息苦しくする。息苦しいと、彼女は“仕事の顔”になる。仕事の顔は恋に弱い」
取り巻きが頷く。ここは授業ではない。作戦会議だ。初回の学園は、こういう静かな作戦会議があちこちで行われる。皆が“恋愛”と言いながら、やっているのは“配置”だ。
「もう一つ」 私は指を折る。「王子殿下は、何も知らない。だからこそ、息ができる場所へ行く」
3人が頷く。ここまでは全員が理解している。
「息ができる場所を、私が作る」 「……殿下のために?」 「殿下のために、私のために」
私は微笑む。微笑みは、味方にも必要だ。
「そのために、午後の展示室で“事故”を起こさない。起こさせない」 「事故を……?」 「初回は、誰かが余計なことをする。余計なことが多いと、殿下が疲れる。疲れると、私のところに来る前に逃げる。逃げた先で、誰に当たるか分からない」
ここで、私は一番嫌な名前を心の中で転がした。
ミオナ・コンリエル。
まだ“危険”と言い切るほどではない。だが、読みづらい。読みづらい者は、余計な偶然で勝つ。偶然の勝ちは、こちらの計算を崩す。
だから、偶然を減らす。
私は焼き菓子を一つ取り、噛み砕いた。味は普通。普通の味は、会話に集中できる。甘すぎると、気分が緩みすぎる。
「午後の展示室で、あなたたちは何をする?」 私は問いを投げた。答えは決まっている。だが答えを口にさせると、彼女たちは自分の役割を“身体で覚える”。
「人を押しません」 「大声を出しません」 「殿下の導線を塞ぎません」
良い。基本ができている。
「それと」 私は言う。「ミリシラ様の周りで、過剰に泣きそうな子がいたら、外へ出す。優しく、丁寧に」 「はい」 「泣き声は空気を重くする。重くなると浄化が難しくなる。難しくなると、ミリシラ様が疲れる。疲れると、彼女の笑顔が固くなる」 「……固い笑顔は」 「殿下に刺さらない」
ここが肝だ。王子は優しい。優しいから、守りたい相手を選ぶ。だが守りたい、が続くと疲れる。疲れた王子は、守らなくていい相手へ行く。守らなくていい相手は、自然体だ。自然体が危険だ。
だから私は、自然体の席を奪う。奪うと言っても乱暴に奪わない。空気で奪う。
小さなお茶会を終え、私は廊下へ出た。すぐに“小さな事故”が目に入る。事故というほどでもない。だが、初回の空気はこういう小さなものを増幅させる。
男爵家の令嬢が、慌てて角を曲がり、別の令嬢の肩にぶつかった。ぶつかった相手は侯爵家の遠縁らしい。顔が赤くなる。言葉が増える。謝罪が増える。増えるほど、空気が重くなる。
私は歩みを止めた。止めるだけで、周囲の視線が集まる。集まる視線は刃になる。刃を向ける相手を選べば、それが悪役の仕事になる。
私は微笑み、柔らかい声で言った。
「大丈夫よ。誰でも最初は緊張するわ」
その言葉で、男爵家の令嬢が息を吸った。救われた顔をする。救うのは簡単だ。救った者は“いい人”になる。いい人になると、悪役が揺れる。だから私は救い切らない。
次の一言で、針を刺す。
「ただ、殿下の前では転ばないように。転ぶと、あなたの家が恥をかく」
男爵家の令嬢の顔から血の気が引く。侯爵家の遠縁が、ふっと背筋を伸ばす。周囲の空気が整う。整うのが目的だ。恥という言葉は、下位貴族を整列させる。
私はそのまま歩き出す。背後で小さな謝罪が続き、すぐに収束する。誰も泣かない。誰も騒がない。空気が重くならない。
悪役の仕事は、殴ることではない。殴らずに痛くすることだ。痛くすると、人は整う。整った人間は、王子の前で事故を起こさない。
午後、展示室。
人が多い。予想以上だ。初回の好奇心は厄介だ。好奇心は人を動かす。人が動くと空気が湿る。湿ると、聖女の仕事が増える。聖女が疲れると、笑顔が固くなる。固い笑顔は見ている側も疲れる。疲れた空気は、悪役の舞台だ。
悪役の舞台は、私の舞台でもある。
私は入口に立ち、取り巻きに目で合図した。整列。半歩後ろ。道を開ける。無駄口をやめる。噂を流すなら小声で、必要な方向へ。大声で流す噂は、ただの下品だ。
ミリシラ・アリオが現れる。
ゆるい髪。柔らかい瞳。小動物みたいな雰囲気。男はああいうのが好きだ。女もああいうのを嫌いになれない。嫌いになれないから厄介だ。嫌いになれない相手は、攻撃の言葉が鈍る。
私は攻撃しない。
攻撃すると、彼女は“被害者”になる。被害者は強い。被害者は物語の中心に座れる。私は彼女に中心席を譲りたくない。だから攻撃しない。攻撃しない代わりに、空気で押す。
私はただ、そこに立つ。
それだけで周囲が比較する。比較は人間の癖だ。癖は勝手に動く。勝手に動く癖を利用するのが、上手いやり方だ。
浄化が始まる。
彼女の光は淡い。淡いのに広い。技術はある。手順が正しい。焦っていない。焦っていないふりをしているのではなく、焦りを呼吸で抑えている。聖女としての訓練が染み込んでいる。
私は口角を上げない。上げると負けを認めたみたいになる。認めない。ただ、事実として評価する。評価は心の中でやればいい。外に出す必要がない。
浄化が終わり、空気が軽くなる。
王子が「ありがとう、ミリシラ」と言うのが聞こえた。声が柔らかい。王子は彼女に対して、保護の温度を持つ。保護は甘い。甘いのに、本人は自覚がない。
私はその温度を切るために、わざわざ割り込まない。
割り込むと、私が“嫉妬している”ように見える。嫉妬はヒロインの感情だ。悪役が嫉妬すると滑稽になる。滑稽になるのは、私の仕事ではない。
私はただ、拍手をしない。
拍手をしないことで、空気に線が入る。線が入ると周囲が勝手に意味をつける。「公爵令嬢は満足していない」「公爵令嬢は当然と思っている」「公爵令嬢はもっと上を求めている」
どれでもいい。どれでも私の格は下がらない。格が下がらなければ、勝てる。
人波が緩み始める。緩んだ瞬間が一番、言葉が刺さる。
「……まだ、少しだけ残っています。奥の角です」
小さな声。温度がないのに通る声。置き方が上手い。
ミオナ・コンリエルだ。
男爵家の令嬢。モブ枠。地味な服。地味な髪。地味な立ち位置。地味を選んでいる者の地味。そういう地味は読みづらい。
読みづらい者は、危険だ。
王子の視線がそちらへ向き、すぐにミリシラへ戻った。王子はミリシラに追加を頼み、ミリシラが頷いて淡くほどく。空気がさらに軽くなる。人が一斉に息を吐く。吐いた息が揃うと、場が落ち着く。
落ち着いた瞬間に、次の勝負が始まる。
私は、そこで“悪役”を動かす。
まず、目線で取り巻きを動かす。早い子が一人、ミオナの背後へ回る。近づかない。近づくと“圧”になる。圧になると被害者が生まれる。被害者は中心に座る。
近づかずに、囲う。
囲うと空気が変わる。空気が変わると本人が気づく。気づいた本人が動く。動いた動線を見れば、癖が分かる。癖が分かれば、形にできる。
私は王子の横へ行く。割り込まない。王子が動く先へ、自然に同じ速度で並ぶ。
「殿下」 声は大きくしない。大きい声は支配になる。小さい声は誘惑になる。私は支配もしないし、誘惑もしない。“提案”をする。
「今日は人が多い。殿下が疲れる前に、一度休憩を挟んだ方がよろしいかと」 「休憩……」 「はい。立ちっぱなしは良くありません。護衛の交代も必要ですし。入口に人が溜まっています。移動中に押されると面倒です」
“面倒”という言葉をわざと使う。王子は面倒を嫌う。嫌うのに、面倒を引き受けようとする。だから私は、面倒を“排除できる提案”として出す。王子は頷く。頷くと、私は勝手に頼られる。
王子が頷いた。
「分かった。君の言う通りだ」 「ありがとうございます」
私は微笑み、取り巻きに目で合図する。道を開ける。休憩の空間を作る。空間ができると王子の呼吸が戻る。戻ると王子はまた普通になる。普通になると、余計な令嬢が焦る。焦ると事故が起きる。
事故は、悪役の餌だ。
私が事故を起こす必要はない。勝手に起きる事故を、私が“正しく処理する”。処理した者が一番強く見える。見える強さは、実際の強さに変わる。
休憩の間、私は王子の表情を観察する。観察はモブの仕事じゃない。私は観察する側だ。観察して形にする。形にして勝つ。
王子が少し遠くを見る。視線の先にミリシラの取り巻きがいる。ミリシラは焼き菓子を渡されていて、困ったように笑っている。優しい顔。真面目な顔。疲れた顔。全部が混ざると男は守りたくなる。
私は守らせない。
守らせない、という言い方は乱暴だ。王子の優しさを奪うつもりはない。奪うと反発される。私は王子の優しさを“正しい方向”へ向ける。正しい方向、という言葉が嫌いな人もいるだろう。でも王子は正しい方向が好きだ。好きなものに合わせるのは戦いの基本だ。
王子の視線がふと別の方向へ動く。
ミオナ・コンリエルが、展示室の外の壁際に立っていた。目立たない位置。目立たない顔。目立たないのに、王子の視線が一瞬止まる。止まって、すぐ戻る。戻るのに、止まったことが残る。
私はその“残り”が嫌だった。
嫌、という感情は久しぶりだ。私は感情を表に出さない。出さないように訓練されている。訓練は成功している。成功しているのに、今だけ少しだけ嫌が漏れた。
漏れた嫌は、すぐに処理する。
私は心の中で、ミオナの項目を作った。
男爵家。モブ枠。取り巻きに入らない。
言葉が少ない。
事実の置き方が上手い。
温度がない。
温度がないのに空気を動かす。
そして――王子の視線が止まる。
面倒だ。
面倒というのは、私にとって最大級の評価だ。面倒なものは処理が必要だ。処理には方法がいる。方法がないなら観察する。観察して形にする。
ここで私は、もう一つ悪役ムーヴを足す。
派手にやらない。派手にやると私が“悪役の芝居”になる。悪役の芝居は、見物人には楽しいが、王子には疲れる。王子が疲れると、私のところに来る前に逃げる。逃げた先で誰に当たるか分からない。
だから、派手ではなく、静かに。
私は取り巻きの一人に、目だけで指示する。彼女は頷き、離れていく。やることは一つ。ミオナの周囲で「誰と話していたか」を拾う。話していないなら「話していない」を拾う。情報は、無いことが価値になる。
情報が集まったら、私はそれを噂にしない。噂にすると、ミオナが“主役”になる。主役になると、王子の視線が固定される。固定は危険だ。固定を作るのは、最後でいい。
今は、ゆっくり削る。
王子がこちらへ戻ってきた瞬間に、私は軽く笑った。
「殿下、今日は皆さん緊張していますね」 「そうかな……?」 「はい。だからこそ、殿下が落ち着いて見えるのは救いです」
私は“褒める”のではなく、“役割”を渡す。落ち着いて見える、という役割。王子は役割を渡されると、それを守ろうとする。守ろうとすると姿勢が整う。姿勢が整うと、私の隣がしっくりくる。しっくりくる場所が勝つ。
王子が苦笑した。
「君は言い方が上手いね」 「上手くないと、公爵家の娘は務まりません」
私は同じ言葉を、あえて繰り返す。繰り返すと“芯”になる。芯がある女は強い。強い女は婚約者候補に似合う。似合うと、周囲が勝手に認める。
認められると、ヒロインは焦る。焦ると笑顔が固くなる。固い笑顔は恋に弱い。
私は攻撃していないのに、相手が勝手に崩れる。
これが一番美しい。
帰り道、私はわざと遠回りをした。廊下の窓辺。人が少ない場所。少ない場所は、偶然が起きにくい。偶然が起きにくいと、コントロールしやすい。
そこに、ミオナが立っていた。
壁際。視線は遠く。存在感を消している。消しているのに、私の視線には入る。入るということは、そこに“輪郭”がある。
私は歩みを止めず、すれ違いざまに、ほんの少しだけ声を落とした。
「あなた、観察が好きなのね」
問いではない。確認に近い。問いにすると会話になる。会話になると、彼女が“主役”になる。主役にしたくない。だから一言だけ置く。
ミオナは、私を見なかった。見ずに、空気だけ動かすように、小さく頷いた。
その頷きが、妙に腹立たしい。
挑戦でもなく、恐れでもなく、媚びでもない頷き。頷き方が“対等”だ。男爵家が公爵家に対等であるはずがないのに、空気の中では対等になれる。
空気の中で対等になる者は、危険だ。
私は笑って通り過ぎた。笑顔は崩さない。崩すと私が負ける。負けるのは嫌いだ。
自室へ戻り、私は髪を梳きながら、冷静に整理する。
1000万ドリの報酬は、私の背中を押す材料ではない。押されなくても私は進む。進む理由は格だ。矜持だ。公爵家として、王家の隣に立つ覚悟だ。
だが、初回は“格だけでは足りない”かもしれない。
格だけで勝てるなら、世界は簡単だ。
格だけでは勝てないから、面白い。
面白いから、私は笑える。
私は決めた。
明日から、悪役を“少しだけ”濃くする。
虐めはしない。被害者を作らない。代わりに、空気を操る。比較を増やす。息苦しさを作る。王子が休める場所を、私の隣に固定する。
そしてミオナには、主役の席を渡さない。
渡さないために、あの子の“普通”を、普通のまま埋める。
地味は埋められる。埋めるのは簡単だ。簡単なのに、あの地味は埋まりづらい。埋まりづらい地味は、危険だ。
危険なら、形にする。
形にして――勝つ。
私は公爵令嬢で、婚約者候補で、悪役枠だ。
悪役は負けない。
少なくとも、“負けそうな気配”を許さない。




