第2話 聖女は負けられない
朝の礼拝堂は、静かすぎて落ち着かない。
木の床は昨夜のうちに磨かれていて、歩くたびに小さく軋む。軋む音さえ綺麗に聞こえるのは、たぶん私の心が綺麗だからじゃない。空気が冷えていて、音がよく通るだけだ。寝不足だと音が刺さる。刺さるのに、顔は柔らかくしておく。私は聖女候補で、学園の“ヒロイン枠”だから。
ミリシラ・アリオは、祈る前に呼吸を整えた。
癒しも浄化も、要は呼吸だ。祈りの言葉より、心の揺れより、まず息が乱れていないこと。息が乱れたまま力を流すと、癒しは熱に寄って雑になる。浄化は逆に冷えすぎて、対象を弾く。弾けば終わりだ。浄化は相手を裁くものではない。相手に残った“汚れ”をほどく作業で、作業は正確じゃないと失敗する。
だから朝が大事。
蝋燭の火が揺れている。揺れは風じゃない。古い建物は、どこかで呼吸している。私はその呼吸に合わせる。合わせると、世界が少し静かになる。静かになると、自分の中の数字の声も少しだけ小さくなる。
100万ドリ。 300万ドリ。
頭の中で言い直しただけで、喉の奥がきゅっとなる。数字が怖いというより、数字を怖がる自分が嫌だ。私は癒しと浄化で人を助ける側なのに、自分の心は数字ひとつで揺れる。
揺れるのは当たり前だ、と言い聞かせる。人間だから。人間のまま聖女になるから、揺れたまま整えるしかない。
「ミリシラ様、おはようございます」
振り返ると、聖女庁から派遣されている補助官の女性が立っていた。年齢は私より少し上で、動きが無駄に綺麗だ。書類も持っている。書類はいつも持っている。たぶん寝る時も抱いている。
「おはようございます」 「今朝も浄化の確認をお願いします。旧礼拝室の方で、昨夜また微量の反応が出ました」 「……また、ですか」 「はい。学園がざわつくと、出やすくなります」
ざわつく。昨日から、学園の空気は確かに変わった。はっきりした理由は口にしなくても、全員が知っている。各家に届いた紙。配役。報酬。違約金。禁則。誰がどこに座るべきか、という空気。
私は聖女庁から口頭で全部聞いた。
固定給の話はさらっと済まされた。そこは守るところらしい。具体の額を聞いても、心が余計に揺れるだけだろう。勝てば御祝儀100万ドリ。負ければ違約金300万ドリ。その2つだけが、妙に鮮明だった。鮮明すぎて、息が浅くなる。
補助官は私の顔を見て、すぐに察したらしい。
「今朝は少し顔色が薄いですね」 「え……そうですか」 「ええ。ですが、笑顔はいつも通りです」 「……それ、褒められてますか」 「褒めています。聖女は、顔色で心配されないことも大切です」
それはそうだ。癒しと浄化は“安心”と相性がいい。安心がないと痛みが逃げない。怖さが残る。怖さが残ると、穢れがまた絡む。だから私は安心を作る。安心を作るために笑う。
ただし、今朝の私は、ちょっと眠い。
眠いのに、旧礼拝室へ向かう。
旧礼拝室は現役の礼拝堂より少し奥にある。普段は鍵がかかっていて、掃除も最小限。建物が古い。古い場所は、いろいろ溜まる。人の声、人の涙、人の恨み、人の願い。全部が混ざると匂いみたいなものになる。
扉を開けた瞬間、ひやりとした。
冷気は物理じゃない。浄化が必要な空気は、肌の内側に先に来る。私は足を止め、掌を胸に当て、ゆっくり息を吐いた。吐く息が白くはならない。でも、心の中の何かが白くなる。
「反応は小さいです」 補助官が淡々と言う。「ただ、昨夜より少し広がっています」 「原因は……やっぱり?」 「昨日の午後から。通達が届き始めた時間帯です。家の空気が変わり、学園の噂が動きました」
噂が穢れになる、なんて言うと大げさだけど、実感としては分かる。噂は人の心の熱だ。熱は残る。残った熱は古い場所に集まる。集まると冷えて固まる。固まったものが、穢れに似た反応になる。
私は床に片膝をついた。スカートが床に触れる。汚れない。ここは掃除されている。汚れは目に見えない方だ。
「では……いきます」
両手を組み、目を閉じる。祈りの言葉は短くていい。長い言葉は感情を呼ぶ。感情が湧くと浄化がぶれる。私の浄化は“きれいにする”というより、“ほどく”に近い。絡んだ糸をほどくには、焦ったら駄目だ。
息を吸う。 息を吐く。 吐く息に、少しだけ光を混ぜる。
浄化は、光が強ければいいわけではない。強い光は影を作る。影が残る。影が残ると、次はそこに溜まる。だから淡く、均一に、広く。床の木目の奥に沈んでいた冷えが、ふっと薄くなる。肌の内側のひやりが、少しだけほどける。
指先が少し冷える。癒しと違って、浄化は体温を吸う。吸われすぎると、こちらの芯が冷える。芯が冷えると笑顔が薄くなる。薄くなると不安が伝染する。伝染すると空気がまた重くなる。重くなると、また反応が出る。
だから途中で一度だけ、自分の呼吸を数えた。
1、2、3。 吐いて、肩を落とす。 もう一度、淡く流す。
終わった。
空気が少し軽い。軽いのに、ここは静かすぎる。静かすぎる場所は、逆に“残り”が目立つ。私は目を閉じたまま、最後にもう一度だけ、広く撫でた。撫でる、という表現が一番近い。拭き取るのではない。剥がすのでもない。ほどいて、離す。
「……終わりました」 私はゆっくり目を開けた。
補助官が小さく頷く。「今日も安定しています」 「綺麗、じゃなくて?」 「綺麗は理想です。安定は現実です。現実の方が役に立ちます」
その言い方が、むしろ私にはありがたかった。綺麗は遠い。安定は足がつく。足がつくと、数字が少し遠のく。
廊下へ戻ると、学園の朝の音が戻ってきた。遠くで令息の笑い声。走る靴音。誰かが花を活ける水の音。いつもなら穏やかに聞こえるのに、今日は“音の後ろ”がざわついている。
昨日までの「聖女さま」という視線に、今日は別の混ざりがある。
勝つの? 負けないよね? 負けたらどうするの?
誰も口にしないのに、目が言っている。
私は笑って歩く。笑うと周囲が少し安心して、少しだけ静かになる。静かになると私の中の息が戻る。息が戻ると、癒しも浄化も安定する。安定すると、今日の仕事が回る。回れば、私は“聖女”でいられる。
食堂の席に着くと、私の周りに自然と人が集まった。ミリシラ派、と呼ばれるやつだ。呼ばれるのは苦手だけど、呼ばれないよりはまし。人は名前がつくと落ち着く。落ち着いた人間は余計なことをしにくい。
「ミリシラ様、今日の肌、すごく綺麗です」 「昨夜、ちゃんと休めましたか?」 「お顔色が……少しだけ薄いような……」
質問の渦は優しい顔をしているが、核心は別だ。
“今日の調子はどうですか” “勝てますか” “負けませんよね”
私は笑って頷く。
「大丈夫です。朝の浄化も終わりましたし」 「さすがです……」 「私たちも、少しでもお役に立てるように……」
役に立つ、という言い方が妙に仕事っぽい。恋愛が仕事になると、こういう言葉が増える。増えるのは悪いことじゃない。でも増えすぎると、人の心が薄くなる。私は薄くしたくない。
「皆さんは、学園生活を楽しんでください」 私はそう言った。
瞬間、周囲が少しだけ固まった。楽しむ? 今? この空気で? という顔が並ぶ。私も自分で言っておいて少し笑いそうになる。いや、笑ってはいけない。聖女は笑う時も、誰かを安心させる笑い方をする。
「……楽しむ、ですか」 誰かが恐る恐る言う。
「はい。楽しむことも大事です。心がすり減ると、悪いものが寄ってきますから」 「悪いもの……?」 「噂とか、疲れとか。そういうのです」
言葉は軽く置く。重くすると噂が増える。噂が増えると私の朝の浄化が増える。増えると眠れなくなる。眠れないと顔色が消える。顔色が消えると、もっと噂が増える。嫌な循環は、軽い言葉で切る。
朝食を終え、午前の癒し当番へ向かう。今日は訓練場の見学中に捻挫した令息と、転んだ新入生の擦り傷。軽い。軽いけれど、軽い仕事ほど丁寧にやる。丁寧にやると信用が積み上がる。信用が積み上がると、私の笑顔が本物に見える。本物に見えると、私自身が少し楽になる。
癒しは温度だ。手のひらの温度を少し上げる。相手の痛みを一瞬だけ自分の中に通し、ほどいて返す。返す時は柔らかく。痛みを引っ張り出すのではない。痛みが勝手に抜けるようにする。
「……うわ、本当に楽になった」 令息が目を丸くする。「ありがとうございます、ミリシラ様」 「無理はしないでくださいね」 「はい……!」
言葉はいつも通り。視線はいつも通り。私はいつも通り。いつも通りでいれば、落ちない。落ちないことが大事。勝つ、より先に、落ちない。
補助官が書類を閉じながら言った。
「午後の展示室、予定どおりです。参加者が増えています」 「増えています……?」 「ええ。初回ですから。皆、“見ておきたい”のだと思います」 「見ておきたい……」
見たいのは浄化ではない。浄化の“結果”だ。空気が変わる瞬間。誰が先に息を吐くか。誰が怯えるか。誰が余裕を見せるか。そういう、目に見えない序列の揺れ。揺れを見るのは怖いのに気持ちいい。そういう人は多い。
私は肩の力を抜く。抜かないと、私が先に揺れる。
廊下を歩くと挨拶が長い。昨日より長い。昨日は「聖女さま」の挨拶だった。今日は「聖女さま(勝ってください)」の挨拶だ。声の奥に、お願いが混ざる。お願いが混ざると、こちらの呼吸が乱れる。
乱れたら、浄化がぶれる。
だから私は、挨拶に一つだけ足した。
「午後、展示室でお会いしましょうね」
“そこで会う”と言うだけで、今ここで詰め寄られない。私の小さな防御。小さな防御は、聖女にも必要だ。
展示室へ向かう途中、王子の一団が遠くを横切るのが見えた。背が高い。姿勢がいい。外見は王子らしく整っているのに、歩き方が少しだけ素直だ。護衛に囲まれていても、どこか“普通の学生”の足が残っている。
声をかけるべきか、と一瞬考えて、やめた。
今の私は、声をかけたいのにかけられない顔をしている。そんな顔を王子に見せると、王子は遠慮する。遠慮されると距離が広がる。距離が広がると周囲が騒ぐ。騒ぐと空気が重くなる。重くなると私は疲れる。
嫌な循環を増やしたくない。
だから私は会釈だけして歩き続けた。王子がこちらを見たような気配がした。気配だけで十分だ。気配は軽い。軽いまま、午後に持っていける。
展示室の入口が見えてくる。
すでに人が多い。多いだけで空気が湿る。湿ると反応が出やすい。反応が出ると、私の仕事が増える。増えると眠れない。眠れないと笑顔が固くなる。固くなると皆が心配する。心配されると、また仕事が増える。
私は笑う。
笑って切る。切って入る。
展示室の入口には、すでに令嬢たちが集まっていた。私の周りにも人が集まる。悪役側の周りにも人が集まる。勝ち馬に乗りたい目が、あちこちで光る。光る目の中で、王子だけが普通の顔をしている。普通の顔をしているのに、周囲は勝手に意味を付ける。
ベラトリア・レイブドールが入ってきた瞬間、空気が変わった。
変わるのが分かる。香水のせいじゃない。姿勢だ。歩幅だ。視線の高さだ。彼女は“見られる”ことに慣れている。見られることを前提に存在している。空気が彼女に合わせて整う。整うと周囲が勝手に息を吸う。怖いというより圧倒される。
私は思う。勝ち負けじゃない。勝ち方が違う。
私は癒しと浄化。 彼女は威圧と支配。 王子は……本気。
だから私は、私のやることだけをやる。
「皆さん、少しだけ下がってください。深呼吸をお願いします。怖がらないでくださいね」
優しく言うと空気が少し軽くなる。軽くなると反応が減る。減ると浄化が楽になる。楽になると私が疲れない。疲れないと笑える。笑えると、みんなが安心する。
浄化は作業だ。作業は淡々とやる。
息を吸う。 息を吐く。 吐く息に淡い光を混ぜる。
展示室の隅に溜まった湿りが、すっと薄くなる。薄くなった瞬間に、誰かがほっと息を吐いた。吐いた息が空気を動かし、残っていたものがふわっと浮く。その浮いたものを、もう一度淡く撫でて落とす。
強くしない。強くすると影ができる。影は次の溜まり場になる。だから広く、均一に、ほどく。
指先が少しだけ熱を持つ。癒しと違って、浄化は体温を吸う。吸われすぎると、こちらの芯が冷える。冷えると笑顔が薄くなる。薄くなると不安が伝染する。伝染すると空気がまた重くなる。重くなると、また反応が出る。
だから途中で一度だけ、自分の呼吸を数えた。
1、2、3。 吐いて、肩を落とす。 もう一度、淡く流す。
終わった。
展示室の空気が、さっきより少し軽い。軽いのに、誰も大声を出さない。大声を出すとまた重くなると、皆どこかで分かっている。分かっているのに、目だけがせわしない。目だけが“次”を探している。
王子が言う。
「ありがとう、ミリシラ。空気が軽くなった」 「よかったです」
私は笑った。笑って、呼吸を戻した。戻ると、心の中の数字の声も少しだけ小さくなる。
ベラトリアが、ほんの少しだけ口角を上げた。褒めない。でも仕事は認める。そういう顔。私はそこに妙な安心を感じる。敵意より、評価の方が扱いやすい。
人波が緩み始める。緩んだ瞬間が一番、言葉が刺さる。
壁際の陰にいた令嬢が、ぽつりと呟いた。
「……まだ、少しだけ残っています。奥の角です」
ミオナ・コンリエルだった。
たったそれだけ。
命令でも、提案でも、媚びでもない。事実の置き方が上手い。余計な温度がないから、誰も反発できない。反発できない一言は、ただ“通る”。
王子の視線がそちらへ向き、すぐ私へ戻る。
「ミリシラ、お願いできる?」 「はい」
返事はいつも通り。けれど心の中で、小さく舌を巻く。
見つけるのが早い。薄い残りを薄いまま見つける目。目立たないのに、目を働かせる癖。あの癖は危険だ。危険というのは悪い意味じゃない。空気を変える力がある、という意味だ。
私は奥の角へ歩く。確かに湿りが薄く残っていた。薄いから厄介で、薄いから気づきにくい。気づきにくいものを気づくのが、観察者の危険さだ。
私は淡く、もう一度ほどく。
ほどけた瞬間、展示室全体の息が揃った。揃った息が、空気を軽くする。
「これで大丈夫です」 「助かった」 王子が言う。
私は笑う。笑いながら思う。
ミオナは、ここで目立とうとしていない。 でも“目立つ一言”を、最適なタイミングで置ける。
それは悪役の派手さとも違うし、ヒロインの頑張りとも違う。 ただ、空気の継ぎ目に針を刺す。
針は細いほど危険だ。痛みが遅れて来るから。
展示室の人波が動き始める。取り巻きたちが、それぞれの勝者の背中へ戻っていく。私は私の仕事を終えた。終えたけれど、終えた後の空気にだけ、少しだけ違う匂いが混ざった気がした。
浄化の匂いではない。 派閥の匂いでもない。
“この子、何者?”という匂いだ。
それでも私は、追いかけない。
追いかけたら重くなる。重くなると、今日の私が崩れる。崩れたら、明日の朝が崩れる。明日の朝が崩れたら、旧礼拝室の反応が増える。増えたら、私は眠れない。
だから私は、軽くする。
展示室を出た後、王子が私の横に少しだけ並んだ。周囲には護衛も令嬢もいるが、距離が少しだけ空いている。空いているのは、たぶん皆が勝手に遠慮しているから。遠慮が生む隙間は、時々ありがたい。
「ミリシラ」 「はい」 「さっきの浄化、すごく自然だった」 「自然……ですか」 「うん。頑張ってるのに、頑張ってるように見えない。そういうの、安心する」
安心。胸の奥が少しだけ温かくなる。私が欲しいのは、たぶんそれだ。
私は笑って答える。
「ありがとうございます。……でも、今のは少しだけ頑張りました」 「じゃあ、頑張った分、何か甘いものでも食べた方がいい」 「……甘いもの」 「学園の厨房に頼もう。君が疲れてる顔のまま歩くと、みんな勝手に不安になる」 「殿下がそう言うなら、頼みます」
殿下がそう言うなら、という逃げ道を自分に作る。私はずるい。ずるいけれど、ずるさは軽さの材料だ。軽さがないと、私は沈む。
補助官がすぐに動いた。こういう時だけ仕事が早い。私はその手際の良さに、少しだけ笑ってしまう。
小さな個室で、焼き菓子が出てきた。甘い匂いがふわっと広がる。匂いだけで、300万ドリの声が少し小さくなる。甘いものは、真面目な人間の救いだ。私は真面目だ。だから効く。
「おいしい」 思わず口に出た。
王子が笑う。
「よかった。君が笑うと、空気が軽くなる」 「それ、仕事みたいですね」 「仕事でもいいと思う。君が無理しないなら」
無理しない。私はその言葉を噛みしめた。無理しないで勝つ。無理しないで負けない。無理しないで、聖女でいる。無理しないで――恋をする。
考えた瞬間、また数字が顔を出す。
100万ドリ。 300万ドリ。
私は深呼吸して、甘いものをもう一口食べた。
軽くする。軽くしないと負ける。負けたら300万ドリ。だから軽くする。軽くするために甘いものを食べる。甘いものを食べるために王子に頼る。頼ると、王子が優しくなる。優しくなると、私はまた頑張れる。
循環。
でも今度の循環は、悪くない。
私は笑って言う。
「殿下。今日は、ありがとうございました」 「礼を言うのは僕の方だよ。ミリシラがいてくれると安心する」
安心。私はその言葉を胸に入れて、また笑った。
ミオナの一言は、まだ頭の端に刺さっている。刺さっているけれど、今は抜かない。抜くと血が出る。血が出ると重くなる。重くなると沈む。
私は聖女候補で、学園のヒロイン枠だ。
だから負けられない。
だけど負けられない、を重くしすぎると負ける。
だから私は、甘い匂いの中で、軽く笑って、明日の朝の呼吸を思い出す。




