父の帰還(6)
父は私に気付くと、満面の笑みで手を振ってきた。忙しい母に代わって家事に勤しんでいると思いきや、こんなところで油を売っていたのか。私の冷ややかな視線に気付かず、父は呑気に「おいでー」と手招きしてくる。
疲れていたし、他の休憩場所を探すのも面倒だ。私は促されるまま、父の隣に座った。ちらりと覗き見たバケツの中には小さな魚が一匹、ぽつりと寂しげに泳いでいる。こんな稚魚、腹の足しにもならない。私はバケツを水面に近付けて、そっと海に返した。父はあっと声を上げたけれど、文句は言わなかった。
「今日は風が気持ちいいね。風はいい。こうしてじっとしていても、世界は変わらず動いているということを実感出来る」
売れていないとはいえ詩人の端くれ。父の話すことはいつも無駄に壮大で、無駄に含蓄深い。けど実際のところ、その時浮かんだそれっぽいことを思い付くまま口にしているだけで、そこにこれといった教訓はない。
「その動いてる時間を有意義に使おうとは思わないの?」
「風を肌で感じ、水面に描かれる模様を眺める。これ以上有意義なことなんて何もないさ」
「そうなんだ」
面倒臭くなって、私は手近な小石を海に向かってポイと放り投げた。ほんの一瞬、幾重にも重なった円が水面に揺れる。けれどすぐに波が掻き消してしまった。
こうして海辺で足を休める時、隣にいるのはいつも聡史だった。でも今は違う。ちらりと横目で見れば、視界の端っこに映るのはツヤっとして張りのある中年男の頬。そういえばこの人ついこの間まで消息不明だったなぁと、不意に思い出した。何年も不在だったのだから、多少はやっと帰って来たんだぁという感慨を抱いても良さそうなものだけど、そういう感情は全く湧かない。その代わり違和感もない。不思議なものだ。
「ねぇ。何してたの?」
「夕飯のおかずを調達してたんだ」
「そうじゃなくて、この三年。どこで何してたの?」
母は突然帰宅した父に、驚いた顔をしなかった。連絡ひとつなく何年も家を空けていた理由についても何も訊かなかった。
「あらおかえり。久しぶり。夕飯は食べてきたの?」
ごく普通の調子で尋ねて、「まだだよ」とのんびり答えた父に夕飯の残りのおかずを提供していた。
普通だった。すごく普通だった。
母がそんなだから私も何となく触れ難く、でも実はちょっと気になってはいた。他所の女とどうこうなんてまずないだろうとは思うけど、何をしてたんだろう。どこにいたんだろう。
「それがなぁ。仕事に出掛けたんだけど、行きがけに神隠しに遭っちゃって」
父は頭をぽりぽりと掻いて、何故か照れたような顔をした。
「……神隠し?」
私は唖然として反復した。浮気よりタイムスリップの方が信じられると言ったのは私だけれど、実際それと同じレベルで現実離れした事を言われても、俄かに信用出来ない。
「神隠し。本当にあるんだなぁ。本土へ行こうとフェリーに乗ってたら、海神様に捕まっちゃったんだよ。海神様は人間が嫌いなんだってさ、海を荒らすから。だから時々捕まえては腹いせに下働きをさせてる。でも理不尽だよな?別に僕は海に悪い事なんて何もしてないのに、人間だからって十把一絡げに。それにさ、何で僕?って聞いたらさ、お前がこの島で一番、いなくなっても誰も困らない人間だからだって言うんだよ。酷いだろう?最初はもう人間界には帰れないと思えって言われてたんだよ。逃げたら海の藻屑にしてやるって。でもこうして帰って来れた」
ふぅんと私は適当な相槌を打った。自分から聞いておいて何だけど、父の話が嘘でも真実でも、どうでも良くなってきた。父の与太話に耳を傾けてる暇なんてなかった。私には他に考えるべきことが山程ある。
でもその後の父の一言が、私の興味を引いた。
「君のおかげだ」
私のおかげ?どうして?