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お嬢様、家出をする!

作者: 入多麗夜

長編化を想定した短編です。

 アリス・ウェールズの一日は、鐘の音とともに始まる。


 夜明けより早くカーテンが開けられ、光が部屋に差し込む。使用人の「お目覚めのお時間です」という声が響いたとき、彼女はすでに目を覚ましていた。


 いつもそうだ。

 眠っていても、眠れていなくても、この屋敷に朝は等しく訪れる。何ひとつ乱れることなく、同じように、機械仕掛けのように。


 アリスはベッドを抜け出し、部屋付きの洗面台の前に立つ。銀縁の鏡に映った顔は、誰もが「理想」と称える貴族の娘のそれだった。


 淡い金髪に、整った顔立ち。透き通るような青い瞳。着ているのは絹のナイドレス。肌に吸い付くほど滑らかな布地。でも、それを心地よいと思ったことはなかった。


 それが当たり前だから。


 そして、当たり前が苦しいと感じたとき――それは“おかしい”とされるのがこの世界だ。


「今日のご予定は、礼法の復習と古典語の口頭試問、午後は舞踏と夜会の立ち居振る舞いの確認です」


 侍女がいつも通りの声で告げる。丁寧で、冷静で、まるで昨日の繰り返し。


「……ありがとう」


 アリスは簡潔に返して、立ち上がった。


 アリスは静かに立ち上がり、手早く身支度を整えた。肌に滑らかすぎるドレスの感触も、香りの強い香油の匂いも、もはや何の感慨も呼び起こさない。


 部屋を出ると、屋敷の中はすでに静かな忙しさに包まれていた。足音のしない絨毯の廊下。光の角度まで計算された窓辺の飾り。ひとつ乱れれば召使いたちが即座に修正し、それを当然とする空気が満ちている。


 アリスはそれを見慣れた風景として受け止めていたが、心のどこかで、今日のそれがやけに息苦しく感じられた。




 ◇




 午前中は礼法の復習から始まった。


 貴族の間で交わされる正式な挨拶。応接室での立ち位置、笑うときの角度、扇の使い方――すべてが「家の格」といった理由で求められるものだ。


 アリスはそれを完璧にこなしていた。問いに対する答えは一言一句間違わず、所作には一切の乱れもない。講師は「流石はウェールズ家のお嬢様」と満足げに頷いたが、当の本人は別のことを考えていた。


 次は古典。王侯貴族の書簡や儀式で用いられる古語を、正しい格変化と共に朗読する。


 これもまた、アリスにとっては簡単な作業だった。記憶するべき文法はすでに頭に入っており、口に出せば自然に言葉が流れる。


 それなのに、心はどこか遠くにあった。


 ――これを覚えて、私はいったい、何になれるのだろう。


 教室の天井をぼんやり見つめながら、アリスは思った。

 誰にでも誇れる令嬢になったとして、それで「自分」を誇れるのだろうかと。


 午後は舞踏の稽古。


 鏡張りの広間で、音楽に合わせて一歩ずつ歩く。スカートの揺れ方、視線の高さ、肩の角度。舞踏会で第一王子の前に立ったとき、失礼がないように――それが稽古の目的だった。


 稽古をするのは、淑女の嗜みである。そういう風に教えられてきたが、どうもアリスにはしっくり来なかった。


 侍女曰く、「婚約者に恥をかかせない為」との事だが、彼女は婚約はおろか、恋愛すらも興味を持てなかった。


 しかし、そんな事を言った所で、いつかはお見合いをし、婚約を結ばなければならない。婚約破棄なんて事をしてしまったら勘当されてしまう。


  アリスはため息をついた。


 彼女はこういった貴族のしきたりは実に退屈だった。


 どこを切っても、当たり前と正しさばかりで、驚きも刺激もない。褒められても、達成感は得られない。うなずく講師の表情さえ、既視感のある風景にしか見えなかった。


 無意識のうちに、アリスは鏡に視線を投げた。背筋はまっすぐに伸び、手の角度も首の傾きも完璧だった。


 言われた通りに動き、望まれる通りに笑う。

 ふと気を抜けば、いつからこんなに呼吸が浅くなっていたのか、自分でも分からなくなるほどだ。


  何度同じことを繰り返したのだろう。

 このステップも、この回転も、二度や三度ではない。何十回、何百回。アリスの身体はすでに勝手に覚えている。音楽さえ聞こえなくても、足は自然に動くだろう。


 だが、もう動きたくなかった。


 滑るように前に出た右足が、止まった。


 次の一歩を踏み出すべきところで、アリスは動かなかった。

 スカートの裾がふわりと揺れ、そのまま音楽だけが虚しく流れ続ける。


 講師が戸惑ったように小さく息を呑んだのが、後ろから聞こえた。


「アリス様……?」


 促す声に、アリスはゆっくりと振り返った。


 その瞳に浮かんでいたのは、怒りでも焦りでもない。

 ただ静かに、言葉にできないものを押し殺すような、澱のような感情だった。


「ごめん……足を滑らせただけです」


 口にした瞬間、その場にいた誰かが短く息を呑んだ。

 続いて響いたのは、後方から走り寄る足音。そして、ピシリとした声。


「ごめん、じゃないですよアリス様!」


 言ったのは、長年仕えている侍女――クラウディアだった。年はまだ若いが、主に恥をかかせないよう徹底して教育されてきた女だ。


「『申し訳ありません』、もしくは『失礼しました』が適切です。ウェールズ家の令嬢として、言葉遣いにお気をつけください!」


 叱責というほど強くはなかった。あくまで“指導”。


 けれどアリスは、その瞬間、自分の中で何かがきしむ音を感じた。


 彼女は悪くない。むしろ正しい。

 これまで何度もアリスの振る舞いを整えてくれた、信頼できる存在だ。


 だからこそ、今の言葉はひどく重く響いた。


「……ええ、気をつけるわ」


 アリスは淡々とそう答えた。声に感情は乗せなかった。

 だがその胸の奥では、何かがじわじわと崩れていく気配があった。


 言葉一つ。姿勢一つ。全てが管理される日々。自分が自分であることを許される時間は、どこにもない。


 そして彼女は気づいてしまった。

 この広間で、ふと足を止めただけで、こんなにもたくさんの“正しさ”が彼女を囲んでくるということに。


  窓の外で、鐘がひとつ鳴った。

 午後の終わりを告げる重たく静かな音が、広間の高い天井にゆっくりと反響していく。


 その響きに耳を傾けながら、アリスはふと、

「終わらせたい」と思ってしまった。


 それは一瞬の気まぐれでも、ただの反抗でもなかった。


 心の奥底で何年も蓄積してきた物が今になって押し寄せてきたのだ。


 心の奥底で何年も蓄積してきたものが、今になって押し寄せてきたのだ。


 外の世界を知りたい――そんな衝動が、胸の奥で静かに膨らんでいく。


 誰の目も気にせずに歩いてみたい。

 誰の評価もなく、ただ自分の足で選び、進む日々があるのなら――

 それがどれほどみっともなくても、不格好でも、きっと今よりずっと自由だ。


 そう思った瞬間、アリスの中で何かが決まった。

 今夜、この屋敷を出よう。

 自分の意思で、一歩を踏み出してみよう。



 ◇




 夜になった。


 晩餐を終え、夜会の準備に入る頃――アリスは誰にも気づかれぬよう、自室へと戻った。


 扉を閉め、鍵をかける。


 使用人が入ってこないことを確かめると、彼女はクローゼットへ向かった。

 奥に押し込まれていた、地味なワンピース。

 かつて辞めてしまった使用人のひとりに譲ってもらった、灰色の粗末な布地。貴族の娘が着るにはあまりにも質素だが、いまのアリスにはそれが必要だった。


 ドレスを脱ぎ、素早く着替える。

 髪を布で隠し、帽子を目深にかぶる。鏡に映った自分は、どこにでもいる街の娘にしか見えなかった。


 机の引き出しを開ける。

 隠しておいた小袋から自分の持っている分だけの金貨を取り出し、旅人用の革袋に収める。

 干しパンを二切れ、羊皮紙の簡易地図、小さな水筒を鞄に詰めた。


 そして最後に、紙を一枚。

 インク壺の蓋を開け、筆を取り、淡々と文字を綴る。


 “これより自由研究に出かけます。探しても無駄です。”


 乱れのない筆跡は、アリス=ウェールズそのものだった。


 深呼吸。心臓が早鐘のように打ち続けている。

 けれど、不思議と怖くはなかった。むしろ、足元が軽く感じられる。


 彼女は鞄を肩にかけ、扉に手をかけた。


 この部屋も、この生活も、振り返らない。


 アリスは小さく息を吐き、静かに廊下へと足を踏み出した。


 この時間帯は、使用人が廊下を巡回することはない。

 少なくとも、あと三、四時間は安全だとアリスは把握していた。


 それもそのはずだった。

 屋敷の管理表はすべて記憶している。どの時間に誰がどこを通り、どの扉が開閉されるか。それくらい知っていて当然だった。


 足音を立てぬよう、絨毯の上をすべるように歩く。


 曲がり角をひとつ、ふたつ。

 厨房へと続く通路は、夜の間は封鎖されていない。

 昼間なら荷運びの者で賑わうが、今はひっそりとしていた。


 誰にも気づかれず、声もかけられずに、アリスは屋敷の裏手へと進んでいく。


  石畳の隙間に草の影が揺れている。月明かりが細長い輪郭を描き、風が小さく植え込みを鳴らす。


 アリスは、迷わずその間を抜けた。


 ひやりとした空気が首筋をなでるたび、身体の輪郭が薄れていくような心地がする。けれどそれは、恐怖ではなかった。むしろ解放に近い。


 通用門はすぐそこだった。


 錆びた扉枠が、夜気のなかにぼんやりと浮かび上がっている。かつて使用人が使っていたその門は、今では滅多に開かれることはない。だがアリスは知っていた。今の時間帯なら、番が手薄になることを。


 ゆっくりと近づき、扉に触れる。鉄の表面は冷たく、長年の風雨でところどころ塗装が剥げていた。だが蝶番は生きている。そっと押せば、ぎりぎりと控えめな音を立てて隙間が生まれる。


 その向こうにあるのは、夜の街――まだ彼女が一度も踏み入れたことのない世界だった。


 アリスは扉の縁に指を添えたまま、じっと暗がりを見つめた。


 屋敷の中で過ごしてきた日々のなかには存在しなかった風景。


 笑い声、車輪の軋み、小さな犬の吠え声がどこからか断続的に聞こえてくる。


 石畳の隙間には、雨上がりのような湿り気が残っていた。

 空気はひんやりと澄んでいて、どこか少し埃っぽい。それすらも新鮮に思えた。


 アリスは歩き出す。

 慎重に、足元を確かめるように一歩ずつ進む。けれどその足取りには、微かな弾みがあった。


 周囲の建物は低く、屋敷の装飾とは比べものにならないほど質素で、古びていた。扉には剥げたペンキ、窓には歪んだ格子。

 だがそれらには、整いすぎた屋敷では見られなかった“誰かの生活の痕跡”があった。


 漂ってくるのは、甘い菓子の匂い。

 それに混じって、焼けた鉄と油の香り。誰かが夜更けまで作業しているのだろう。どこも明るくはないのに、世界は確かに息をしていた。


 通りの先で、誰かがくしゃみをした。

 その音に、アリスは反射的に立ち止まった。だが姿は見えない。背の高い塀が音を反射し、方向は定かではなかった。


 屋敷では起こり得なかったこと。

 知らない音、見えない人、予測のつかない空間。


 ――いま、私は“生きている”。


 そんな感じがした。


 暫く歩いた所、交差点の向こうに一台の荷馬車が止まっていた。


 荷台にはいくつかの木箱が積まれ、布でざっと覆われている。御者台には老人が一人、ゆったりと手綱を握っていた。


 アリスは一瞬だけ迷ったが、躊躇いを押し込んで歩み寄った。


「すみません、貴方の向かう目的地まで、乗せてもらえませんか?」


 帽子を深くかぶっていたせいか、老人は彼女を一瞥しただけで、深く問いただすことはなかった。


「重くなけりゃ、構わんよ。風は冷えるが、それでもいいなら」


「ありがとうございます!」


 アリスは荷台に上がり、布の隙間に身を潜めた。

 揺れはあるが、屋敷の硬い寝台よりもずっと柔らかく思えた。


 夜風が吹き抜ける。だが寒さよりも、安堵のほうが勝っていた。




 ◇




 どこで降りたか、はっきりとは覚えていない。

 馬車から降り、開いていた宿の扉をくぐった。素泊まりで構わないと告げ、代金を払い、鍵を受け取った。


 部屋のなかは狭く、窓も小さい。

 けれど、それが今の彼女にはちょうどよかった。


 ベッドの軋む音も、隣の部屋から聞こえる笑い声も、どこか現実味があった。


 着替える余裕もなく、アリスはそのままベッドに身を沈めた。


 目を閉じると、重たく疲れた体が吸い込まれるように眠りに落ちていった。




 ◇




 翌朝。


 眩しい日差しが、狭い窓から差し込んでいた。


 アリスはぼんやりと天井を見つめながら、ゆっくりと身を起こした。


 見知らぬ天井。見知らぬ枕。聞き慣れない音。

 そのすべてが、昨日とは違う一日を告げていた。


 ――ついに、始まったのだ。


 そう思った瞬間、アリスの唇に、ほんのわずかに笑みが浮かんだ。


 とは言っても、持ち金を持っているとは言え、いつかは金が尽きてしまう。

 それは、屋敷を出ると決めたときから分かっていた。


 貴族の生活では考える必要のなかった“お金の価値”が、今や一歩踏み出すたびに付きまとう。

 宿代、食事、移動手段――何をするにも金は減っていく。


 このままでは、すぐに動けなくなる。

 どうにかしなければならない。


 アリスはベッドから立ち上がり、窓辺に歩み寄った。

 外はすでに街の音に包まれていた。通りを行き交う人々の足音、遠くから聞こえる鐘の音、店の扉が開閉する音――それらがまるでひとつの生命のように街を動かしていた。


 朝の光に照らされた街は、昨夜とはまるで違う顔を見せていた。

 だが、そのどこを見ても、自分の居場所があるようには思えなかった。


 ――何ができる?


 自問する。

 舞踏?礼儀作法?古典語? そんなもの、ここでは何の役にも立たない。


 けれど、何かしなければ生きていけない。

 見栄も、家の名も、もう彼女を支えてはくれない。


 アリスは鞄の中から小さな革袋を取り出した。

 手のひらに乗せると、軽さがひどく現実的だった。あと数日分の食費と宿代。それだけだ。


 ならば、今日動かなければ。


 彼女は身支度を整え、扉を開けた。


 この街で、生きるために。




 ◇




 夜になっても、何をするか決まることはなかった。


 街を歩き、掲示板を見て、店先の張り紙に目を通してみた。けれど、どこも今すぐに人手を必要としている様子はない。職そのものが不足しているわけではないようだった。

 人々は朝から働き、日が落ちるころにはあちこちで店が開き、荷車が忙しなく通りを行き交っている。


  問題は、アリスが“何者でもない”ことだった。

 名前を告げるわけにもいかず、身元を証明する手段もない。


 それに、どの店の主人も、彼女の細く白い手を見れば一目で「何もできない子だ」と思うだろう。


 そのたびに、アリスは黙って店先を離れるしかなかった。


 空が群青に染まり、街灯に火が入るころ――

 アリスの鞄のなかには、昼に食べた硬いパンのかけらがひとつ、残っているだけになっていた。


 お腹の空いたアリスは、その酒場に入ることにした。


 酒場の中に入ると、どこか落ち着いた温かみがある場所だった。


 天井からは古びた木製の梁がむき出しで伸び、低く揺らぐランプの光が薄暗く照らしている。


 壁には色あせた布地や誰かの忘れ物と見られる古い帽子が飾られており、年月を感じさせる装飾が店内に穏やかな雰囲気を醸し出していた。


「いらっしゃいませ。お食事ですか、お飲み物ですか?」


「おすすめの料理とワインをお願い」


「かしこまりました。本日のおすすめは山の幸を使ったシチューと、自家製のパンです」


「それをお願いします!」


 店員は静かに瓶を手に取り、アリスの前に置かれたグラスにワインを注いだ。透明な液体がグラスに注がれる音が心地よく響く。


 店員は瓶を軽く傾け、グラスの半分ほどまで注ぐと、丁寧に瓶を戻し、穏やかな笑顔を浮かべた。


「お楽しみくださいませ」と一言添えて、店員は静かにその場を離れていった。


 グラスに注がれたワインは、テーブルの柔らかな灯りを受けてほんのり赤くなっていた。


 しばらくして運ばれてきた料理は、湯気を立て、食欲をそそる香りが漂っていた。シチューは濃厚で、柔らかく煮込まれた肉と新鮮な野菜がたっぷりと盛られている。パンは外がカリッと、内側はふんわりとしており、シチューとの相性は抜群だ。


「んー!美味しい!」


 口の中に広がる深い味わいと、心のこもった料理に、思わず心が和んだ。誰かが作ってくれた温かい食事を味わうのは、本当に久しぶりだった。


 食事とともに楽しむワインは、料理の味わいをさらに引き立てた。


 今年、やっと飲める年齢になったばかりのアリスにとって、ワインは贅沢な体験だった。


 とは言っても、彼女はウェールズ家で散々、酒を鍛えられていたので酔う事はなかった。


 食事を終え、満足感に浸りながら店主に声をかけた。


「とても美味しかったです!ごちそうさまでした!」


「それは良かった。お口に合って何よりです。」


 彼女は会計を済ませた後、外へ出る前に、店内の掲示板をざっと見た。しかし、特に目を引く情報はなかった。


 この店でも仕事は足りているのだろう。


 他へ行こうとドアに手を掛けた時、奥から店主が突然話しかけてきた。


「お嬢さん、もし仕事を探しているなら、これを見てみないかい?」


 店主はカウンターの下から一枚のチラシを取り出し、アリスに手渡した。


「これは?」


「先週、常連の商人さんが置いていったチラシさ。『商人募集中』と書いてあるだろう?毎晩ここに飲みに来てるから、興味があれば翌日に寄ってみるといい。」


 アリスはチラシに目を通した。


 手書きの文字が少し雑な印象を与えながらも、その内容はしっかりとしたものだった。旅をしながらの商売という魅力的な仕事に、アリスは少し心を引かれた。


 この街ではなく、世界を渡り歩く。決められた家もなく、定まった職場もなく、それでも誰かの役に立ち、金を稼ぎ、生きていける。


 それは、アリスが知っていたどの生活とも違っていた。


 もちろん、理想ばかりではないのだろう。

 道中の危険、寝場所の不安定さ、日銭を稼ぐことの難しさ。想像できる不都合は数えきれなかった。


 それでも、今の彼女には――その不安すら、むしろ“現実の一部”として魅力的に映った。


 屋敷にいた頃の“安定”は、確かに整ってはいたが、どこまでも息苦しかった。

 ならば、いっそ不安定のほうがいい。

 先が見えないというだけで、それは選ぶ余地があるということなのだから。


 アリスは紙片をそっと折り、ポケットにしまった。


 すぐに動くつもりはなかった。けれど、心には芽が生まれていた。


 ――会って、話を聞いてみようか。


 そう思ったとき、彼女の世界がまたひとつ、広がったような気がした。


「明日来た時、『クロノールのお客だ』と店員に伝えて欲しい。彼の所へ案内してくれるよ」


「私の名前はアリスです!よろしくお願いします」


 とアリスは礼儀よくお礼をする。


「そうか、アリスか。彼に伝えておくよ」


 どうやらこの酒屋の店長はクロノール・アウレという名前らしい。体格が良く、どっしりとした印象を与える人物だ。


 クロノールの左目には大きな傷があり、それは戦士の誇りとして眼帯を付けずにいるという。


 酒屋の常連にとっては見慣れた光景だろうが、初めて来た人には心臓に悪いものだった。もしかしたら、そういう理由で厨房の奥に籠っていたのかもしれない。


「ありがとうございます。是非!」


 アリスは店主に感謝の意を伝え、酒屋を後にした。



 酒屋を出ると、夜の街はすでに静かになっていた。昼間の喧騒が徐々に収まり、石畳の道には冷たい夜風が吹き抜けている。街灯が淡い光を放ち、石畳に長い影を作っていた。


 頭上には、澄んだ夜空が広がり、星がまばらに輝いている。


 アリスにとっては思わぬ収穫だった。夕方に職を探し始めた頃には、こんなに早く仕事の機会が見つかるとは思っていなかったのだ。


「やっぱり、行動してみるものね。」


 アリスはそう言い、人がいない所でそっとニッコリした。


 彼女はその夜の出来事を振り返りながら宿に戻り、部屋着に着替え、ベッドに横たわった。


 クロノールが紹介してくれる商人はどんな人なのだろうか。胸が高鳴る。


  この鼓動は、彼女が閉鎖的な環境で生まれ育ったからこその願望なのだろうと、アリスは自分に言い聞かせた。


「明日はきっと良い日になる……」


 そう思いながら、アリスはゆっくりと瞼を閉じた。




 ◇




 後日、アリスは夜になってから例の酒屋へ向かうことにした。


 その日の昼には彼女は少し身の回りを整えようと、昼間のうちに街を歩き回り、余っているお金で服を調達していた。


 屋敷にいた頃は、自由な服など着れなかったので、新しい服を手に入れるのは少し特別な気分だった。


 控えめでありながら動きやすさを重視した服装。地味すぎず、かといって目立ちすぎないようなデザインが相応しい。どんな職業に就くしろ派手な服はマナーに欠けるからだ。


 夕方、アリスは宿に戻り、部屋で着替えを済ませた。鏡に映る自分の姿は、以前の使用人から貰った質素な服とは違い、少し可愛いらしい服装であった。


「これで準備は整ったわね。」


 アリスはそう呟くと、夕暮れが次第に夜の帳に変わるのを待ちながら、クロノールに会うために例の酒屋へ向かう事にした。


 酒屋に到着すると、外からは楽しげな笑い声と温かな光が漏れていた。アリスは深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、扉を開けて中へ入った。


「いらっしゃいませ。」


 アリスは酒屋の店内に足を踏み入れた。彼女はカウンターへと歩み寄った。先日案内されたとおり、店員に声をかける。


「クロノールのお客だと伝えていただけますか?」


「おお、アリスか。随分とおしゃれをしてきたじゃないか。」


「えへへ、少し可愛くしたんだ」


「まぁ、とりあえず座ってくれ。今日は少し長くなるかもしれない」


 アリスはその言葉に頷きながら、席についた。酒屋の声でうるさい中、二人の会話は始まった。


「紹介する商人の話だが、彼は信頼できる人物だ。ただ、ちょっとな……」


「ただ?」


「まあ、会えばわかるさ。俺は彼の事は面白いと思うがな」


 クロノールの言葉に、アリスはわずかに眉をひそめた。「面白い」という言い方が気になったが、詳しくは聞かなかった。


「少し待ってくれ、個室の方が静かに話ができるだろう。」とクロノールが言い、彼はアリスを酒屋の奥にある個室へ案内した。


 酒屋に個室があることに驚きながらも、アリスは無言でクロノールの後をついていった。


 どうやら、どの酒屋にも基本的には個室があるらしい。「縁の始まりも酒屋から」なんて言葉はないのだが、それ程に酒屋は、出会いと商談の場に使われる事が多いらしい。


 個室に入ると、狭いが居心地の良い空間が広がっていた。木製のテーブルと椅子が整然と並び、壁には古びた地図が飾られている。


「少し待っていてくれ。例の商人を呼んでくる。大丈夫だといいんだがな……」


 何か含みのある言い方を残して、クロノールは

 部屋を出ていった。


 アリスはテーブルの上にある小さなランプの灯りを見つめていた。


 商人とはどんな人物なのだろうか。そして「癖」とはーー


 しばらくして、クロノールが扉を開け、例の商人を肩に抱えて入ってきた。商人はどこか酔った様子で、支えなしでは立てないように見えた。


「すまない、アリス。どうやら今日はダメな日らしい。酒を飲みすぎていた」


 クロノールは苦笑いを浮かべ、商人を椅子に座らせた。


 商人は朧な足取りで、なんとか椅子に腰掛けると、しばらくぼんやりとした目でアリスを見つめていた。


 彼の瞳は焦点が合っていないようで、何かを考えるというよりは、ただ視線が漂っているだけのようだった。


 彼は何度かまばたきをしてから、ようやく口を開いた。


「俺は……オリヴァだ……君が……例の……?」


「多分人違いです!知りませんよ、こんな人!」


「おいおい……じゃあ、何でこのテーブルに座ってるんだい……?希望者じゃないなら……何の用だ……?」


 アリスは内心、軽い失望をしていた。ここに来るまで、どんな商人が来るのかと期待していたが、目の前にいる酔っ払いだとは思いもしなかったからだ。


 大切な何か物をこの状態の男に託すなど、到底出来るものではなかった。


 クロノールは持ってきたコップをテーブルの上に置く。オリヴァはコップを無造作に手に取り、ぐいっと一気に飲み干した。


「だってここの店は美味いんだよ、ここのお酒は骨まで染みるようだ……」


「そうですか!頑張って下さいね!では!」


 と、アリスは席を立とうとする。


「だから言ったんだろ、オリヴァ。人と会う時は酒は辞めとけって。お前、そうやっていつも振られてるだろ」


 とクロノールは呆れた顔をした。


 しかし、その瞬間、オリヴァが慌ててアリス手を振りながら笑った。


「待て、待てよ!そりゃ、少し飲みすぎたが、まだ終わっちゃいないぜ!」


 彼の声にはわずかに焦りが含まれていたが、同時にどこか自信も感じられた。その態度に、アリス一瞬足を止めた。


 オリヴァは今度は椅子から身を乗り出し、彼女に語りかけた。


「俺は……ただの酔っ払いに見えるかもしれないが……俺には夢があるんだ。 自分の店を持ちたい。」


「店を持つ、ですって?」


 アリスは問い返した。


「ああ、店だ。小さな場所でもいい。でも、俺が一から作り上げた空間で、お客さんに幸せを届けたいんだ。酒には色んな味があるように、店にも色んな味があるんだ。この場所みたいにな。」


  酔っ払いにしては、中々の饒舌っぷりだった。


 だが、その言葉には熱があった。酒の勢いだけとは思えない、積み重ねてきた想いの重みがあった。


「……分かった。少し考えさせて欲しい」


 アリスはそう言って立ち上がった。


 彼女はすぐに決断を下すことはできなかった。


 彼が語る夢は魅力的ではあったが、信用するにはまだ早いからだ。


「いいさ、考えてみな。明日の朝までここで待ってるよ。俺は行商人だから、昼前には街を出発する。決めるなら早めにな。」


 オリヴァは少し疲れた様子で笑い、ぐっとコップを傾けながら静かにうなずいた。


「分かった、明日またここに寄るよ」


 そう言い、アリスは自分の分の代金を支払い酒場を出た。夜風が肌に冷たく、街灯の明かりが揺れる路地を一歩一歩進むたびに、心に静かな波紋が広がるのを感じた。


 昨日までの彼女なら、こんな男の話に耳を傾けることなどあり得なかった。しかし、彼の語る夢が頭から離れない。


 部屋に戻り、ベッドに腰掛けると、ふと窓の外を見つめた。冷たい風に吹かれながら、彼女は昨夜とは違う何かを感じていた。どこか心が落ち着かず、何かを期待しているような、そんな不思議な感覚に包まれていた。アリスはその夜、なかなか眠りにつくことができなかった。




 ◇




 次の日の朝、アリスは再び酒場へと足を運んだ。


 まだ彼に対して深い感情があるわけではなかったが、彼の語る夢やその自由奔放な生き方に、どこか惹かれている自分に気づいていた。


 酒場に入ると、昨日よりも少しだけ静かな雰囲気が漂っていた。


 しばらくすると、奥からクロノールが現れ、にこりと笑いながらアリスに近づいてきた。


「来てくれたか、アリス。オリヴァは少し外で用事を済ませているが、すぐに戻ってくるだろう。よかったら待っていてくれ。」


 アリスは軽く頷き、昨日のことを思い返していた。酔ったオリヴァは、決して理想的な出会いではなかったかもしれないが、あの情熱だけは一晩経っても頭の中に残っていた。


 やがて、オリヴァが酒場の扉を開けて入ってきた。昨日とは違って今日はしっかりとした足取りで、彼の目は澄んでいた。


「アリス、来てくれたんだな。」


「ええ、酔ってない貴方に興味があって」


 アリスが静かにそう言うと、オリヴァはすぐにテーブルの席に案内した。店長のクロノールが直々彼らに軽い飲み物を出した。


「昨日は申し訳なかったな。酒を飲みすぎて、まともに話せなかったが、今日はちゃんと話せる。」


 オリヴァは真剣な表情でアリスを見つめながら語り始めた。彼の話す夢は、ただの一商人として生きるのではなく、いずれは自分の店を持ち、同行する者と共同経営をしたいとの事だった。


「もし、俺と一緒に旅をしてくれるなら……君の才能の何かが輝くかもしれないし、君の知らなかった自分に出会えるかもしれない。だからどうだ、一緒に来ないか?」


 そう語るオリヴァの声には、思いのほか真剣さが滲んでいた。


 アリスは少しだけ目を見開いた。


 “自分の知らない、自分。”


 それはまさに、彼女が今この街に立っている理由だった。誰かの思い通りに育てられ、決められた未来を歩かされるだけの日々――そこから抜け出した彼女が、一番知りたかったもの。


「……でも、私はそういう経験はほとんどないわよ。商売も、旅も、それほど詳しくないし、役に立てるかどうか……」


 アリスは少し言葉を濁しながら答えた。


「経験がなくても大丈夫さ。大事なのはやる気と覚悟だ。俺も最初は何も分からなかったけど、少しずつ学んでここまで来た。君なら、きっと俺以上にすぐに覚えられるよ。」


 アリスは暫く悩んだ後、 小さく息を吐いて、目を伏せた。


「……わかったわ。あなたの旅に付き合ってみる。」


「本当か!!本当なのか!?」


 とオリヴァは勢いよく席を立ち、オリヴァは大きな手で彼女の手を握めぶんぶんと降った。


 アリスは、握られた手の勢いにたじろぎながらも、無理に振りほどこうとはしなかった。


 彼の手は大きくて荒れていて、これまで触れてきた誰の手とも違っていた。けれどそこには、確かに温もりがあった。


「そんなに嬉しいの?」


 アリスが苦笑混じりに問うと、オリヴァは顔をほころばせたままうなずいた。


「ああ、嬉しいさ!信じてくれる人がいるって、すげぇことなんだよ。たとえ一人でも、一緒に前に進もうって言ってくれる相棒ができたら――それ以上に心強いことはない」



 “相棒”という響きに、アリスの胸の奥が微かに震えた。


 今まで、そんなふうに並び立つような関係を結んだことがあっただろうか。

「教えられる者」として、「守られるべき娘」として生きてきた彼女にとって、それは初めて与えられた対等な言葉だった。



「……じゃあ、よろしくね。相棒さん」


 そのひと言に、オリヴァは破顔し、クロノールは黙って頷いた。


「善は急げだ。今日中にら出発しよう、何か荷物はあるか?」


「荷物と呼べるほどのものは、もうほとんどないけれど……」


 そう言って、アリスはふっと笑った。


 ――それでも、これから増えていくのだろう。物も、経験も、そして“自分”も。


 それは、彼女にとって“本当の旅”の始まりだった。




 ◇




 アリスは、クロノールから簡単な説明を聞いた後に、酒場を後にした。


 宿に着くと、彼女は静かに自室の鏡の前に立った。長い旅路を前にして不安がないわけではない。しかし、鏡に映る自分の姿を見つめると、以前とはどこか違って、少し輝いているような気がした。


 それは、ただの貴族や、アリス・ウェールズとして生きていた頃の自分ではなく、新たな道を進もうとしている自分だった。


 彼女は荷物を持ち宿を出ると、オリヴァが馬車を連れてやってきた。彼は手綱を握り、軽く笑ってアリスに声をかける。


「準備はいいかい?今日から長い旅だ」


「ええ、もちろん。楽しみにしている!」


 オリヴァはにっこりと微笑み、アリスの荷物を軽々と馬車に積み込んだ。


「その調子だ。君ならきっとすぐに旅に慣れるよ。さあ、行こう」


 アリスはその言葉に勇気づけられ、馬車に乗り込んだ。


「今日にはここを出るんでしょ?どこに向かうの?」


「カラエだ。大陸南東部、ここからずーッと南下していく。」


「カラエ?どんな場所なの?」


「カラエはね、その名の通りカラッとした土地なんだ。風は乾いてて、夏は特に暑い。だけど、その厳しい気候のおかげで、保存のきく商品が多く集まるんだよ。食料品や香辛料なんかは特にね。」


 とオリヴァは詳しく説明した。


「流石オリヴァだ。」と、アリスは感心して思わず呟いた。酒を飲んでいない彼は、これほど頼りになる人物だったのだと改めて感じさせられる瞬間だった。


 馬車はゆっくりと街を離れ、まだ知らぬ世界へと走り出した。


 振り返ることはしない。アリスは前を向いて、風を感じていた。


 それは、誰かの敷いた道ではない。

 彼女自身の足で選んだ、最初の一歩だった。




 ◇




 アリスとオリヴァは共に旅に出ることになった。


 彼らは各地を回り、様々な人々と出会い、商売をする中で、少しずつ信頼を深めていった。


 アリスは旅をする中でオリヴァの「悪い癖」をもう一つ見つける事ができた。


 それは女癖が悪い事であった。


 ある夜、二人が宿に泊まったときのこと。オリヴァは酒場で出会った女性たちと気軽に話し込み、笑いを交わしていた。


 その場面を遠くから眺めていたアリスは、女性たちの中にオリヴァに興味を抱く者がいることにすぐに気づいた。


 しかし、その興味とは好意ではなく、商売としての利益を狙ったものであることがはっきりと分かった。


 アリスはオリヴァの軽薄な振る舞いを見つめながら、心の中でため息をついた。「まさか、これから先、オリヴァの女と酒の管理まで自分がしなければならないのか……」と、半ば諦めにも似た思いが湧き上がってきた。


 彼は商売の腕は確かだが、女と酒に対するだらしなさは一向に改善されそうにない。それがアリスにとって、今後の旅での新たな悩みの種になりつつあった。



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※オリヴァは酒癖+女癖が悪いです。

その為、帳簿の管理はアリスが担当しています。

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