14 海奈の話
ある朝、海奈が花琳と一緒に談話室に居ると、扉が開いて琴森がやって来た。
「海奈さん、少しいい?」
「どうかしたんですか?」
「中央支部に電話がかかってきたの。あなたのお母さんからみたいだけど……出られそう?」
「っ……母さん、から…………」
海奈の脳裏に、小さい頃に母から受けた仕打ちが蘇る。女の子らしくしろと怒鳴り散らされたこと。お前はいらないと殴られたこと。……包丁を向けられたこともあった。それこそ、先日の任務で高次元生物に見せられた幻のように。
(あんなことしておいて……今更、俺に何の用だよ……!)
海奈が険しい顔をしていると、琴森は優しく
「海奈さん……無理そうなら、こちらから断っておくから、大丈夫よ」
と、言ってくれた。
「琴森さん……すみません。俺、母さんと話せそうにない、です」
「……うん。分かったわ。じゃあ、断っておくから。心配しないでね」
「……はい。すみません」
海奈は頭を下げて、部屋を出ていく琴森を見送った。その様子を見ていた花琳が、海奈に歩み寄って背中をさする。
「海奈。……大丈夫だからね。……大丈夫」
「大丈夫」と、海奈を安心させようとしてくれる花琳。その表情は、言葉とは裏腹に心配そうに歪んでいた。
「姉さん……。うん。もう大丈夫だよ。ありがとう」
海奈が頑張って笑顔を作ると、花琳は不安げだったものの、やがて優しく微笑んでくれた。
その笑顔を見て、海奈はふと、特部に来たばかりの頃のことを思い出した。
(……姉さん、昔からこうやって、俺のことを守ろうとしてくれてたな。家出同然に中央支部に来た、あの時も……電車の中でずっと手を握ってくれてた)
* * *
「海奈、一緒に家を出ましょう。家を出て……特部に入って、自分達だけで暮らしていきましょう。大丈夫。姉さんがついてるから」
海奈が中学1年生だった頃の夏休み、花琳と海奈は、一通の置き手紙を残して家を飛び出した。
リュックサックに詰めたのは、2、3日分の着替えと、お小遣いが全額入った財布だけ。全額といっても、中学生のお小遣いなんて大した額じゃない。せいぜい、2人で足して1万円ぐらいだ。しかも、その1万円も天ヶ原町までの電車代で半分以上無くなってしまった。
当時、海奈には東京に知り合いなんていなかった。特部に入れてもらえなかったら行く宛てもない。それに、帰りの電車賃も足りない。その時はただ、不安でいっぱいだった。
2人が中央支部に着いたのは、すっかり日が暮れた後だった。入口に入るなり、花琳は身を乗り出す勢いで、窓口にいる琴森に頼み込んだ。
「あの!ここで1番偉い人に会わせて下さい!私達、特部に入りたいんです!」
花琳の必死な様子に、琴森は戸惑う。
「と、突然そんなこと言われても困るわ。あなた達、どこから来たの?親御さんは?」
親御さん……その言葉に、海奈の体がビクリと強ばった。両腕を抱いて僅かに後ずさった彼女の、その些細な挙動を、琴森は見逃さなかった。
「……何かワケありみたいね。ゆっくり話を聞かせて欲しいから、事務室に来て。案内するから」
琴森はそう言うと、窓口になってる部屋から出てきて、海奈と花琳を事務室に連れて行ってくれた。
……事務室のドアを開けると、何人か制服を着た職員がデスクでパソコン作業をしていた。その中には、2人の母と同じくらい年齢に見える女性もいたため、海奈は恐怖のあまり顔をあげられなかった。
琴森は、部屋の隅にある応接スペースの小さなソファに海奈達を案内すると、向かい側のソファに座って2人に優しい笑顔を向ける。その笑顔は、きっと海奈の様子を見て気を遣ったものだろう。
「……自己紹介してなかったわね。私は琴森聡美。特部中央支部の職員です。あなたたちのことも、教えてくれる?」
「私、美ヶ森花琳です!こっちは妹の海奈です。私達、特部に入りたくて……」
「本当にそれだけ?」
花琳の一生懸命な返答に対して、琴森は鋭い質問を投げつける。
「ただ特部に入りたかったから、ここに来たの?」
「っ……えっ……と…………」
「……結論から言うわね。戦う覚悟がない人を、特部に入れることはできません。なぜなら、危険すぎるから」
「っ…………!」
「もし、大した理由もなくここに来たなら、帰ってもらうしかない。…………でも」
そこまで言って、琴森は、海奈のことを真っ直ぐに見た。その視線に緊張してしまい、海奈は思わず視線を逸らしてしまう。
「……海奈さんって言ったわね」
「っ、は、はい……」
「あなた、ここに来てから、ずっと何かに怯えてる。……何か、ここに来なきゃいけない訳があったのよね」
「っ……えっと、それ、は……」
何年もの間、母親に責められ続け、殴られたこと。それを言おうとして、は口を噤んだ。
(もし……ここで、本当のことを言ったら、母さんは絶対に俺を責める。それは……嫌だ……)
何も言えずに黙ってしまう海奈に対して、琴森は静かに告げる。
「あなた達を特部に入れることはできない。でも……保護する事はできる」
「……保護…………?」
目を丸くする海奈の隣で、花琳が呆然とした様子で琴森に尋ねる。
「海奈のこと…………助けてくれるんですか?」
「ええ。特部は警察アビリティ課の姉妹組織。警察とも繋がっている。だから……警察から許諾を受ければ保護も可能よ」
「っ…………じ、じゃあ、もう、母さんのところに帰らなくても、いい、の……?」
「そうね。あなた達が、事情を話してくれれば……私達もあなた達のことを守れるわ。だから、お話してくれる?」
琴森はそう言うと、優しく微笑んで海奈を見た。その優しい笑顔に、安心して…………海奈の目から、堰を切ったように涙が溢れた。
海奈は泣きじゃくりながら、今まで受けてきた仕打ちを訴えた。花琳は、その間ずっと海奈の手を握っていた。そして、琴森も、彼女の話を一切否定せずに、静かに話を聞いてくれた。
全て話し終わり、総隊長である千秋にも話が通った後、海奈と花琳は正式に特部で保護されることになったのだ。
* * *
特部に保護されて以降、海奈と花琳は毎日のように特部の手伝いをして生活していた。
しかし、一度……司令室のモニターで、自分達と歳が変わらない銀髪の男子が、1人で高次元生物の相手をしているのを見た時、海奈の心にある思いが芽生え始めた。
(俺も……戦うことで、ここにいる人達の力になりたい)
海奈には分かっていた。自分達がしてる雑用は誰にでもできることであり、自分達の肩身が狭くならないように、千秋が気を遣って与えてくれた仕事なのだと。いつまでも、そんな状態でいるのは嫌だった。
モニターで見ていた戦闘が終わった時、海奈は傍らの花琳に尋ねた。
「姉さん、あたし達も……彼みたいに、戦えないかな?」
海奈の言葉に、花琳は力強く頷く。
「海奈、私も同じことを考えてた」
花琳にそう言われ、海奈は覚悟を決めて頷く。
「姉さん、戦おう。強くなって……ここにいる人達の、力になろう」
こうして、意思の決まった2人は相談し、琴森に頼んで訓練をつけてもらうことになったのだ。
筋力トレーニング、アビリティを使った戦闘訓練、体力を鍛えるための走り込み……様々な訓練をこなし続けて、数ヶ月後。2人は、千秋に課された、VRでの仮想戦闘試験に挑むことになった。
2人は、普段隊員が訓練で使うものと同じ、ヘッドホンの形をした『感覚同期装置』を頭に着けた。この装置は、VRによる仮想戦闘で発生した視覚・聴覚・痛覚の変化を実際に体感するための装置である。
2人が装置を着けた瞬間、目の前が天ヶ原町の住宅街の景色に変わり、眼前に燃え盛る長髪と岩石の体を持った人型の高次元生物が現れた。
この高次元生物には、花琳の『植物』の力は相性が悪いものの、海奈の『水』の力は効果的だ。
千秋は、仲間の不利を補えるチームワークがあるのかを見ている。海奈には、それがすぐに分かった。
「姉さん」
海奈は、相性の不利に気づいて不安げな顔をする花琳を真っ直ぐに見つめ、声をかけた。
「2人で勝とう」
花琳は、その言葉にしっかりと頷き、高次元生物に向かい合った。
「私が海奈をサポートする!海奈は相手を攻撃して!!」
そう叫び、花琳が大地を踏みしめると、高次元生物の足元から太い蔦が生えてきた。
「絡んで……!」
高次元生物の身体を花琳の蔦が縛る。それを確認するや否や、海奈は、敵の眼前に突っ込んだ。
(あたしの『激流』でこいつの首を貰う……!)
しかし、海奈が『激流』を放とうと構えた次の瞬間、高次元生物の身体が勢いよく燃え盛ったのだ。
「なっ……!?」
海奈はギリギリで立ち止まったが、高次元生物の炎による熱風に巻き込まれ、顔を庇った腕に火傷と同じ痛みが走った。
「あっつ……」
海奈が怯んでいる間もなく、高次元生物は燃える身体で彼女に迫る。
赤い炎を纏った拳が海奈に襲いかかったその様子を部屋の外のモニターで見ていた琴森は、訓練装置を停止させようとしてキーボードに手を伸ばした。しかし、千秋がそれを手で制する。
「しかし、このままでは……!」
「大丈夫だ。よく見ろ」
「え……?」
琴森は千秋に促されて再度モニターを見て、目を丸くした。
「海奈から離れて!『木の葉』!!」
海奈に炎の拳が炸裂する直前、花琳の放った鋭利な木の葉が、高次元生物の両目に刺さったのだ。
高次元生物は痛みのあまり、ふらつきながら後ろに後ずさる。
「海奈、今よ!」
花琳の声に、海奈は頷き手を前に構えた。
「喰らえ!『激流』!!」
次の瞬間、海奈の放った激しい水流が、高次元生物の岩の首を削り落とした。
髪の炎が消火され、ただの岩石と化した高次元生物の首がゴトリと落ちる。その音とも、に海奈はその場にへたりこんでしまった。
「か、勝った……?」
「海奈……!」
へたりこんでいる海奈の元に、花琳が駆け寄り、その肩を支えた。
「海奈、大丈夫?」
「姉さん……」
まだ放心状態なのか、海奈は頷くことすらままならない。そんな彼女を花琳が不安げに見ていると、訓練施設のドアが開いて千秋と琴森が入ってきた。
「2人とも、装置を外してくれ」
千秋の声が聞こえて、2人は感覚同期装置を外す。すると、周りの景色が訓練施設に戻り、部屋に入ってきた千秋と目が合った。
千秋は2人を見ると、優しい顔で微笑む。
「花琳。土壇場で『木の葉』を放った君の判断力と命中力、見事だった。海奈、君の力も素晴らしいものだった。あの固い身体を持つ高次元生物の首を落とす程の『激流』の威力……他に類を見ないだろう」
千秋はそう言うと、2人に向かって両手を差し伸べた。
「君達を、正式に隊員として迎える。2人とも。これからは隊員として、よろしく頼むぞ」
花琳と海奈は、覚悟を決めた顔で頷き、千秋の手をしっかりと握った。
「はい……!」
千秋の手を取り立ち上がった海奈の瞳は、彼に認めて貰えた喜びで、僅かに潤んでいた。
* * *
(その後、仲間も増えて、賑やかになって……ずっと言えずにいた、トランスジェンダーのことも打ち明けられた。みんな、そんな俺でも認めてくれて……やっと、前に進めたんだ)
海奈はそこまで思い返して、目を伏せる。
(なのに……母さんは、今になって何で俺に電話なんてしてきたんだ?もう俺は、あの家に戻るつもりなんて、ないのに……)
母のことを考えてしまい、海奈が憂鬱になってしまっている時だった。
『山梨県美鶴市で高次元生物が発生しました!隊員は直ちに出動してください!』
真崎さんのアナウンスが入った瞬間、海奈は固まってしまった。
美鶴市は……海奈と花琳の、故郷だったからだ。
「……海奈、大丈夫よ。私がついてる」
花琳は静かにそう言うと、海奈の手を握った。
「姉さん……」
今、待機している隊員は海奈と花琳だけ。自分が行くしかないのだと、海奈は覚悟を決めて頷いた。
「……うん。姉さん、行こう」
海奈は花琳の手を離し、彼女の前を走ってワープルームへと向かった。
* * *
美鶴市にある噴水公園。本来であれば多くの人が穏やかな時間を過ごしているそこに、黒い肌で大きな体をした化け物がいた。その体の多くは脂肪で、顔には目が1つしかない。そして、敵の周りには、多くの人がぐったりとした様子で倒れている。
『相手のアビリティは『吸収』です!周囲の人の体力を奪って、自分のモノにする力です!体力を奪う攻撃に注意してください!』
「了解!」
体力を奪うとなると、迂闊に近づくのは危険だ。幸い、海奈も花琳も遠距離型だった。
「姉さん、相手に近づきすぎないように戦おう。2人で撹乱して、隙をついて銃でとどめを刺す。どうかな?」
「分かったわ。……じゃあ、私は反対方向からいく!」
「うん。……いくぞ!『激流』!!」
海奈は勢いよく水流を放つ。水流は高次元生物に当たったが、多くの人の力を吸収しているからか、その巨体は倒れない。
水流に反応した高次元生物が海奈を睨み、のしのしと近づいてくる。海奈はいつでも攻撃できるように構えたまま、ゆっくりと後ずさった。
「『木の葉』!」
花琳が繰り出した鋭い葉の渦が、背後から高次元生物を捉えて切りつける。
「グ……ウォォォ……!」
それに怒ったのか、高次元生物が、地面を強く殴りつけた。すると、地面が大きく揺れて海奈は体勢を崩してしまう。
「海奈!」
花琳の声で顔を上げると、目の前に高次元生物が迫っていた。
「ッ……!そう簡単にやられるか!『白糸』!」
海奈が手を地面につけて叫ぶと、高次元生物との間に大きな波が打ち上がった。高次元生物は波に怯み動きを止める。その隙に、海奈は高次元生物と距離を取った。
「ウォォォ……!」
高次元生物は咆哮を上げて右手を掲げる。すると、その右手から紫色の光線が放たれた。
「っ……!」
絶え間なく放たれる光線を、海奈は走って躱す。光線がマントの裾を掠めて、海奈の鼻に焦げ臭い匂いがこびりついた。
『海奈さん!あの光線が『吸収』の正体です!あれに当たれば、体力が吸収されてしまいます!』
「く…………了解ッ!」
(敵の攻撃に当たる訳にはいかない……。でも、逃げてばかりじゃ埒が明かない。攻撃の手を止めちゃダメだ!)
「『水柱』!」
海奈は走りながら高次元生物の足元に水流を放つ。すると水で濡れた地面から、勢いよく水が吹き上がった。
「グ……!」
高次元生物が、それを躱すのに失敗して転倒する。そこを、花琳がすかさず『蔦』で縛った。
「海奈!今よ!」
花琳の言葉に頷き、海奈は腰のポーチにある銃を手に取り、放とうとした。しかしその時、高次元生物の『光線』が当たっていたのか、高さのある石造りの噴水が、グラリと崩れ始めたのだ。そして、その近くに、1人の女性が倒れているのにも、海奈はすぐに気がついた。
「……!危ないッ!!」
海奈は銃を捨てて、その女性の傍に駆け寄ると、崩れてくる噴水の頭に向かって、『激流』を放った。
激しい水流によって、噴水の頭が押し返される。やがて、その大きな石の塊は、噴水の下に溜まった水の中に落下し、大きく飛沫を上げた。その水飛沫が激しく降りかかり、海奈は思わず目を閉じる。
「ッ…………!」
顔にかかった水を腕で拭い、海奈は女性の無事を確認しようとしゃがみこむ。
「大丈夫…………っ、え…………?」
そして、気づいてしまった。その女性が、海奈自身がずっと恐れていた人だということに。
「母、さん…………」
海奈の口から、そう零れると、その女性……海奈の母は、虚ろな目のまま娘を見た。
「海奈…………」
高次元生物に体力を吸われたからか、その瞳に生気は無く……海奈を怒鳴りつけてきた、あの時の母の面影は、どこにも無かった。
しかし……。
「っ…………、はぁっ、はぁっ…………」
怖くて、呼吸が上手くできない。
(何してるんだ、俺……大丈夫ですかって聞かなきゃダメだろ?俺は特部なんだから……。それなのに、こんな態度じゃ……また、母さんに責められる……!)
「海奈」
女性が、もう一度海奈の名前を呼んだ。次に言われる言葉が怖くて、海奈はズルズルと後ずさってしまった。しかし、そんな彼女に対して、女性が発したのは意外な言葉だった。
「ごめんなさい、海奈」
「……っ、え…………?」
海奈は耳を疑った。母が自分に謝るなんて、信じられなかったから。
しかし、彼女の目は確かに海奈に向けられている。高次元生物のせいで体に力は入らないようで、こちらに近づいてくることは無かったが……辛うじて動かせるのであろう左腕を、海奈に向かって伸ばしていた。
まるで、彼女を抱きしめようとしているかのように。
「ごめんなさい……普通に産んであげられなくて、ごめんなさい…………」
海奈の母の頬を、涙が伝った。
「あなたに……普通の幸せを掴んで欲しかった。なのに……それができない身体で産んで、ごめんなさい…………私のせい。全部、私の、せい…………」
海奈の母は、そう言ってボロボロと涙を零す。その姿が、海奈の胸を、チクチクと刺した。
(母さんは、俺を普通に産めなかったことを、ずっと後悔してたんだ。だから、俺が普通に生きられるように……女性らしく生きることを、強要していた。俺を幸せにしたい一心で、俺のことを、責めてたんだ。でも…………。でもさ……!)
「普通の幸せって……なんだよッ!!」
海奈は、母親を睨みながら、叫んだ。
「俺にとっての普通の幸せは……俺のこと、受け入れてもらえることだよ!!友達や、姉さんや、父さんや……母さんに!」
初めてぶつけた本音と共に、海奈の目から涙が堰を切って溢れ出す。
「なんで…………ありのままの俺のこと、愛してくれなかったの…………」
「海奈…………」
「俺……母さんに、愛されたかったよ。…………普通の、家族みたいに…………!」
ドロドロとした、何年も何年も煮詰めた真っ黒な感情が、嗚咽と共に吐き出されていく。
その感情を受け止め、海奈の母親もまた涙を流しながら、彼女に手を伸ばすのをやめなかった。
「海奈……。ごめん、なさい。ごめんなさい…………。私、あなたのためにしたことで、あなたのこと、苦しめてた…………」
「今更、謝られたって…………俺、どうしたらいいんだよ…………」
海奈は止まらない涙を必死に拭った。視界がぼやけて、母の姿が滲む。彼女がどんな顔をしているのか、分からなくなる。
「…………分かんないよ。突然謝ってきた母さんの気持ちも、自分の気持ちも…………」
海奈が、自分の心の中の荒波に足を取られて溺れていた時だった。
ブチィッ!と音がして……高次元生物を縛っていた花琳の『蔦』が、切れた。
「っ……!そんな…………!」
動揺する花琳のことを、高次元生物が殴り飛ばす。
「うっ……!」
「姉さん…………!」
花琳は地面に強く体を打ちつけて、苦しそうに呻く。何とかして立ち上がろうとするも、力が入らない様子だった。
高次元生物が、花琳に向かって『光線』を放とうと構える。それを見た海奈は、直ぐに思い出した。
(俺は……俺を認めてくれる人のために、生き抜いてみせるって、決めただろ)
海奈は、涙を拭って立ち上がり、大切な姉の元へ走り出した。
(姉さんや、特部の仲間のために、俺は前を向いて戦うんだ。もう、過去に囚われるのはやめにしたんだ!)
海奈は花琳の元へ駆け寄ると、彼女を庇うように、高次元生物の前に立ち塞がった。
「俺の大事な姉さんに、手を出すなッ!!」
「グォォォ……」
高次元生物の腕に紫色の光が集まり『光線』が放たれようとする。先程銃を捨ててしまったため、相手を倒すことはできない。しかし、絶対に、負けたくなかった。自分のことを、ずっと守ってくれていた姉のことを、守りたい。その一心で、海奈は奴を強く睨みつけていた。
「ウォォォ!」
咆哮と共に、『光線』が放たれようとした…………その時だった。
海奈と高次元生物の間に……見慣れた、明るい茶髪の男子が現れたのは。
「深也!」
「悪いけど、外さないよ……!」
深也はそう言って、銃を発砲した。パァン!という大きな音と共に、高次元生物の心臓部に穴が空く。すると高次元生物は、そのままゆらりと後ろに倒れ込んだ。
「……やったか」
『高次元生物の反応、消滅しました!』
真崎のオペレーションが聞こえて、力が抜けた海奈はその場にへたりこんでしまった。
「応援……間に合ってよかった」
深也はそう呟くと、膝をついて海奈に手を差し伸べる。
「だ、大丈夫、だった?」
その顔が、あまりにも心配そうだったため……海奈は思わず、くすりと笑ってしまった。
「大丈夫だよ。深也が助けてくれたからさ」
海奈は深也の手を掴んで、立ち上がる。
「ありがとう。助けに来てくれて」
「……う、うん。あ、花琳さんも、大丈夫、ですか…………?」
海奈の言葉に静かに微笑んだ深也は、花琳に気づくと、直ぐに彼女の体を起こして心配そうに顔を覗き込んだ。
「うん…………大丈夫よ。ありがとう、深也君」
そう微笑んで立ち上がろうとする花琳の体を、今度は海奈がしっかり支える。
「姉さん、大丈夫?」
「うん。……海奈も、ありがとう。私のこと、守ろうとしてくれたのよね」
花琳はそう言うと、優しく笑った。
「海奈がいてくれて、本当に良かった」
「……ううん、それはこっちのセリフだよ」
花琳の笑顔に、海奈も笑顔を向けながら、言葉を紡ぐ。
「姉さんがいたから、辛かった時も頑張れたんだ。姉さんがいたから、特部に入れて……俺は今、こうして前を向いて生きてられてる。姉さん、本当にありがとう」
海奈の言葉に、花琳は幸せそうな顔で微笑んだ。
「海奈、花琳ちゃん…………」
向こうから、2人の母親がふらつきながら近寄ってくる。
「っ…………ごめんなさい。私のせいで……家を出ていったのよね?」
2人の母親は、泣きながら……海奈と花琳の前に、崩れ落ちた。
「ずっと、ずっと…………謝り、たかった…………」
彼女は肩を震わせながら、コンクリートの地面を涙で濡らした。
「ごめんなさい……私のせいで…………幸せにしてあげられなくて、ごめんなさい…………!」
泣きじゃくる母親を見て、花琳はただ戸惑っていた。
海奈はというと……確かに、 先程は、どうしたらいいのか分からなかった。しかし、大事な決意を思い出した今なら、ハッキリ答えられる。そう思い、海奈は迷わず口を開いた。
「母さん。俺、今ちゃんと幸せだよ」
「っ…………、え?」
驚いた表情でこちらを見上げる母に、海奈は静かに告げる。
「仲間ができたんだ。ありのままの俺のことを、認めてくれる仲間が。姉さんや、特部のみんなが居てくれるから……俺、今、笑顔で生活できてる。体と心がチグハグでもさ、普通の幸せは手に入るってこと、みんなが教えてくれた」
海奈はそこまで言うと……母親に微笑んだ。
「だから、俺は自分らしく生きるよ。自分らしく生きて……絶対に幸せになる。だから、もう心配しないで」
「っ……海奈…………!」
海奈の母の瞳から、再び涙が溢れ出す。海奈と花琳は、母の前にしゃがんで、その背中をさすった。彼女が落ち着くまで、ずっと…………。
「…………海奈。…………幸せに、なってね。花琳ちゃん、海奈のこと、よろしくね」
泣き止んだ2人の母は、目を赤く腫らしながら……それでも、優しく微笑みながらそう言った。海奈が初めて見た、母の笑顔だった。
公園から立ち去っていく母を見送り、海奈達もまた、通信機に付属している簡易転送装置で、中央支部へと帰還した。
* * *
中央支部に帰還した後、海奈と深也は花琳を医務室に連れて行き、そして談話室に向かって歩き出した。
2人で廊下を歩いていると、深也が不意に心配そうに、海奈に声をかけた。
「み、海奈、さ……泣いた?」
「え?」
「いや、さっき見た時、少し目が腫れてたから…………って、ご、ごめん。そんな所まで見てる僕、気持ち悪すぎ…………」
1人で肩を落とす深也を見て、海奈は慌てて首を横に振った。
「何言ってんだよ!大丈夫だって。深也は気持ち悪くないよ」
「っ……そ、そう、かな…………」
「そうだよ。深也は周りをよく見てる優しい奴だって!俺が保証するからさ」
海奈がそう言ってニッと笑うと、深也は頬を染めながら視線を逸らしてしまった。
「ほんっとに、君には敵わないよ…………」
「ん?どういう意味だ?」
「え?い、いや…………大したことでは……」
「気になるだろ。教えてくれよ。何言われても否定しないから」
海奈が頼むと、深也は少し息を吐いて……やがて、海奈を真っ直ぐ見つめてボソリと呟いた。
「海奈の明るさとか、人を思いやれるところが、僕じゃ敵わないなってこと…………」
「え?そんなことないよ。深也だって優しいし、表情豊かで明るいじゃん」
「それは君の前だからなんだよな…………」
深也はそう言うとため息をついてしまう。海奈はそれを見ながら、照れくさそうに笑った。
嬉しかったのだ。深也が、自分の前だから色々な表情を見せてくれることが分かって。
「へへ……そっか」
「な、何笑ってるの?」
「何でもないよ!あ、ほら着いた!」
海奈は談話室の扉を開けて、深也に明るく笑いかける。
「昨日、白雪さんがメイドさんから良い紅茶もらってたんだ。2人で飲もうぜ!」
「えぇ……勝手に飲んでいいやつなの?それ……」
「大丈夫だよ!飲んでいいよって言ってたから!……多分」
「多分って……」
海奈の適当な言葉に戸惑っていた深也だったが、やがて諦めたように笑って頷いた。
「……任務頑張ったし、こっそり貰おうか」
「あはは!そうこなくっちゃ!」
海奈は深也と笑いあい、美味しい紅茶を飲みながら、穏やかな幸せを噛み締めた。