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第6章

割れた窓から、家の中に入った。中には誰もいない。

天野さんたちは共働きだから留守になる時間帯くらい、いくらでもある。

ガラスの破片は律儀にも全て片付けられていた。それが私の手間を減らすことは千冬も気づいているはずだ。

案の定、階段を上がってすぐの千冬の部屋はガラスが片付いていなかった。

夜に侵入されることを想定してのことだろう。

あの事件が起きたのも夜だったから。

意味もなく、彼女の部屋を見渡す。

昼間とは思えないほど暗い部屋だ。

自分の心内を体現するとしたらこのくらい光は薄いのだろうか……。

ふと、私は視線を止める。

ベットのそばで天を見上げているような姿勢で置かれたウサギのぬいぐるみが目に入ったからだ。

自然と足が動いて、私はそのぬいぐるみを持ち上げる。

「まだ、持ってたんだ……」

思いがけずその言葉は口に出でいた。

使い古されたような感じはないが、新品というには色が褪せている。大切に使ってきたのだと一目でわかる状態だった。

「大切にするようなものじゃないはずなのに……」

柔らかい。

色も相まってか、まるで雪のようだ。

ただ、雪と違って冷たくない。

暖かいかと言われると頷けはしないが、私の体温を受け取って次第に暖かさも増してくる。

暖かさを拒絶しなければ、私の体温を奪うわけでもない。

温厚で器の大きい存在。

ふと、脳裏に祖母が浮かんだ。

なぜそうなれるのか、私には理解できない。それはたぶん、千冬も同じだと思う。

肉親を殺した相手をどうして許せるだろうか。

「ハァ」

切り替えるためにそっと息をついた。

これ以上感傷に浸るのは止そう。今さら何を思い出したって、何かが変わるわけでもないのだから。

ウサギを元の場所に置き、私は歩き出した。持っていた灯油で家中を水浸しにする。車の排気ガスに似た異臭が鼻腔を刺激した。水よりも粘度があり、歩くたびに水が靴に絡めつき、離れる。

入ってきた窓から外へ一歩踏み出したとき、ハッとした私は足音を消すことも忘れて階段を駆け上がる。先ほどまでいた千冬の部屋にたどり着くと、真っ白なそれをそっと抱き抱える。目に光が宿っていないのはぬいぐるみだから仕方がない。

腕の中にウサギを残したまま、今度こそ、窓から体を外に出す。

ウサギを地面に置き、ポケットからマッチを取り出した。とはいえ、すぐに火をつける気分にはなれなかった。

網膜に焼きついた、あの日の炎のせいだろう。小さなマッチの火が、命を吹き込まれたように燃え広がった真っ赤な炎。それが母を飲み込むのに瞬きする間もなかった。

まじまじと、私は目の前の家を見つめた。窓さえ割れていなければ、とても綺麗な住宅だと思う。千冬がこの家での暮らしを幸せだと思っていたのか否かは分からない。

元々表情の少ない彼女だが、昔はなかった警戒の色がにじみ出ている。

クラスメイトや和泉ゆかにさえも。

私は家から視線を外す。


___カナちゃんは千冬ちゃんが大好きなんだね。


祖母と疎遠になった原因の言葉。

そんなわけないじゃん。

お母さんを殺した千冬のことを大好きだなんて思ったこと一回もない。

ポケットから取り出したマッチに小さな火を灯す。

「千冬なんて大嫌い」

その言葉とともに手を離した。


「ハッ」

私・香苗は勢いよく上半身を起こす。

「夢……か」

そう確信したとき、体から一気に力が抜ける。

「嫌な夢だ」

手で額に浮かんだ冷や汗を拭いながら、息を吐く。

夏だから、白く濁ることはない。

「私じゃない」

口から言葉が溢れた。

千冬が私を疑うのは無理もない話だ。

私が千冬の立場だったら、きっと信じることはできないだろう。

立ち上がって、伸びをする。

そうわかっているからこそ、あんな夢を見た。

自分が一番やっていないということを知っているのに、千冬に疑われるたびに自分自身を疑ってしまう。

そろそろ帰ろう。

千冬も落ち着いただろうし。

先ほど寝ていた、大きな木の下から離れながら思い出す。

千冬と別れた、あの日のことを。





雲が1つもない、綺麗な晴天の日だ。

「嫌だ!お母さんも一緒に来てよ!」

私はもうすぐ小学校に上がるというのに、1人で友達の家にもいけない、未熟な子供だった。

「すぐそこじゃない?」

「でも、1人じゃ嫌なの!」

呆れてため息をつく母の姿は今になっても鮮明に覚えている。

「こんなんで小学校まで歩けるのかな……」

その頃の母の口癖だった。

「千冬と一緒だから大丈夫だよ!」

私もまた、言われるたびにそう返していた。

千冬とは、幼稚園で知り合った。

かくれんぼで跳び箱の中に隠れ、でられなくなった私を見つけ出してくれた。

「これでみんな見つけられた!」

人見知りだった私がいないことに、ほとんど話したことがない同級生たちは気づかなかった。

「もうそろそろ戻ろうよ!」

「うん!戻ろう!」

そのまま帰ろうとする同級生たちの声を聞いて絶望した私は、叫ぶこともできずただ涙を流して、帰れないことへの恐怖を抱いていた。

体も震えるばかりで動かず、気づけば完全に声が聞こえなくなった。

(どうしよう……)

途方に暮れたその時だ。上から光が差し込んだのは。

涙の溜まった目で上を見上げる。

そこにいたのが千冬だった。

「千冬ちゃん」

当時の私が彼女の名前を呼ぶ。

関わりはなかったが、整った顔立ちが印象的で名前は覚えていた。

「……」

千冬は私に向かって何も言わずに手を差し伸べた。

その顔に表情がなかったのは言うまでもない。

友依さんにいじめられる前から、千冬は感情表現が極度に苦手だった。

その手を取った時、温もりは感じなかった。なんなら私の手のほうが温かいくらいだ。

少々期待外れの救世主だったが、時間通りに帰ってこなかったことで先生には一緒に怒られ、そこから私が一方的になつくようになった。


「早く行こ!!」

私が手を引くと、母が慌ててコートを取り出す。

その事実を知らない母は私に突然友達ができたことを不思議がっていた。

「ちょっと出かけてくるね」

「はいはい。いってらっしゃい」

奥から顔を出したお祖母ちゃんは微笑ましいと言わんばかりに目を細めた。

「いってきます!」

「うん。気をつけてね。」

「はーい」

お母さんがドアを閉めるまで、私は手を振り続けた。

「千冬ちゃんには自分で渡すんだよ?」

「うん!」

白い道に足跡をつけながら、5分もしない千冬の家にたどり着く。

「雪うさぎ?」

玄関に着くなり母が首をかしげる。

母は千冬の好きな絵本を知らないのだろうと、その時悟った。

「悪いタヌキが来ないようにしてるんだよ!」

幼稚園で、千冬が教えてくれた。

ずいぶん怖い話だなと思ったことを覚えている。

「カチカチ山知らないの?」

「ああ、お婆さんを殺したタヌキをウサギが成敗する話ね。」

「千冬のお気に入りの本なんだよ」

「そうなの?」

お母さんが苦笑いをする。私が千冬の話をするといつも千冬のことがつかめないと言っていた。その頃にはもうあきらめたんだと思う。

ピーンポーン

インターフォンを鳴らす。私では届かないので母に持ち上げてもらった。

返事が返ってくる前にものすごい勢いでドアが開いた。

一瞬ドアが消えたのかと疑ったくらいだ。

「あ、紫さん。こんにちは!」

中から顔を出した紫さんに私は、屈託のない笑みを浮かべていただろう。

「え……」

相手の額に、冷や汗が浮かんでいることにも気が付かずに。

「あ、香苗」

私に気がついてくれた千冬の声で、紫さんがハッとした表情になる。

「突然すみません。香苗だけで行かせるつもりだったのですが……」

「あ、いえ……」

口下手なところは千冬そっくりだった。

「あ、誰かと思えば。香苗ちゃんと菜月さんでしたか。」

千冬と一緒に姿を現したのは千冬の父親の和雅さんだった。

「雪の中ご苦労さまです。せっかくなので中に入りませんか?今、お茶入れますね。」

「遠慮しておきます。今夜から実家へ帰省するのですが、まだ香苗の荷造りが終わってないもので……」

「それは大変ですね。」

大人たち……ほとんど和雅さんとお母さんの会話をよそに、私は千冬に小さな袋を渡す。

「バレンタインの日、渡せないから先に渡すね」

受け取った千冬は首を傾げる。

「幼稚園、来ないの?」

「うん。休むの。おばあちゃんの家に行くから」

そう言うとますます千冬の首は傾いた。

「あれ?おばあさん、少し前から家に来てるんじゃなかったっけ?」

よく覚えているな、と当時驚いたのを覚えている。

「うん。もうお母さん忙しくないからおばあちゃんは家に帰るらしいんだけど、せっかくだからついていこうってことになったの。」

ようやく納得したのか、2、3回、千冬が頷いた。

「……いいな。」

千冬がらしくもないことを口にしたのは、少し間が空いたあとだった。

「何が?」

「私、おばあちゃんもおじいちゃんもいないから。」

その時初めて、表情のない千冬が今どんな顔をしたいのかがわかった。

千冬の言葉に喜びの要素は1つもないが、自分が千冬のことを少し理解できたことは素直に嬉しかった。

「なんで笑ってるの?」

千冬が再び首を傾げたことから、それは顔にも出ていたのだろう。

「香苗。帰るよ。」

すぐ後にお母さんに呼ばれたので、

「はーい!」

と返事をして千冬へ手を振った。

姿が見えなくなるまで、ずっと後ろ向きに歩いて振り続けた。

そんな私に、危ないよ、とお母さんが注意する声はため息混じりだった。


その後、夜に至るまでの時間の記憶はほとんどない。

私の次の記憶は、おばあちゃんと手をつないで駅の駐車場から降りたところからだ。


「カナちゃん。気をつけてね。雪で足が滑るよ」

「うん。」

しわしわのおばあちゃんの手の感触はまだ覚えている。

疎遠になってから一度もつながなくなった手を今さらながら恋しく思った。

本当は車で行く予定だったが、私が電車に乗ったことがないからと、お母さんが電車を選んだのだ。

「はい。これ切符ね。」

生まれて初めて持つ切符に特別感を感じて、跳ね上がっていた。

私はわくわくしながら、一番乗りで改札を通る。

入れた切符後戻ってくるのが面白くて、顔を輝かせる私に続いておばあちゃんが改札を通った。

お母さんが切符を入れようとしたそのときだ時だ。

「なんだ!この小娘!」

突如として、怒号が鳴り響いた。

全員がそちらを見る。

「千冬ちゃん?」

その声を発したのはお母さんだ。

遠くにいたからよく見えなかったが、千冬がバケツを放り投げた音だけはしっかりと聞こえた。

そして、どこから持ってきたのかわからないマッチ棒を器用に擦って火を付ける。

それを声の主であろう、スーツの男に向かって投げつけた。男もぎょっとして持っていたスマートフォンを落とし、お母さんは千冬めがけて走った。

「千冬ちゃん、逃げて」

お母さんが千冬をかばうように抱きついたのは火がついた直後だった。

瞬く間に、炎は男を包み込んだ。

男の断末魔は、今でもしっかりと思い出せる。

「おかあさん!」

炎が近くにいたお母さんたち飲み込むまでに2秒もかからなかった。

駆け寄ろうとした私の腕をおばあちゃんが掴む。

6歳児のか弱い少女の力は老婆には及ばない。

行きたい方向と逆方向に引っ張られる。

「おかあさん!」

もう一度叫んだ声は果たして届いただろうか。

消防が駆けつけて、お母さんの死亡が確認されたのは言うまでもない。

千冬は、重症ではあるもののお母さんのおかげで、一命を取り留めた。

許せない。

その5音しか、私の頭にはなかった。


「この子を私だと思って大事にしてね。」

病室で、息を呑む千冬に向かって、私はもう一個のぬいぐるみの首をギュッと抱く。

「私もこのタヌキを千冬だと思って大事にするから。」

私の目が笑っていないことくらい、千冬は気づくだろう。

あのぬいぐるみは、千冬が九州の方へ養子に出るとを知ってから、必死になって探したものだ。

言うまでもない。

カチカチ山を連想させるものだった。

お母さんを殺した仇を私が絶対に討ってやる。

当時はそれしか考えられなかった。

いくつかのおかしな点に気がつかないで。

「いつか絶対会いに行くから」

そう言い捨てて、私は、病室を出ていった。


「あれ?」

河原に、誰かが倒れているのを見て、気持ちが現代にに引き戻される。

「大丈夫ですか?」

大声を張り上げるが、反応はない。

急いで駆け寄り、口元に手を当てる。

幸い、呼吸はあった。

救急車を呼ぼうとスマホを動かしたとき、ふと、手が止まる。

もう一度、倒れた人の顔を見た。

「……千冬?」

そこにあったのは、髪から服までがずぶ濡れになった千冬の姿だった。

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