第4話
私と香苗が駆けつけた頃には、既に消防が消火活動をはじめていた。
「友梨ちゃんっ!!」
「え?!」
乱暴に香苗の肩を叩いてきたのは隣の家に住むおばあさんだ。
「よかったぁ。無事だったのかぃ。」
どうやら耳が悪いらしく、声がかなり大きい。
「ご両親はさっき救急車で運ばれたけど、友梨ちゃんたちの姿が見えなかったから心配しとったんだよ」「……」
私も香苗も何も言えずにただ固まっている。
お婆さんは香苗のことを天野友梨だと思っているようだった。
「友依ちゃんと出かけてたわけか。仲がいい姉妹じゃなぁ」
やっぱり。
そういえば、お婆さんが認知症を患っているのではないかと近所で噂になっていた。
「お義母さんたちは運ばれたんですか?」
友依という名前を出されてあまりいい気はしないが、警察や野次馬に絡まれるのはもっと嫌だったので、何も情報がない今この人に頼るしか無かった。
「ああ、こないだ友梨ちゃんが運ばれた病院だって聞いたよ。」
「ありがとうございます。」
お礼を言った私は香苗の手を引き、早足でその場を去った。
その後は大変だった。
警察の事情聴取や取材に来るマスコミ。その対応もしながら、私はさまざまな情報を得た。
家は全焼し、お義父さんとお義母さんは意識不明の重体。そして、火事の原因は放火で間違いないとのこと。
家中のいたるところに灯油が撒かれていてそれが一気に点火したらしい。
私が家を出てからほんの20分後のことだった。
お義母さんたちはなんで気づかなかったんだろう?
「私じゃない」
聞く前に、香苗が言った。
「違う」
香苗は真剣な顔で首をふる。
正直、私は香苗を疑った。それどころか、香苗以外にありえないとさえ思ってしまった。
でも、まっすぐ自分を見つめる香苗が、嘘をついているようには見えない。
香苗を信じるべきなのだろうか。
揺れている。
まるで、振り子のように。
行ったり来たりを繰り返す。
___お母さん
私があの日、意識を失う前に聞いたその言葉はきっと香苗が発したものだ。
___千冬ちゃん?
母がつけてくれた自分の名前も、大好きだった雪も今となっては最悪の悪夢だ。
それが香苗にとっても同じだというも、香苗をそうさせたのが自分であることも私が他の誰よりもわかっている。
あの日、私は自分の、自分たち家族だけの不幸を大衆の不幸に変えてしまった。
その大衆の筆頭に香苗がいる。
「香苗を信じるよ」
驚いたように目を見張る香苗へ、今度は私からまっすぐな眼差しを向ける。
私が余計なことをしなければ、彼女も私もきっと今この場にはいない。
1人のたった1回の判断で大衆の人生が大きく変わることはもう嫌と言うほど経験した。香苗は狂わされた側だから、私よりもよく分かっているかもしれない。
信じるという、私の判断が正しいとは限らない。
10年以上も会っていない幼馴染だからもう私の知っている香苗ではないかもしれない。
でも、信じたかった。
香苗が私の復讐しに来たのなら、彼女が殺すのは私1人だけだと。
私は香苗の家にとめさせてもらうことになった。
「そういえば、千冬とお泊まり会とかしたことなかったよね?」
言われてみれば、なかった気がする。
香苗の父親は私が知る頃にはもう亡くなっていて、母親は仕事で忙しく、毎晩遅くに家に帰ってくる。
私の両親はかなり若かったから、よその子供を預かれる自信がないといって許してくれなかった。
「そういえばさ。さっきのお婆さんが言ってた友依って…」
「ああ。知ってるの?」
香苗がためらいがちに首を縦に振った。
私が佐々木さんの名前を覚えていたのも友依と同じ響きで印象に残っていたからだ。
「今は一緒に住んでないんだよね?」
私は左腕を右手でそっとつかみながら、ゆっくり首を縦に振る。
今彼女がどこで何をしているのか私は全く知らない。
知りたいとも思わなかった。
ふと、頭の中で嫌な想像が浮かぶ。
火災のことを聞いて、友依がひっそりと様子を見に帰ってくる。姉妹なんだから、一緒に暮らそうときっと彼女は言うだろう。
頭の中で差し出された右手を想像の中でじっと見つめる。それを振り払うことが果たしてできるだろうか。
「香苗。ペンと紙って持ってない?」
「え?あるけど……」
香苗が不思議そうな顔で私に差し出した真っ白な紙の上にペンを走らせる。
「あれ?千冬って右利きだったっけ?」
聞こえてきた香苗の声は聞こえなかったことにした。
いつか友依に焼かれた皮膚はもう痛みはしない。つけられた傷もほとんどは綺麗に治っている。でも心の傷は今でも癒えずに、痛みすら残っている。
私は小学校の入学直前に天野家の養子になった。
きっかけは天野家の1人娘である友依のわがままだった。
「妹が欲しい」
しかし、友依を難産で産んだお義母さんはもう子供を産めない体になってしまっていた。
当時の友依は4年生に上がる直前。同級生から妹の話を聞くたびにそうやって家で癇癪を起こした。
旅行のときも例外ではない。
すれ違う姉妹を羨ましそうに見つめ、ついには怪我をさせてしまった。
足を骨折した彼女を見舞いに病院へ行った時に、入院中の私を見つけたのだ。
理由は単純だった。
私の顔が整っていたから。
そして両親がいないことを知ると、親に私を養子に取るようねだったのだ。
「お願い。一緒に暮らさせて上げようよ。あの子も親がいなくて寂しいはずだから。」
病室の外から、何度その言葉を聞いたことだろう。
わかる通り、彼女はとてもわがままな性格だった。
この話を内緒にしていた両親を裏切って、ペラペラと喋ったのもその性格故で間違いない。
私が名前を名乗らずに記憶喪失のふりをしたのをいいことに、友梨という名前をつけたのも彼女だ。
最初は口下手な私にも熱心に話しかけてくれたし、学校でも孤立しないようにと同級生と遊ぶ機会まで作ってくれるいい義姉だった。
「友梨。こっちおいでよ。一緒に遊ぼう!」
お陰で小学校の頃は友達作りの苦労することはなかった。当時は今ほど人と接するのが苦手じゃなかったからえクラスメイトとも良い関係を築けていた。
けれど、1年を過ぎた頃、その熱は次第に冷めていった。私が原因ではない。ただ、興味が私から別のものに移っただけだ。
帰りは遅くなったし、中学に上がると制服のスカートも時が立つにつれてどんどん短くなっていった。金遣いも荒く、以前は収まっていた癇癪も再び起こすようになった。半年もしないうちにその怒りの矛先は私に向くようになる。
顔を合わせるだけで殴られ、話しかけると顔を庇った腕が真っ青になった。
「友依ちゃんと友梨ちゃんは、本当に仲がいいねぇ」
隣の家のお婆さんはよく私たちを見てそういっていた。
こういうことを大人にばれないようにうまくやれる点が女子の面倒くさいところだ。
私が誰かに相談できなかったのも相まって小学6年生の修学旅行まで誰にも気づいてもらえなかった。
友依の素行はどんどん荒くなり、私へのあたりもエスカレートした。
素手では限界があると悟ったのか、鉄パイプやアイロンなど物を使ってくるようになり、帰りが遅くなったせいかそれは毎回夜遅くに行われるようになった。
アイロンで顔を焼かれそうになって咄嗟にかばった左腕には今でも跡が残っている。
香苗が指摘した通り、私は左利きだった。
でも、友依に右手に矯正された。自分に逆らった同級生が左利きだったからなんていう、わけの分からない理由で、ある夜突然、左手をハンマーで殴られた。
折れたと思う。
今まで感じたことのない痛みで、声すら出なかったのを覚えている。
それから2、3ヶ月間左手はまともに動かなかった。
右手を使うしかなくて、必死になって特訓したのを覚えている。
今はもう痛くないけど、それ以来左手で字を書いたり箸を持つことが怖くなってしまった。
お義父さんもお義母さんも帰りが遅かったし、そのときにはもう、人とどう接すればいいのかわからなくなってしまい、友達もどんどん私のもとから離れていった。ゆかとも違うクラスだったから一回り大きい長袖で左手の青さを隠してしまえば、誰にも怪しまれることはなかった。
そして小学校の修学旅行の日、入浴の際にその虐待が発覚した。
「ふざけるな!!」
友依は怒り狂い、終いには市役所の職員を刃物で刺してしまったらしい。職員は命は助かったが、植物状態になってしまった。友依はそのまま行方をくらまし、まだどこにいるのか分かっていない。
それから、私たちは犯罪者の家族として扱われるようになった。家には石を投げられ、お義父さんたちも仕事を辞めさせられた。
「あれ、天野じゃね?」
「本当だ。よく学校来れるよね」
学校でも私はあからさまないじめを受けるようになった。持ち物がなくなるのはしょっちゅうで、水をかけられることも、面と向かっての暴力も何度か受けた。
学校中が敵になった。その時ばかりはゆかも、声をかけてくれるのは休日だけになかった。
私は高校に進学して少し状況が良くなったが、お義父さんたちは変わらなかった。今の仕事を見つけるのに相当の時間がかかった。家に石を投げてくる連中は今でもまだ後を絶たない。
間違いなく火の車だったにも関わらずお義父さんたちは私を捨てずに育ててくれた。高校まで通わせてくれて感謝しかない。
だが、
「ねぇ、香苗。私のお願い、聞いてくれない?」
突然の申し出に香苗の目が丸くなる。
「帰りたい」
本当はずっとそうしたかったのかもしれない。
天野友梨で生きていくことが幸せなんだとそう言い聞かせてきたけど、今思うと本心は違ったのかもしれない。
帰りたかった。両親がいるあの家に。
それはもう叶わぬ夢だが、せめて、あの街に帰りたい。
切実に今、私はそう思った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『今まで育てていただき、ありがとうございます。』
真っ白な紙にはそれだけが書いてあった。
フッと自然に私は笑みが溢れた。それと同時に頬をつたる温かいものも感じ取る。
「本当、母親にそっくり……」
__私じゃなくて、和雅に似た方が良かったって、きっと千冬も思ってるよ
友梨、いや、千冬ちゃんの母親である紫の、いつかの言葉が蘇る。
6歳児はそんなこと思うほど賢くないよとその時は返したが、千冬ちゃんは私が思った以上に賢い子だった。子供っぽくないと紫が呆れるのも無理がないほどに。
「ねぇ、千冬ちゃん。」
もう会うことはないであろう、彼女に私は問いかける。
「どうして私があなたを引き取ったと思う?」
彼女はきっと、友依のためだという。
それも確かにそうだ。でも、仮に友依があんなわがままを言い出さなくても私はあの時、確実に彼女を引き取った。
「いくら賢いあなたでも、生まれたばかりの記憶は残っていないでしょうね。」
皮肉にも捉えられる口調になったのは、私が怒っているからだろうか。
私は生まれたばかりの頃の千冬ちゃんに会ったことがある。私が紫のたった1人の友人だったから。
「私には、罪がある。」
そう、今まで誰にも言ったことがない、大きな、とっても大きな罪が。
「あなたを引き取ったのは、その罪滅ぼし」
自分に言い聞かせるように、もう一度「罪滅ぼしだ」と呟く。
きっと、紫は怒っていない。それがなおさら、私を苦しめ続けている。
「ちゃんと、伝えるべきだったな……」
こんな思いは金輪際ごめんだと思っていたのに。大きな後悔は私を蝕み続ける。
私は、たぶん恐れていた。
牧田千冬という少女を。
でなければ、ちゃんと伝えていたはずだから。
『あなたのお母さんを殺したのは私だよ』って。