第3話
ガシャンッ
今朝も一枚ガラスが破られた。
「お義母さん、大丈夫?」
台所の近くから音がしたので、制服に着替えた私は急いで階段を降りる。
顔を出すと、お義母さんが丁寧に割れた破片を拾っていた。
「どうにかならないかしらね。」
その声にはため息が混じっていた。返す言葉が見つからなくて無意識に目を泳がせる。
「この石を投げた子なんだけど。」
そう切り出したお義母さんの指の先には手のひらサイズの平たい石がのっていた。
「友梨と、同じ制服を着てた。」
「え?」
まさか、香苗が…?
私のその憶測は、すぐに外れることになった。
「どんな感じの子?」
私が尋ねると、お義母さんは「ええと……」と考え始める。
「ショートヘアで友梨よりも少し背の高い女の子。……昨日の5時ごろもおんなじ子を見たわ。」
ショートヘアで、私よりも背が高い?
香苗と真逆の外見だった。それに昨日5時ごろなら、ちょうど私と香苗が体育館倉庫にいた時間。香苗ができるはずがない。
「心当たりがあったるする?」
私は首を振った。クラスメイトに私より背が高い子はたくさんいるけど、ショートヘアの子は少ない。その少ない人たちも、昨日は全員夜遅くまで部活をしていたはず…。
「そっか…ここは片付けておくから、友梨は朝ごはん食べちゃいなさい。学校遅れるわよ。」
お義母さんは食卓を指差す。いつも通りの朝ごはんがそこに用意されていた。じわっと目頭が熱くなる。
天野……友梨……。
その名前は私が持って良い名前ではなかったのかもしれない。
私は自分の腕時計を思わず二度見してしまった。
いつもより15分早く学校に着いていたのだ。
確かに、家を出た時間は普段よりも早かった。でも、早いと言ってもほんの2、3分だけ……。そういえば、いつもより信号に引っかかる回数が少なかった気がする。そのせいかな?
「あれ?早いね」
私が廊下でボケーッと立っていると背後から声をかけられた。
香苗?!
私はとっさに身構えてそちらを見る。でもそこにいたのは香苗ではなく、同い年の男子生徒だった。
振り向く私の勢いが予想外だったらしく、彼は一瞬驚いた顔をする。
「アッハハ。天野さんだったよね。急に話しかけてごめん。びっくりしたでしょ?」
相手はすぐに優等生の顔になった。しかし、私は彼が誰かまだ分かっていない。
確か…同じクラスだった……気がする……ええと…名前は……。
頭の中で必死に知っている名前を並べてみるがどれも違う気がする。
誰だ?この人は…?
「そういえば、今日はゆかと一緒じゃないよね?」
私に認知されていないことに気づかないらしく、彼は親しげに話しかけて来る。
ゆか…?
私は違和感を覚えた。
ゆかのことを呼び捨てで呼んでいる……?
クラスで『和泉ゆか』のことを『ゆか』と呼ぶものは私を入れて2人だけ…。ゆかは顔立ちが整っている上に成績優秀な学級委員長ということもあって、みんななんとなく引け目を感じるらしい。
ああ、思い出した。
いつか、ゆかに紹介してもらったっけ。
このクラス内の私以外の生徒で『和泉ゆか』を『ゆか』と呼ぶ彼の名前は…。
「おーい!カズマァァ!」
彼の背後からまた別の男子生徒が走ってくる。彼も私も同時にそちらに目を向けた。
ハッとした私は挨拶もせずに教室に入る。
ほどなくして「あっ」という彼の声が聞こえたが、私は聞こえなかったふりをした。
私がいたら、邪魔でしょう。口では誰も言わないけど、分かってる。
突然どこかへいなくなったとしても気づかないくらい、影の薄い存在であることもちゃんとわかってる。
「天野さん。」
声をかけられたのは、座って本を読んでいた時だった。びっくりしてパッと顔を上げるのと同時に、読みかけの単行本が私の手から滑り落ちた。
ガタンッ
通路の真ん中に落ちたそれは、思ったよりも大きな音を立てて落下する。それに驚いたクラスメイトたちはサッと会話を止め音の聞こえて来た方を見た。室内にいる全員の視線が私に集中する。
「……」
教室内に、気まずい沈黙が流れた。彼らは私から視線を外すタイミングを見計らっているし、私もみんなが視線を外してくれるのを待っている。
「えっと……」
すぐ近くで蚊の鳴くような小さな声がした。さっき私に声をかけたのはきっとこの子だろう。私は無意識のうちにそちらに振り向く。そこにいたのはショートヘアで私よりも背が高い女の子だった。
「えっと……天野さん…だった…よね…?」
彼女はおずおずと言う。
____ショートヘアで友梨よりも少し背の高い…
お義母さんが話していた石を投げた女の子の特徴そのままだった。
今日の朝、私の家に石を投げたのはこの子かもしれない。
私の顔は自然とかたくなった。でも、それも束の間。
「ち、違ったっけ…?」
少々慌てた様子で「ええと…」と考え出す彼女が、陸上部の練習着を着てグラウンドで走っているのを昨日の帰りに見かけた。それが正しいなら、彼女の名前は…
「佐々木、結さん?」
パッと彼女は顔を上げる。その反応からして間違ってはいないと思う。
「私のこと分かるの?」
「っ…」
佐々木さんは身を乗り出して聞いてきた。瞬時に目をキラキラさせた彼女の切り替えの速さに圧倒された私は、彼女のように咄嗟に声は出なかった。
「……隣の席の子の名前くらいは……去年も同じクラスだったし…」
それに…と私は続けるが、相手は全く気づいていない。
「え?去年のことも覚えててくれたの?!嬉しい!」
邪気のないまっすぐな笑顔で思わず目を逸らしてしまった。
「意外と覚えてるんだね。クラスメイトの子とか…」
「……」
そう言うわけではない。たまたま、佐々木さんを覚えていただけだ。
私が何も答えなかったので相手が少し寂しそうに目を伏せる。それが私の目に映り思わず目を逸らした瞬間、「あのさ」と、何事もなかったかのように佐々木さんがグッと顔を寄せてきた。
愛想がいい笑顔がすぐそこにある。
「聞きたいことがあるんだけど…いい、かな?」
躊躇いがちに首を傾げられた。断る理由もなく無言で首を縦に振った私を見て、彼女はホッと胸を撫で下す。
「あの……今日はゆかちゃんと一緒じゃないよね?何かあったの?」
ガタンッ
再び大きな音がした。単行本が再び私のてから机の下へ真っ逆さまに落ちて行ったのだ。先ほどと同じところへ着地して教室中を白けさせる。
「あの…えっと…」
佐々木さんは完全に困り果てていた。
「ああ、ごめん」
自分でも分かるほど見事に棒読みな「ごめん」だ。ハッとした佐々木さんは再び下手な愛想笑いを作る。
「いいよいいよ。全然。私も無神経でごめんね。怪我とかない?」
「あるわけないじゃん」
そんなんで怪我するほど、私は脆くない。
沸々と怒りが煮えるのがわかった。
「そっか、なら良かった。私、昨日羽月ちゃんに聞いたんだけど、天野さん、羽月ちゃんと幼馴染なんだってね。昔は今よりも明るかったって羽月ちゃん言ってた……」
「あのさ」
自分でも怖いくらい低い声が出た。相手の「えっ…」という声と拍子抜けた顔が目の前に映る。
「もう、用は済んだ?」
自分がどんな顔をしていたのかはわからない。でも、相手の顔がみるみるうちに青ざめたのでそれなりに険しい顔をしていたのかもしれない。
数秒の沈黙の後、「それじゃ」と話しかけてきた時と同じようにギリギリ聞き取れるくらい小さな声と共に逃げるように友達のところへと走っていった。
それを目で追いかけるわけもなく、2度ほど落下させてしまった単行本に目を落とす。開きはしているものの、文章を読んでいるわけではない。じっと見つめているうちに、騒がしい周囲の音がどんどん遠ざかっていく気がした。意識が飛びそうなわけでもどこか体調が悪いわけではないのに、数秒したら、異様な静けさが私の周りにまとわりついていた。
この感覚…どこかで……。
___かわいそうに…
聞き覚えのある声……。嫌な予感がする。
___ボーン……ボーン
白い…部屋の…白い壁の…振り子時計の音……ほぼ同時に…ドアを開けて…入ってきたのは…
バンッ
今度は故意に音を立てた。その瞬間、閉ざされていた周りの音が一気に耳に入る。キーンと耳鳴りがした。思わず顔を顰めた私は瞬時に耳を抑える。
「友梨…?」
わずかにゆかの声が聞こえた。ドアの方に目を向けると、確かにそこには驚いてこっちを見る彼女の姿があった。
「なんかあったの?ゆか?」
ドクッ
心臓の音が鼓膜で響く。
「あ、おはよう!」
渋い顔をしていたクラスメイトの顔がパッと明るくなったのが見えずとも分かった。
「2人で一緒にきたの?」
「うん、家が近くだったからさぁ」
キーン…キーン…
やまない耳鳴りの音にうなされながらも、なぜか会話が耳に入ってくる。
「だから、ゆかちゃん今日遅かったんだ。」
佐々木さんがゆかたちの方に寄ってきた。少しホッとしたような声で、ゆかに笑いかける。
「ああ、それもあるけど…」
ゆかがこちらを一瞥した。
「ちょっと…いろいろあって」
その声は少し険しかった。まだ昨日のことを気にしてるらしい。
「いろいろって、」
「ごめんなさい、荷物だけ置かせてもらってもいい?それから話そう」
入り口に群がる佐々木さんたちの間をスッと通り抜けて、ゆかともう1人が入ってくる。佐々木さんたちも「あ、そうだね。ごめん」と言って教室の至る所に散っていく。
「おはよ」
ゆかがいつのまにか前に座っていた。
「……」
なんていえばいいのかわからなくて私が黙っていると、「返事してあげなよ〜」と肩を叩かれた。途端、私の体が硬直する。
「ねぇ、天野さん。」
一気に声のトーンが落ちた。今日はよく名前を呼ばれるなぁ。そんな呑気な考えが頭をよぎったのは、単に現実から逃げたかっただけなのかもしれない。見えないし見ようとも思わないけど、もしも彼女の顔に笑みがあったのなら間違いなく目は笑っていないだろう。
結局私は口を開かず、ゆかも有井羽月も時間になるまでそこにいた。
彼女が帰ったその後も、叩かれた肩がズキズキといたんだのはなぜだろうか。
「ゆかちゃん。ここ教えてくれない?」
1限目が始まる少し前、佐々木さんがゆかの席に椅子ごと移動する。
佐々木さんがゆかに話しかけるなんて珍しいな。そう思ったのは私だけではないようだ。
会話を中断されることも、陰口が囁かれることこそなかったが、あきらかに教室中の視線が2人に集中している。
「いいけど……急にどうしたの?」
ゆかもその例に漏れない。
頼まれたら断れない彼女だから、引き受けはするものの顔には警戒の文字が浮かんでいる。
「何のこと?」
何ごともないように答えた佐々木さんだが、手に冷や汗が浮かんでいるのを私は見逃さなかった。ゆかも気づいたようだ。ノートを持つ佐々木さんの手を一瞥したのがわずかに見えた。
「ううん。なんでもない。」
キーンコーンカーンコーン
ゆかが首を振ったのと同時に、チャイムが教室の静けさを皆に気づかせた。
ザザザっと全員が席に座る。
程なくして、担任の高野先生がドアを開けて入ってきた。「え?」とゆかが声を漏らす。当然だ。普段通りなら、この時間に授業をするのは小柳先生なのだから。
「あれ?1限って生物だっけ?」
「古典じゃなかった?」
「じゃあなんで高野がきてるの?」
教室のあちらこちらから戸惑うクラスメイトの声が飛び交う。
その騒ぎ様を注意するわけでもなく、高野先生は淡々と口を開く。
「ええと、本日は諸事情により休校と致します。せっかく登校してきてくださったのに申し訳ありません」
先生はそれだけいうと早足で教室をあとにした。去り際に吐き捨てた「面倒なことになった」という独り言は多分ほとんどの生徒が聞き取れただろう。
呆然とするしかない生徒が言葉を発せずにいたからだ。ドアが閉まる音がしてようやく、教室が騒々しさを取り戻す。
「面倒な、こと……?」
男女関係なく耳障りな声を上げる中で、佐々木さんがボソッと言葉を漏らした。
声が震えている。
高野先生が出ていったドアの方を見ているので、彼女がどんな表情をしているのかは見えない。
でも、机上に投げ出された彼女の手は強く握っているからか、ぶるぶると震えていた。
「……」
ふと窓の外を見た。
飛行機が積雲と積雲の間に真っ白な線を引く。
明日は雨かな……。
場違いながらもそんなことを思った。
ピロン〜♪
帰り道。珍しく、スマホが鳴る。LINEからだ。
お義母さんかなと首を傾げたとき見覚えのあるアイコンが顔を出す。
さあっと背中に悪寒が走った。
言うまでもなく、UDUKIつまり香苗からだった。
遅くなってしまったな。
香苗が送ってくれた住所にたどり着き、私は私は短いため息をつく。
コンビニのコピー機の前に並んでいたらかなり時間がかかってしまった。
3カ月前に投げられた石が家のコピー機に直撃して壊れてしまってから、最寄りのコンビニにコピー旗を使うためだけに通うようになった。
よりによって今日、今まで遭遇したことがないほどの長蛇の列ができていた。加えて、突然コピー機が故障するのでお義母さんから頼まれた、たったの3枚の印刷にもかなり手間取ってしまった。
ピーンポーン
少し耳障りなインターフォンの音。それと同時にバンッと音を立ててものすごい速さでドアが開く。
外開きだったら間違いなく頭にたんこぶができていたと思う。
「千冬……」
私の名前を意味もなく呟く。
別れてから3時間弱しか経ってないのに今朝の長いストレートヘアは、見る影もなく、くるっくるのくせ毛であちこちに跳ね上がっている。
ああ、そうだ。
今更のように思い出す。
香苗の髪ははどれだけといても治らないほど頑固なくせ毛だった。手先が器用な香苗のお母さんですら縛るのに一苦労だったらしい。
だから、昨日、気づかなかったのかも……。
____千冬ちゃん?
ヒュゥ
喉の奥で声にならない悲鳴が上がる。
ほぼ同時に口元を押さえて、私は前かがみにしゃがみ込んだ。
「千冬?!」
香苗が驚いて声をあげる。
息が苦しい。
「大丈夫?呼吸できる?」
呼吸……。そうだ、酸素を吸わないと…。酸素を……。あれ……?
呼吸ってどうやるんだっけ……?
その時、私の目の前が真っ白になる。
何も辛くないし、苦しくもない。このまま、私は……。
「息をしなさい!牧田千冬!!」
声とともに、パンッと頬を叩かれた。
途端、私の世界が色を取り戻す。
「ッグ」
それと同時に息ができない苦しさも蘇る。再び意識を失いそうになったところで、香苗がもう一度私の頬をひっぱたく。
「逃げるな!性悪狸!!」
「グハッ………ハァ……ハァ……」
張り上げた香苗の声で、私の体がようやく呼吸を思い出した。
手足が震えている。額からは一気に汗が流れ出た。
「千冬……」
消えそうな声がしたと思ったら、香苗に思いっきり抱きつかれた。
自分よりずっと小さい体からは、自分よりもずっと温かい温もりを感じる。
「やめてよ。心配したじゃん……。」
その声には涙が混じっている。
「どうして…?」
私の口が勝手に動く。
相手はピクッと体を反応させた。そして、私の体から温もりが去る。
「私を殺しに来たんじゃないの?」
「違う!」
言葉というよりむしろ、叫び声に近かった。首が取れるんじゃないかと心配になるくらい、香苗は大きく左右に首をふる。
「私は全くそんなつもりない……」
言葉とともに香苗の目からはボタボタと涙が溢れだす。
「私が千冬を殺すなんて……絶対、できない」
訴えるような涙声は私の耳の奥で大きく反響していた。
「先月、おばあちゃんが亡くなったんだ。」
隣を歩く香苗がそう打ち明ける。先ほどのアパートの様子から、1人ぐらしをしているのではないかと思って私から聞いてみたのだ。
「もう高校生だし、一人でも稼げるから。それに、お母さんに何があっても高校まではでなさいって言われてたんだ」
私は目を伏せる。私のせいで、いなくなってしまった香苗の母親。
___千冬ちゃん、逃げて
私を守るために手を伸ばした香苗のお母さんの姿は10年以上経った今でも忘れていない。
「でも、なんで私のいる高校に?」
私の問いに香苗は、ピタッと足を止めた。
「ホントはね。千冬がさっき言ったように、私は千冬を殺すつもりだった。」
「……」
でも、と香苗は視線を下げた。
「やめた」
不穏にも、香苗があの日の私の母親に重なる。
「そうなんだ」
私もあの日、母親にしたのと同じように、それ以上追求することはしなかった。
「あれ?……千冬の家ってあの辺りだよね?」
顔を上げた香苗が、私の後ろを指さす。振り返った私は目を疑った。私の家からいつの間にか黒煙が立ち上っていたのだ。