第2話
「友梨!おはよう!」
通学路でいつも通り、ゆかが待っていた。
「おはよう」
「怪我はもう大丈夫?」
「うん。だいぶ良くなったよ。」
「そっか!よかったー!」
こうやって一緒に学校に行くのはもう何回目だろう。
「ゆかと天野って顔は似てるよな。仲もいいし実は姉妹だったりして」
小学1年生の時からずっと一緒にいるから中学生の時のクラスメイトにゆかはよくそうやって揶揄われたらしい。
彼ら曰く、目元のあたりがそっくりとのこと。ゆかの父親には妹がいるらしいが、残念ながら、私の両親に兄弟がいるという話は聞いたことがないし、生き別れた姉妹というわけでもない。
たまたま顔が似ていてクラスに馴染めずにいた私に話しかけるくらいゆかがお人好しだっただけだ。
「あ、そうだ。はい。これ」
ゆかが私にペットボトルを手渡す。受け取るために伸ばした指が冷気を敏感に感じ取る。
「暑いから冷やしてきたんだ。熱中症も危ないし。」
中身はスポーツドリンクらしい。ガンガンに照りつけるこの太陽の下でこれ以上ありがたいものはない。
「ありがとう」
蓋を開けてすぐに飲んでみた。途端、冷たすぎる液体に脳が反応する。キーンとなる痛みに数秒苦しんだが、炎天下での冷たい飲み物はこの上なく体に沁みた。
「今日って体育あったよね。」
「うん。3時間目。」
「リレーだったっけ?」
「たしか」
「リレーかぁ…私苦手なんだよね。友梨は足早いからいいな」
「そうかな」
そんな話をしながら、横断歩道を渡る。歩行者信号は青になったばかりだから、赤になるまでだいぶ余裕はある。
暑いなぁ。
私は空を仰ぐ。雪でも降ってくれれば、少しは涼しくなるのかな。快晴という言葉がピッタリの真っ青な空をみて、心のどこかでそんなことを考える。
でも、その考えはすぐに鼓膜に断末魔を思い出させた。
最後に雪を見たのは、13年前。九州にくる前だ。こっちの気温に慣れてしまった今となっては、当時の冬は考えられないほど寒かった。
「ゆかちゃん!おはよ〜!」
昇降口で同級生がゆかに話し掛ける。
「おはよう!」
「今日暑いね~。3限に体育とか最悪なんだけど。」
「わかる!体操服に着替えるのも面倒くさい」
「それな。体育自体は嫌いじゃないんだけど炎天下のリレーは無理」
2人の会話を聞き流しながら、私はさりげなくその場を離れた。黒みを帯びた白い階段を登って大衆に紛れる。
__顔は似てるよな
顔はと言うことはそのほかは似ていないということだろうか。実際、性格は正反対だった。社会性の社の事もない私では、クラスで孤立するのはもはや普遍の真理といっても過言ではない。
先程の名前の分からない同級生も、入学したばかりの頃はよく話しかけに来た。けれど、さっきは目を合わせることすらせず、私をいないものと扱った。そのことに対して不満に思わないのも、自分から人が離れていく原因の1つだと思う。
「おはよう!」
その4文字を自分に向けてくれるのは、おかあさんたちとゆかだけだ。
驚いたのはホームルームでの先生からの言葉だった。
「このクラスに、新しい仲間が増えます。」
教室がざわめく。転入生なんて滅多に来ないから、「静かに!」と注意する先生の声でも騒々しさはやまない。
「転入生だって、珍しいね。」
ゆかも例外ではない。ツインテールに結われた彼女の髪が振り返った時にパッとはねた。
「女の子かな?男の子かな?」
「どうだろう。」
正直私はどっちでも良かった。きっと関わることなんてないんだろうし。
「みなさん静かに!」
鋭い声は今度こそ生徒一同を黙らせた。前に向き直るクラスメイトたちの目は明らかに輝いてる。
全員の体が前を向いたところで先生は一度、咳払いをする。
「入ってきて」
廊下に向かって放った声は、人が変わったかのような優しい声だった。
「はい」
高く透き通った声がドアの外から聞こえてくる。女の子だ。教室にいた誰もがそう思った。再び話し出そうとする生徒たちを先生は目力で抑える。
ガラガラガラ
派手な音を立ててドアが開いた。
「あっ」
ゆかが小さく反応する。それを一瞥して、私もドアに目を向けた。
「はじめまして」
ドアから入ってきたその子はペコッとお辞儀する。長いストレートの黒髪がよく似合う小柄な女の子だった。丸メガネの奥の瞳が彼女のあどけなさを物語る。
「こちらへいらっしゃい」
先生の言葉にこくりと頷いて、彼女はドアを丁寧に閉め、教卓の隣までぎこちなく歩いた。いざ教卓と並ぶと、彼女の背がかなり小さいのがわかる。肩の高さが机の高さとほぼ変わらない。うちの学校の教卓が他の学校に比べて少し高いのもあるのかもしれない。でも、それでもやっぱり高校生にしては小さすぎる。
緊張しているのか彼女は少し上目遣いで教室を見渡す。
「……」
不意に彼女と目があった。その瞬間にピタッと彼女は動きを止める。
「っ…」
どうして気づかなかったんだろう。彼女が目の色を変えたのを見て、私はグッと息を呑む。
「はじめ、まして、」
私と目を合わせたまま彼女は口を開いた。
教室にいる全員が、期待を込めた表情で彼女を見る……私を除いて。
「今日から、このクラスに、」
彼女の声が一気に冷める。ゆかを含めて、クラスメイトも先生もそのことに全く気がつかない。
「転入することになりました、」
鋭い視線が私を射抜く。先程までそこにあった幼気で可愛らしい転入生の顔はもうどこにもない。
「天上高校から来た、」
そこにいる少女はきっと
「有井羽月です。」
怨念だけを頼りに生きてきた。
先生が教室を出て行ったのと同時に、有井羽月の周りには旭東昇天の勢いで生徒たちが群がった。
「有井さん、だったよね?」
「羽月でいいよ〜」
「かっわいいー!」
「そんなことないよ〜」
彼女とは席が遠いはずなのに会話は嫌なほど耳に入ってくる。
「LINE繋ごうよー」
「いいね!繋ごう!」
「私もー!」
「俺も俺も!」
「僕も繋げていい?」
「いいよー!」
気持ち悪い。純粋にそう思った。
込み上げてくる吐き気を懸命に抑えて、逃げるように走り出す。
どこでもいい。どこでもいいから、とにかく早くこの教室から出たい。
無我夢中でドアに向かう際にも、有井羽月とクラスメイトたちの会話は耳に入る。
「羽月ちゃんはなんでこっちに来たの?」
彼女の前の席の女子が尋ねた。それに対して彼女は動揺する様子もなく、いとも簡単に嘘をついた。
「両親の仕事の都合でだよ。前の高校は遠すぎてさすがに通えないからさー」
朝に食べたものが胃液と共に口の中にまで来た。間に合わない。
両手で口を押さえ、最寄りの女子トイレに向かって足を進める。
「友梨?大丈夫?」
ゆかの声が聞こえたが今はそれに返答できるほどの余裕はない。聞こえなかったふりをして、廊下に飛び出す。幸い、廊下もトイレも空いていた。
なんとか間に合って、しゃがみ込んだ私は洋式トイレの便器の中に嘔吐物を流し込んだ。
「ハァ……ハァ……」
全て出し切っても、すぐに立ち上がることはできなかった。口の中にはまだ不快な味が残っている。一刻も早くうがいをしたい気分だが、体と精神の疲労がそれを許さない。
どうしてだろう。
走ったのは確かだが、50メートルを走った時よりの何倍も疲れている。教室からここまで、50メートルもないはずなのに。
しばらくその姿勢のまま肩で息をしていると、1限目開始のチャイムが鳴った。
戻らないと。と思っても体が動かない。便器の中には私が吐き出したものがまだ居座っている。
戻らないと。早く、戻らないと。
左手を無理に動かす。便器の蓋を閉じて右手でレバーを下げる。水の流れる音が、静かなこの空間では大きく響いた。
水の流れが止まったのを確認した後、左手に体重を乗せて立ち上がる。5分近くしゃがんでいたせいか、立ち上がった瞬間にひどい眩暈がした。よろけながらも倒れずにドアのとってを掴むことに成功した。それで体を支えながら、瞬きを繰り返して未だにぼやける景色を振り払う。
ゆかになんて言い訳しようか。吐いてたなんて言ったら問答無用で保健室に連れて行かれる。昨日、あんなことがあったばかりだからそれは避けたい。でないとおかあさんたちにもっと心配をかけてしまう。それに、有井羽月のことも……。
視界がはっきりしはじめた頃、外から女子生徒の話し声が聞こえた。
「心配しなくても、2年の先輩たちはみんな真面目だから大丈夫だって」
「そうそう。うちらみたいに、こんな授業中にトイレで授業サボる不真面目とは違うらしいからさ」
私たちを先輩と呼ぶあたり、1年生の子のようだ。
授業をサボる不真面目な生徒…。
今さら後輩になんと思われようが知ったこっちゃないけど、自分から悪印象を抱かれに行くのはただの痛いやつになってしまう。
なんとなく外に出ることに抵抗を覚えていると、数人の足音が私の個室の前を通った。出るにも出られなくなってしまったので仕方なくじっとして彼女たちが出ていくのを待つことにした。
すると突然、2つ向こうの個室でドアが開く音がする。
「ほら、入れよ。」
乱暴な声と共によろける上履きの音が立て続けに私の耳に入った。と思ったら、ドンッと勢いよくドアが閉まる音がそれを遮るように大きく響く。クスクスという笑い声と、ドンドンッというドアを叩く音が聞こえる中で2人の生徒が再び私のいる個室の前を通った。
もしかして……いや、まだ分からない。
そう思ったのも束の間で水道がある方向から水を汲む音がした。
私は大きく目を開く。それと同時に脳裏によみがえるある記憶。
白いカーペットの上に立つ女の人に向かって、液体が飛び散る。
その女の人が顔を背けた瞬間に……。
自分の呼吸が荒くなるのが分かった。ノアノブを握る手に力を込めて震えるそれを音が鳴らないように時計回りにゆっくりとひねる。
「ねぇ、やっぱやめとこうよ。」
ドアを引く直前だった私の手は動きを止める。
「今さら何言ってんの?」
水道の方から聞こえた気がする。じゃあ、さっきここを通った2人だろうか。
「だってさ」
私は無言で会話を聞く。その間もドンドンッというドアの音は止まない。
「後片付けとか面倒だし、ここ2年のトイレだし…それに…」
片方が一瞬、言葉を濁す。間髪入れずに「それに何?」ともう片方の声が聞こえてきた。
濁した方はすぐには答えなかった。少し間が空いた後、躊躇いがちな足音が1つ水道の方からこちらへ歩いてくる。その足音はドアを挟んだ私の前で止まった。
「この個室に、誰かいるんじゃ、ない?」
直後、ハッと息を呑む声が聞こえた。と思ったら水道に向かって思いっきり水を流す音がする。
「行くよ。」
1人の指示で数人の足音が素早く廊下に出ていく。個室のドアが開く音も聞こえてきて、少し遅れて廊下に飛び出して行く足音も1つあった。
その足音も遠ざかって行ったので、私は個室のドアを開ける。
同じような個室が目の前に現れた。誰もいないと思われても仕方がないほどそこは薄暗かった。照明は切られていて、小さな窓から入ってくるほんのわずかな光のおかげでかろうじて前が見える。
私は一歩、ドアの外に足を進める。そに途端、とてつもない疲労感と解放感でため息が出た。
やっと出られた。
しかしその時、すでに私は1限目に10分以上遅刻していた。
放課後になっても有井羽月の周りには教室のほとんどの生徒が押し寄せた。私はそれを見えないふりをして黙々と教材をカバンに詰める。
「友梨、大丈夫?元気ないけど」
同じくカバンを片付けているゆかが声をかけてくれた。「大丈夫」と答えはしたが、それで納得できるはずがない。「嘘だ」と間髪入れずに言って、ゆかは私を覗き込む。
「1限に15分も遅れて何にも説明してくれなかったのはなんで?有井さんと何かあるの?」
私の手がピタッと動きを止めた。でも、答えられなくてそっと私は目を逸らす。少しイラッとしたらしく、ゆかの片眉がピクッと上がった。
「ちゃんと答えて。」
普段からは想像できないほど真剣な目で言われて、私は少し怯んだ。でも、それで教えられるほど私と有井羽月の関係は簡単ではなかったし、隠し事が全くないほど私とゆかの関係もできてなかった。
下唇を噛んで、私は残りの教材をカバンに入れる。それでもゆかは諦めなくて、「ねぇ、友梨!」とチャックを閉めはじめた私の手を強引に掴んだ。私はその手をパンッと音を立てて振り払う。
「ゆかには関係ない」
さすがにゆかも傷ついた顔をした。その間に私は荷物を手に取って自分の席を離れる。
心が痛まなかったといえば嘘になる。でも、ゆかは知らなくていい。
ドアを目前にした時、後ろに気配を感じた。
「あとで体育館倉庫に」
気にせずドアを開けた私の背中で低くボソッと呟いたのは有井羽月だった。
キィィィ
派手な音を立てて内開きのドアが開く。鉄の匂いがする体育館倉庫は、夕日に照らされて見えるようになった白い埃でいっぱいだった。
「千冬」
有井羽月はもうそこにいた。今朝の鋭い目つきで座っていた跳び箱の上から飛び降り、私のことを呼ぶ。
「私が誰か分かる?」
彼女はまっすぐ私を見る。ドアを完全に閉めて少し彼女に近づいてから私は頷いた。
「香苗でしょ」
私の回答に相手はフッと笑う。
「正解」
そう言った時の彼女はどこか嬉しそうな表情をした。対して私は目を伏せる。
桐生香苗が、来た…。
私の頭は今朝から否定し続けたそれをようやく受け入れる。それと同時に、私の天野友梨としての生活は怖いほどあっさりと終わりを告げた。
牧田千冬。
私の、本当の名前。そして、桐生香苗は私のたった1人の幼馴染。
無意識にギュッと両手が握られた。
「久しぶりだね」
私は彼女を見ずに首だけを縦に振る。その際に、自分の履いている上履きに『天野友梨』と書いてあるのが目に入った。肩からスッと力が抜ける。
桐生香苗との再会…。
私が天野友梨になった日からずっと恐れていたものだった。その時の私は牧田千冬に戻され、その時が私の人生の終末であると勘づいていたから。
たとえそれが幸せではなかったとしても、一生このまま、天野友梨として終わっていくことをずっと、ずっと強く望んでいた。
知らなかった……いや、分っていたけど信じたくなかった。そこまでそれを恐るのは、遅かれ早かれ、その日が実際に訪れるからだということを。
私は静かに深呼吸した。
その様子を有井羽月…いや、桐生香苗は見逃さない。「あれ?」とわざとらしく惚ける。
「目ぐらい合わせてよ。せっかく私が会いに来たのに。千冬は嬉しくないの?」
小馬鹿にするような口調にイラッとした。ふざけるな。そう返すつもりで勢いのままバッと顔を上げる。しかし、怨念という怨念を全て顔に貼り付けた彼女を見た途端、その声は外へ出る前に体の奥底で無残に散った。
「何?嬉しくないの?」
今にも私を呪殺しそうな表情で香苗はグッと私に詰め寄った。思わず一歩後ずさると、すかさず相手も一歩こちらに足を踏み出す。
「まぁ、そうだろうね」
彼女がさらにこちらへ足を進めてきたので、今度は2、3歩後ろに下がる。
そうしているうちに、どんどん後ろに追いやられく。
再び一歩下がった時だった。
そこにあったバドミントンの支柱に足を取られてしまい、そのまま後ろに体が傾いた。
あっと思った時にはもう止めようがなく腰が床に勢いよく着地する。
その時に背中と頭も入ってきたドアに当たった。昨日の傷も地味に痛んで「うっ」と声が出た。
そうしているうちにも、香苗はお構いなしに歩み寄ってくる。
外開きのドアなら逃げられたかもしれない。
そんな考えが頭に浮かんだりもした。
でも、もう遅い。
容赦なく近寄ってくる彼女を力の限り睨みながら、私は半ば諦めていた。
何もかもがもう遅い。
香苗の顔がすぐそこに来た。
「逃がさないよ。性悪狸。」
体育館倉庫に私を呼び出した時のような低い声で、私の耳元まで顔を寄せて彼女はそっと囁いた…はずだが、
「ク、クク」
その声はすぐに笑い声に変わる。「え?」と私が横をみると彼女はさっと私から離れた。
「アッハハハハ」
そのまま後ろに倒れ込んだ香苗は声を上げて笑いだした。
さっきまでのあの気迫は何だったんだろうか。
何がそうさせたのか分からないが、香苗は唐突に腹を抱えて笑い出した。私は多分相当間抜けな顔でそれを見ていたと思う。気づいた時には口の中が乾燥していた。
「あー、面白い。」
しばらく笑ったあと、彼女はヒョイッと上半身を起こした。
「ねぇ千冬。私、ちゃんと怖かった?」
立ち上がった彼女は微笑んで腰を下ろしたままの私に手を差し伸べる。
その顔は別人のように穏やかだったが、転入生の有井羽月の顔でもない。
私は少しためらった末に、彼女の手を取る。
私の手を掴んだ香苗は、小柄で華奢な外見からは想像できないほどの強い力で私を引っ張る。
「千冬って、相変わらず鈍臭いよね。あそこで転ぶとは思わなかったよ。運動神経いいはずなのにさ。」
私に向かってそう笑いかける彼女は、紛れもなく、10年以上前に別れた私の幼馴染の顔をしていた。
「みんなの前では天野友梨で。」
「千冬…じゃなくて、天野さんもね!」
「何で敬語?」
「天野友梨さんとはまだ仲良くなってないから。」
「そっか…」
私がスッと目を伏せる。
少し間が空いて、香苗はポンッと私の肩に手を置いた。
「でも、ほんと、久しぶりだね。千冬。」
「……」
有井羽月……?
ふと浮かぶ香苗の偽名。
笑ってしまった。本当に彼女とは…
「久しぶりに会ったね」
人間の守護者に私は言った。
「ただいま」
私がドアを開けると早番で平日では珍しく揃った2人が台所から顔を出した。
「おかえりなさい。」
お義父さんとお義母さんはいつも通り、私に向かって笑いかけた。