第1話
ガシャンッ
窓ガラスが割れる音がした。
また誰かに石でも投げつけられたんだと思う。
「もう、また……?」
おかあさんの泣きそうな声が2階にいる私の耳にも届いた。
ガシャンッ
再びどこかの窓ガラスが割れる。
「…またか……」
今度はおとうさんのため息が聞こえた。
今まで何枚の窓ガラスを割られたんだっけ?
両親が割れたガラスの破片を拾う音が聞こえる中、私は呑気に頭の中で数え出す。
……割られてないのの方が少ない。
その少ないうちの1つに私の部屋の窓があった。私は椅子から立ち上がって窓の方へ近づく。埃は被っているが傷は1つもない。2階だからと言うのも理由の1つだろうか。
「友梨!窓から離れなさい!」
1階からおかあさんの声が聞こえた。
ガシャンッ
その刹那、私の目の前にあったガラスが音を立てて割れる。
反射的に目を閉じて左腕で顔を庇うと、額にごつごつとした何か重いものが当たった。それにそのまま押されるようにして後ろに倒れる。
ガラスの破片が自分の体の上に落ちてくるのが分かった。
額からは生温かいものが流れ出る。それを皮膚が認識した瞬間、全身にビリビリッと痛みが走った。
「友梨!」
おかあさんが音を立てて部屋の中に入って来る。程なくして、私を呼ぶ声は金切り声に変わった。
「どうした?」
おとうさんの声が部屋の入り口から聞こえたのはそのすぐあと。
痛みで目をつぶっているので2人の姿は見えない。それに、だんだん2人が何を言っているのか分からなくなってきた。
おかあさんの高い声もおとうさんの太い声も聞こえる。言っている言葉はわからなくても、2人が、特におかあさんが慌てているのは確かだ。
消えることのない痛みに「ううっ」と低い声が自分の口から漏れる。だんだんと声も痛みも遠ざかっていく。
最後に聞こえたのは救急車のサイレンで、気づけば私は意識を手放していた。
__千冬ちゃん?
それは遠い日の記憶。
思い出したくない悪魔の記憶。
でも、忘れることは、決して、許されない。
__いつか絶対、会いに行くからね
来なくていいよ。来ないでいいよ。
だって今の私は千冬じゃない。
「友梨」
自分を呼ぶ声で夢から引き戻された。
それと同時に、天井に取り付けられた無数のLEDライトの光が一気に眼球へと飛び込んでくる。
「…」
眩しさのあまり顔を背けた。
目の痛みが引いてから、私はもう一度目を開ける。すると、今度は束ねられている薄い黄色のカーテンが目に入った。
ベッドの白いシーツからはフワッとお日様のいい香りがする。
「大丈夫?」
頭上から優しい声が降ってきた。顔を向けると、心配そうな顔をした少女がベッドの隣にある椅子から身を乗り出していた。
誰だっけ?
目の前に座る少女が、誰か分からなかった。私が口を半開きにして固まっていると、相手が不思議そうに首を傾げる。
「友梨?」
友梨……
ハッ
「うん。大丈夫。心配してくれてありがとう」
私がこくりと頷くと、「良かった…」と彼女は安堵の長いため息をつく。
「天野さんたちに知らせてくるね。」
にっこりと笑って駆け出す彼女を私は無言で見送った。
誰もいなくなったのを確認してから、ふーと肩を落とす。
天野友梨。
そう。私の名前は天野友梨。
言い聞かせるように心の中で繰り返しながら体を起こした。
途端、ズキっと頭が鈍い痛みを放つ。思わず顔を歪め、こめかみを手で抑えた。しかし手にざらざらとした感触が伝わり、ハッとして今度はその手を頭から離す。恐る恐る目の前に持ってきた手には、何もついていない。
私は無意識のうちに窓ガラスを見ていた。夕日と闇が混ざった空の手前に、ベッドに座る私がうっすらと映る。その頭に白い布のようなものが巻かれていた。
ああ、そうだ。
私、救急車に運ばれたんだ。
今更のように思い出す。ベッドライトの横の電子時計には4月10日、17時58分と表示されていた。あれから5時間近くも経ってるんだ…。
意味もなくそう認識した時、そばに置いてあったスマホがピロン〜♪と鳴った。
なんだろう?
不思議に思ってスマホに手を伸ばしかけたその時だった。
「友梨!」
大きな音を立てて、おとうさんとおかあさんが私の病室に入ってきた。
私が目を見開いていると早足でこちらへ歩いてくる。
「生きてる…」
おかあさんは安堵のため息をつき、その場にヘナヘナと座り込んだ。
「ゆかちゃん。ありがとうね。」
おとうさんが言うと、先ほどの少女は脱力したような表情で首を横に振る。
「帰ろうか。」
おとうさんがそう提案した時、6時を知らせる時計の音が病室に響いた。
ピロン〜♪
家に着いた頃、スマホがなった。
ああ、そう言えば、病院でもなってたっけ。
カチッと電源ボタンを押すと買った時から変わらない見慣れたホーム画面が姿を見せた。
白い数字で刻まれた時刻に下に、通知を知らせる白い枠が1つ。LINEからだった。
『私はあなたの…』
眉を顰めた。知らない名前の人からだったのもある。でも、それよりも、この文章…。
画面を上にスライドして、ロックを解除する。
0212
打ち慣れた4桁の数字。
エンターキーを押す前、なんとなく体が抵抗を覚えた。
『私はあなたの…』
頭の中でふとよぎるあのメッセージ。
あなたの…って、私の、何?
背中に悪寒が走る。
震える手でキーを押した。わずかな振動が指先に伝わる。
もしも、もしもあの言葉の続きが、あの続きが…。
LINEを開くと確かに知らない名前があった。『UDUKI』と書かれたその下には例のメッセージが小さく表示されている。
ふぅ、と深呼吸する。
大丈夫、と気持ちを落ち着かせる。
私はトークを開いた。
『お久しぶりです』
『私はあなたのことを知っています』
短い2つの文。
嫌な予感は的中した…いや、まだ、まだ分からない。
『どういうことですか』
打って送信した。
すると瞬きする間に既読がつき、信じられないほど早く返信が来た。
『あなたのことはなんでも知っているということです。たとえば、あなたの名前は…』
私はスマホを切った。
その直後、右隣にあったベッドに向かって思いっきりスマホを叩きつける。うまくベットの上に乗らなかったそれは、数秒もしな間にゴトンッと床に落ちる。
ピロン〜♪。
ピロン〜♪。
ピロン〜♪。
仰向けで着地したそれから、立て続けに着信が来る。
私はその全てを無視して電源を切った。
「友梨?」
ドアが開く。
「大きな音がしたけど、何かあったの?」
おかあさんが顔を出した。
友梨。
そう、私は天野友梨。
私は首を横に振った。
「なんでもない」
口角を上げたつもりだが、うまく上がったかわからない。
案の定、おかあさんは不審に思ったようだ。
「本当に?」
おかあさんの唇が少し震えている。私は一瞬言葉に詰まった。
言いたい。
誰かに、言いたい。
本気でそう思った。でも…。
「本当、だよ。さっきの音は、スマホを落としただけだから」
喉まできた言葉を必死に飲み込み、精一杯表情を和らげて伝えた。
「……」
おかあさんは何かいいたげだったが、それ以上何かを聞かれることはなかった。
「そっか」
と掠れた声で言って私の部屋のドアを閉めたおかあさんの、階段を降る音が私の耳にもしっかりと入る。
その音が聞こえなくなったことを確認して、長いため息と共に体を横に倒す。
『UDUKI』は私の名前を知っていた。どこでどう知ったのか分からないが、知っていた。
でも、私の周りに『うづき』なんて名前の人はいない。
手元にはウサギのゆるキャラが描かれたぬいぐるみがあった。
私は意味もなくクッションかと疑うほど柔らかいそれをそっと抱き抱える。
これは、小さい時に、父と母に、買ってもらったもの……だ。
脳裏に2人の顔がチラつく。再び長いため息をついてうさぎの耳と耳の間に顔を埋める。
落ち着く。自然と瞼が閉じていった。
今日はいろいろあったな。
なんて考えてたら、いつのまにかウトウトしていた。
__私は、天野友梨…
最後にそれを確認した。