【電子書籍化】囚われの聖女と眼鏡宰相の、夜の舞踏会
銀色の丸い月が高くのぼり、セレスティアの部屋を明るく照らし出す。薄暗かった部屋の中が、月の光で白く照らされた。
塔の最上階にあるこの部屋に月が訪れるのは、満月のこの夜だけ。そして、セレスティアの待ち人は、満月と共にやってくる。
セレスティアは、ゆっくりと寝台から身体を起こすと、クロゼットに向かい、奥深くにしまってあるドレスを取り出した。月の光を編み込んだような銀色のドレスは、飾り気のないシンプルなものだけど、セレスティアにとっては大切なもの。身に纏うと、ふわりと広がる裾が柔らかく揺れた。
装身具なんて何ひとつ持っていないけれど、編んでいた髪を解けば、腰までの長い髪はゆるやかに波打って広がる。銀色の髪が、月の光を受けて艶やかに輝いた。
塔の階段を登ってくる足音に気づいて、セレスティアは高鳴る鼓動を落ち着かせるように胸に手を当てた。
やがて、近づいてきた足音は扉の向こうで止まり、そのかわりに小さなノックの音が響く。
「――ティア、起きているかな」
扉の向こうからかけられた、低く甘い声。
セレスティアは、緊張に震える手を握りしめると、ゆっくりと扉を開けた。
そこに立っていたのは、背の高い男。夜の闇に紛れるためか、黒いローブを羽織っている。
冷たく整った顔に眼鏡がよく似合う彼は、史上最年少の若さでこの国の宰相となった男。
いつもはしっかりと整えられている淡い金の髪が、今は少し乱れて額に落ちている。それだけ急いで来てくれたということなのだろうか。
「オリヴェル様、こんばんは」
嬉しさで頬が緩まないよう気をつけながら、セレスティアは美しい仕草でお辞儀をする。それを見て、オリヴェルが優しく微笑んだのが分かった。
「今宵も、私のティアは美しい。まるで、月の女神のようだ」
オリヴェルの手が、ゆっくりとセレスティアの髪を撫でる。その優しい指先にうっとりとしながら、セレスティアは目を細めた。彼に触れられると、鼓動が速くなるし、思わず笑い出したくなるほどに幸せな気持ちになる。
どうして彼にだけそう思うのか、その理由は分からないけれど。
「では、踊っていただけますか?お姫様」
ローブを脱いだオリヴェルは、銀の刺繍が美しい正装姿をしている。差し出された手をとって、セレスティアはにっこりと微笑んだ。
◇
音楽のない部屋の中、2人はゆっくりと踊り始める。
くるり、くるりと回るたび、セレスティアのドレスの裾は大きく広がった。
誰も知らない、2人だけの舞踏会。
明るく照らす月だけが、その様子を見ている。
本物の舞踏会がどんなものなのか、セレスティアは知らない。オリヴェルに教えてもらった、このダンスだけが、セレスティアの知っている全て。
セレスティアは、物心ついた時からずっと、この塔の中で暮らしている。
その理由はただひとつ、セレスティアが聖女だから。
セレスティアの流す涙は、瞳からこぼれ落ちた瞬間に美しい結晶となる。その結晶には癒しの力があり、病に苦しむ人々を救っているのだという。
聖女の涙は、清らかなものでなければならない。
悲しみや苦しみで流す涙に、癒しの力はない。
だから、セレスティアの生活は、とても満たされていると思う。清潔な部屋で、飢えに苦しむこともなく、神への祈りを捧げながら過ごす、穏やかな日々。
聖女の涙を狙う不届き者から身を守るため、国はセレスティアを保護してくれている。
この塔から出ることはほとんどないけれど、年に一度、建国祭の時にはセレスティアも聖女として人々の前に姿を見せる。人々がセレスティアに向ける視線は優しくて、セレスティアの涙で病が治った人から感謝の言葉をもらうこともある。それだけで、セレスティアは充分に幸せだ。
満月の晩、ここでオリヴェルと2人きりの舞踏会が行われるようになったのは、いつからだっただろうか。
確かそれは、セレスティアの些細な我儘から始まった。
差し入れられた本を読んでいて、お城で開かれる舞踏会のシーンに、セレスティアの心はときめいた。清貧であれと言われることに疑問は持っていなかったけれど、それでもきらびやかな舞踏会に憧れる気持ちはあったのだ。
いつか舞踏会に行ってみたいと口にしたセレスティアに、まわりの者は皆困った顔をした。
セレスティアとしては、ドレスを着て参加したかったわけではなく、ただそっと外からのぞくくらいで良かったのだけど、警備のことを考えればそれすらも難しいことはよく分かる。
慌ててその言葉を撤回したセレスティアだったけれど、その話はしっかりと報告されていたらしい。
その日の晩、オリヴェルがセレスティアのもとを訪ねてきた。シンプルだけど美しい、銀色のドレスを持って。
――ここが、貴女にとっての舞踏会だ。踊っていただけますか、お姫様?
優雅な仕草で手を差し出したオリヴェルに教えられて、セレスティアは拙いダンスを踊った。きっと、本の中の舞踏会とは全く違うものだったけど、それでもセレスティアは嬉しかった。
冷たくて怖い人だと思っていたオリヴェルが、こんなことをしてくれるなんて嬉しい驚きだったし、眼鏡の奥の青い瞳が、思いがけず優しい色をしていることを知れたことも楽しかった。
嬉しくて、楽しくて、幸せで。言葉にできないほどのその想いは、涙となってあふれた。
瞳からこぼれ落ちた瞬間に結晶となった涙は、それまで見たどんな結晶よりも大きく美しくて、きっとそれはセレスティアの心が幸せに満ちていたから。
以来、満月の晩にオリヴェルはセレスティアのもとを訪れ、2人きりの舞踏会を開いてくれる。満月の夜は、セレスティアの聖女としての力が一番強くなる日だから。
オリヴェルの真意は分からない。
聖女であるセレスティアの心の安寧のためなのか、それともこの美しい涙の結晶のためなのか。
宰相である彼の考えることは分からないけれど、彼がここでだけ呼ぶ『ティア』という名前は、セレスティアの宝物だ。オリヴェルにそう呼ばれるたび、胸の奥が苦しくなるほどに嬉しくなる。そして、その気持ちは涙となってこぼれ落ちるのだ。
◇
セレスティアの息があがってきたことに気づいたのか、オリヴェルが足を止めて顔をのぞき込んだ。
「少し疲れたかな、ティア」
「平気、です。まだ踊れるわ」
「それなら、ゆっくりと踊ろうか」
強がってみたこともきっとお見通しなオリヴェルは、笑ってセレスティアを抱き寄せた。彼の胸に頬を寄せるような体勢に、鼓動が別の意味で速くなっていく。
ゆったりとしたステップを踏みながら、オリヴェルはセレスティアの髪をそっと撫でた。
「そういえば、もうすぐティアの誕生日だね。お祝いをしなければ。何か欲しいものはあるだろうか」
「えっと……」
思いがけない言葉に、セレスティアは戸惑って目を瞬く。
セレスティアにとって誕生日とは、最も縁遠い日。
産まれてすぐ、孤児院の前に捨てられていたらしいセレスティアは、正式な誕生日も定かではないし、祝ってくれる家族もいないから。
身の回りの世話をしてくれる侍女も、護衛の騎士も皆優しいけれど、家族とは言えない。
だから、誕生日を祝われたことなどなくて、自分の誕生日が特別な日だと思ったこともなかった。
「わたしの生活は充分満ち足りていますし、欲しいものなどありません」
思わず足を止めてオリヴェルを見上げると、困ったような微笑みが向けられた。
「ティアは、欲がないね。聖女だからといって、何もかも我慢する必要はないんだよ」
「わたしの欲しいものは、オリヴェル様がいつもくださるから」
セレスティアは、そう言って微笑みを浮かべる。
美しいドレスも、2人きりの舞踏会も、彼だけが呼ぶ名前も。全部全部セレスティアの宝物だ。
彼が、聖女の機嫌を損ねないために、そして美しい涙の結晶を手に入れるためにこうしていることは薄々分かっている。でなければ、忙しい彼がセレスティアに構う理由が分からない。
それでもこの時間は、セレスティアにとって幸せすぎるほどに大切なものだから。これ以上を望むことは、きっと許されない。
「また次の満月の夜にも、こうしてお会いできたら、それだけで充分です」
にっこり笑って見上げたつもりが、目の前のオリヴェルの顔が歪んで見える。いつの間にか涙を浮かべていたことに気づいて、セレスティアは目を見開く。
ぽろりと、頬をつたって落ちた涙は、結晶化することなくドレスに小さな染みを作った。
「え、あれ、どうして……」
「ティア」
オリヴェルの指先が、そっとセレスティアの涙をぬぐう。あとからあとからこぼれ落ちる涙は、一粒も結晶化することなく、消えていく。
「ごめんなさ……、わたし、どうしちゃったんだろう」
慌てて頬を押さえながら泣き止もうと努力するものの、こぼれ落ちる涙は止まらない。
結晶の形をとることなくドレスに吸い込まれていく雫を見て、やがてセレスティアの身体はかたかたと震え始める。
こんなに幸せなはずなのに、こぼれ落ちる涙は結晶化しない。それはつまり、セレスティアが聖女の力を失ったことを意味するのではないだろうか。
聖女でなくなったセレスティアには、何の価値もない。
いつしか、こぼれ落ちる涙は恐怖と混乱から流れるものに変わっていた。
「ティア、落ち着いて」
低い声が優しく耳元で囁き、あたたかな腕がそっとセレスティアの身体を抱き寄せた。こぼれ落ちる涙は、オリヴェルの服にいくつもの染みを作っていく。
「だってわたし……、涙が」
しゃくりあげながらつぶやいた言葉に、抱きしめる腕が強くなった。
「大丈夫だから」
あやすように頭を撫でた手がゆっくりとセレスティアの頬に触れ、顔を上げるようにと促す。涙で歪んだ視界の中、オリヴェルは優しい微笑みを浮かべたままだった。眼鏡の奥の青い瞳が、そっと細められてセレスティアを見つめる。
「ティアは、色々と我慢をしすぎだ。その涙はきっと、きみの心が悲鳴をあげているからだ。もっと、我儘を言ってもいいんだよ」
「我儘なんて、そんな」
セレスティアは、ゆるゆると首を振る。
安全で、衣食住の保証された生活。これ以上、何を望めというのだろう。
「やりたいこと、行きたい場所、欲しいもの。色々あるだろう。ティアは知らなかったかな、私はこう見えて結構偉いんだ。ティアの希望を叶えることくらい、簡単なことだよ」
悪戯っぽく笑うその表情は、いつもよりも幼く見えて、セレスティアの顔にも少し笑顔が戻る。笑った拍子にぽろりとこぼれ落ちた涙は、小さな結晶となって床に落ちた。
「あ……」
再び涙が結晶化したことに、セレスティアは安堵のため息をつく。どうやら、聖女の力を失ったわけではないようだ。
「ティアの涙は、本当に綺麗だ」
床に転がった結晶を拾いあげ、月の光を透かすようにして、オリヴェルがつぶやく。
「誕生日の夜、またここに来ても構わないかな」
お祝いをしようと微笑まれて、セレスティアは戸惑いつつもうなずく。何の意味も持たないはずの自分の誕生日が、突然大切な日になったような気がして、何だか落ち着かない。
「その日に、ティアの望みを聞こうか。誕生日には、少しくらいの我儘は許されるものだよ」
考えておいてと言われて、セレスティアは黙ってうなずいた。
オリヴェルはそう言ってくれるけれど、満月の夜以外に彼に会えること自体が、セレスティアにとっては大きな我儘を叶えてもらうようなものだ。他に欲しいものなんて、ない。
喜びにあふれた涙は、また美しい結晶となって頬を滑り落ちた。
◇
泣いたせいか、急に眠気を感じて小さく欠伸を噛み殺したセレスティアを見て、オリヴェルは笑って頭を撫でてくれた。
「そろそろ休もうか。ティアが眠るまで、ここにいるよ」
寝台へ行くよう促されて、セレスティアは少し残念な気持ちになりながらうなずいた。
早く休まなければ明日に差し障ることは分かっているけれど、オリヴェルと過ごす時間が終わってしまうことが寂しい。だけど、次の満月を待たずに彼にまた会えることは嬉しい。
「おやすみ、ティア。よい夢を」
寝台に横になったセレスティアの額にそっと触れて、オリヴェルは優しい笑みを浮かべた。冷たく見られがちな人なのに、触れる手はとてもあたたかい。
「おやすみなさい、オリヴェル様」
あたたかなこの手のぬくもりが、ずっとそばにあればいいのにと思いながら、セレスティアは目を閉じた。
◇
穏やかな寝息を確認して、オリヴェルは小さくため息をついた。
聖女として、この塔の中に囚われた美しい少女。
世の中の悪意に触れることなく育ったセレスティアは、驚くほどに無垢だ。
彼女に美しい涙の結晶を流させるため、そして外の世界を知りたがる彼女の心を宥めるため、オリヴェルは満月の夜にセレスティアを訪ねる。
史上最年少の宰相だと持て囃されていても、結局のところオリヴェルの立場はまだまだ弱い。年の近さとこの顔で、聖女の心を掴めと命じられれば、それに従うしかない。もっとも、年が近いとはいっても、彼女とオリヴェルは10近い年の差があるけれど。
恋に溺れるほどではなく、だけどオリヴェルのためならと従順に言うことをきくように。
思惑通り、セレスティアはオリヴェルのことを信頼し、本人に自覚はないものの、仄かな恋心すら抱いている。純真無垢な聖女は、恋の何たるかすら、理解していないだろうけれど。
だけど、その無垢な美しさに心惹かれたのは、オリヴェルも同じだ。
勝手に聖女だと持て囃され、こんな場所に閉じ込められて。それなのに、この小さな世界の中で幸せだと微笑むセレスティア。
いっそ純潔を奪えば、彼女はここから自由になれるかもしれない。
そんな昏いことを考えながら、オリヴェルはセレスティアの頭をそっと撫でる。
だけど、そうすれば彼女からは、この笑顔は奪われてしまうだろう。
オリヴェルが欲しいのは、幸せそうに微笑むセレスティアだ。いつの日か、外の世界で彼女の笑顔を見たい。
「……いつか、ここから出してあげる」
オリヴェルのつぶやきは、眠るセレスティアの耳には届いていない。
窓の外から、大きな丸い銀の月だけが、2人を見守っていた。