19
窓の方から顔を外さずにミレイネへ問うリーザロッテ。
「いいえ。ですが、その私物を持っておられたのはすごいお方ばかりですので、何かそういったすごいものが乗り移ったのではないでしょうか」
「……あれらの源は、未練、執着、憎悪など、どろどろといつまでも分解されない凝り固まった感情の塊だよ」
「えっ?」
優れた王でも、晩節を汚す者が多い。徐々に衰えていく身体、思考、そして追いつけない時代の移ろい。それらが執着や未練を生む。自分はまだやれる、まだ国を良く出来る、名君であり続けなければならないと。志であったものが狂信へと変わる。王が狂えば民も狂う。それらが狂えば国が狂う。
そんな最悪に、玉座に座る者の首が挿げ変わる。
切り取られた首が持つ黒い感情や失明させるほどに眩い志はどこで消化されるのか。されずに残り続けるのだ。
英雄と呼ばれ、勇者と呼ばれた人物らはひとたび戦に出れば一騎当千、百戦錬磨だっただろう。だが、彼らが立つところには必ず屍が転がっている。敵のものもあれば味方のものも然り。彼らが百戦錬磨であっても、豪勇無双であっても、親しい友人や知人は彼らのいない別の戦場で死んでいる。
幾多の凄惨な戦場を乗り越え勝利を手にしたところで、彼らは常に失い続ける戦場に毅然として立ち続けなければならない。そんな英雄らが何も思わず、狂わずいられるだろうか。
知らない誰かは守られても、語らい背中を預けた戦友は死ぬまで戦い、再会する頃には冷たくなっているものがほとんど。それでもその命を惜しむ暇も許されず死地に赴く。残るのは何か。時の流れの中で色褪せ形骸化した武勇と、勝利の美酒に酔いしれ腐敗を辿る自国のみ。
「そなたらが聖遺物と呼んでいる代物は、そんな狂気の果てに残った純粋な感情だ。それらは時がどれほど経とうが消えない。消えるのならば端から狂気の旅路の中で既に失っている。そなたらは、そんな狂気すらも道具として扱おうと――」
ミレイネは思わず後ずさっていた。
聖人君子と呼ばれた名君の私物も、国の滅亡を救った英雄の私物も、そのどれもが狂気の中で、絶望の中で、個人の望みを、個人であることを極限にまで消去し戦い続けた成れの果て。
そんな成れの果てに込められた感情すらも他人に読み取ってもらえず、道具として『聖遺物』などと仰々しい名称を付けられ、ありがたがられる。
時間が経てばそんな有難みすらも風化し、単純に道具としての価値だけが残った。
そんな彼ら英霊を土足で踏みにじるような振舞いをしていたことに、ミレイネはただただ恐怖した。
「……黒炎の魔術師は汲み取ったのであろう、無名な英霊のそんな成れの果てを」
真っ黒な感情だったのか、狂気の中でも失わず守り続けた誇りだったのか、汲み取れない者には分からない。
それでも黒炎の魔術師は、受け取った魔力から英霊の意志を感じ取ったのだろう。それが魔術師の『制約』に触れたのだ。
「……魔術師としては短命だったであろうが、英霊すらも形骸化され価値だけが薄汚く残る今の世で、お前だけが彼ら英霊の永遠に燻り続ける感情を拾い上げられたのだ」
リーザロッテは一区切りし、背筋を伸ばしてから続ける。
「お前――、名も知らぬ黒炎の魔術師、そなたに敬意を示そう」
それはミレイネがこれまで聞いたことのない温かみのある言葉だった。
それから少ししてミレイネはテーブルを拭き、皿を乗せたワゴンを押してリーザロッテの部屋を出た。
一人になった大きすぎる部屋の中で、変わらず窓の方を向いたままリーザロッテは一人ごつ。
「……聖遺物と呼ばれているものの中には、例を出させると必ず挙がる主要なものがある」
窓の外の太陽がうっすらと雲にかかり、魔力灯を点けていない部屋が薄暗くなる。
「その一つが、原典。エインズ、お前の記した書だ。……知っているか? お前の書の生成する魔力は、一般の人間が読めば発狂し死に至るほどの毒なのだそうだ、妾は感じぬがな。聖遺物の本質は先に話した通り」
ならば――。
リーザロッテの感情は、その声色からは読みとれない。
日が差し込んでいた温かさも徐々に無くなっていき、薄暗い部屋はひんやりと冷え始める。
「お前の書、原典はそこらの聖遺物とは比べ物にならん」
リーザロッテは窓の方を向きながら立ち上がり、ネグリジェを脱ぐ。
きめ細やかな肌が露わになるが、この部屋にはリーザロッテ以外誰もいない。誰も彼女の裸体を見る者はいない。誰も彼女のその時の表情を見る者はいない。
「エインズ、お前は狂気の旅路で何を見た? いまだ続く狂気の中で何を見る? お前の成れの果ては、どこにある?」
リーザロッテは引き締まった身体に胸を微かに揺らしながら裸足でベッドへ向かう。
「――我が師よ。妾はすでに旅路にいるのだろうか?」
リーザロッテはベッドの中へ潜り、小さくして眠った。
〇
「……そんで俺はなんでこんな堅っ苦しい執事みてえな恰好しているんだ?」
ここは居住区にあるブランディ侯爵の屋敷。
いま一つ自分の状況を理解出来ず、執事服を着こなせていない巨大な体躯の男性。手はごつごつとしており、パンツに隠れる大腿筋の発達具合は見事なもの。二つの大きな鋼鉄プレートのような大胸筋はその存在感を隠せていない。
「ぷぷぷっ。タリッジ、君ぜんっぜん似合ってないね」
「そうですね。絶望的に、壊滅的に似合っていません。馬子にも衣装なんて言葉もございますが、タリッジは含まれないと但し書きをしておかなければいけませんね」
そんな目つきの悪い巨漢を前に、隠すことなく腹を抱えて笑うエインズと顔色一つ変えずに冷酷な言葉を投げるソフィア。
「ソフィアって前から思っていたけど、けっこうズバズバものを言うよね」
「うじうじ煮え切らない物言いは私自身が嫌いですので」
澄ました顔で答えるソフィアに、
「……無理やり着せられて、こき下ろされる俺のことも考えてくれよ」
でかい図体に似合わず肩を落とすタリッジ。
「まあ、いいじゃん。そのうち、タリッジのその、ぷっ、その姿も、見慣れる、ぶふっ、かもしれないん、だし?」
「おい、笑いが漏れ出てるぞその口から。溶接が必要か?」
なぜ今、タリッジがブランディ家の屋敷で執事服を着ているのか、話はスラムでの一件が終わった頃まで戻る。