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リーザロッテの細い指がステムに添えられ、ワインを空気に触れさせるようにボウルの中で回す。
朝から飲むということもあり、軽い口当たりの赤をリーザロッテは指定している。
渋みも酸味も軽いワインを、リーザロッテは味を楽しむというよりかは、口の中に残る肉の重みをリセットするために、洗い流すように口に含む。
「どうしてリーザロッテ様がブランディ侯爵の動きについて? ですが、関係あるのかわかりませんが、本日昼過ぎにブランディ侯爵が登城されます」
「内容は?」
「聖遺物の献上、とだけ耳にしています」
なるほど、とリーザロッテはこの朝からの騒動についてある程度理解した。
カンザスがこの件で動くということは、間違いなく魔術師であるエインズが絡んでいる。加えて、黒い炎と聖遺物という性質。これが意味するところは、
「もうその黒い炎を操る魔術師はこの世にいないであろうな。騒ぐだけ無駄よ」
口に含んだワインが、中に残っていた肉の油を分解する。
「この件で国王陛下がリーザロッテ様にお尋ねしたいことがあるみたいでして」
「……また妾に出向けと言うのか、ヴァーツラフは。これは一度、しっかりと躾し直さねばならんか?」
「……」
ミレイネは何も言うことが出来ない。リーザロッテに同意するということは、サンティア王国のトップである国王を蔑ろにすることを意味する。逆にリーザロッテの言葉を否定しようものなら、その程度のことで彼女は一線を越えるようなことはしないものの、ミレイネにかける嫌がらせの頻度はさらに増すであろう。
「ヴァーツラフをここへ呼べ、ミレイネ。ハーラルも同行させるとよい」
何も言わず静かに直立しているミレイネに、リーザロッテはぶっきらぼうに指示を投げる。
そこに、廊下と繋がる扉がノックされる。
「入るぞ」
リーザロッテの返事を待たずして扉が開けられる。
ミレイネはすぐに扉の方を警戒する。ノックしたとしても、こちらの――、リーザロッテの了解を待たなければ開けてはいけない。
それを無礼にも開ける輩である。
「誰ですか! ここがリーザロッテ様のお部屋と知ってのことか!」
やや殺気を出しながら語気を強めるミレイネだが、入ってきた人物を見て一瞬で顔を青くした。
「いや、すまないすまない。だがリーザロッテであれば、余に自らこちらへ出向けと言うと思ったからの」
現れたのは、老いながらもその眼力の鋭さはいまだ健在、見る者に畏怖の念を抱かせる人物――、ヴァーツラフ国王。
「へ、陛下! 申し訳ございません! 私、陛下とは知らず、このような――」
ヴァーツラフは、手でミレイネを制し、落ち着かせる。
「よい。そなたはそなたの職務を全うしただけじゃ。むしろその対応の速さは称賛に値する」
「も、もったいなきお言葉にございます!」
そうミレイネは深くお辞儀を一度して、リーザロッテの横に控える。
「ほう、ヴァーツラフ。妾が言う前に自らこちらに来るとは殊勝な心がけだな」
ヴァーツラフは適当に、リーザロッテに向かい合うようにして椅子に座る。
「余も、そなたの小言を朝から聞きたくはないからな。自然と身体が動いた。何か魔術でも使ったかリーザロッテ?」
ヴァーツラフの軽口を鼻で笑い、パンに手を付けるリーザロッテ。
「っ!? お、はようございます、リーザロッテ様」
ヴァーツラフの後ろから入ってきたハーラルは、リーザロッテのネグリジェ姿に狼狽してしまう。
黙っていれば絶世の美女であるリーザロッテの妖艶なネグリジェ姿は、年頃の青年であるハーラルには目に毒である。
「ほほう、どうしたハーラル? 顔が赤らんでおるぞ?」
「い、いえ僕はっ」
リーザロッテは、ミレイネをいじめるときのような、ニヤリと笑みを浮かばせながら少し前傾姿勢になる。
それにより髪の一束が肩口から垂れ落ちる。
一束が垂れ落ち、薄いネグリジェにかかる小さな音がハーラルの耳を刺激し、清らかな青年の耳まで紅潮させる。
「ハーラル。そなたも女の身体に興味が出てきだした年頃か? 初めてが妾では後が大変だぞ?」
爽やかな朝には場違いな湿っぽい声色で囁くリーザロッテ。
「……リーザロッテ、冗談はよしてくれ。そなたのような年増の魔女に余の息子はやれん」
ヴァーツラフは肩をすくめながら、血色の良い舌で唇を湿らせるリーザロッテを見やる。
「おい、ヴァーツラフ。お前、殺されたいか?」
「おお、怖い怖い。更年期を何周も過ぎた女は怖くてたまらん」
「ふんっ、お前も本当に言うようになったな。それに怖いもの知らずにもなった。頼もしい限りだな、まったく」
ふう、とリーザロッテは一息ついてからミレイネに目配りをする。
ヴァーツラフの前にワイングラスを置こうとするが、手で制され、代わりにグラスと水差しを置く。ハーラルにも同様にグラスと水差しを置くと、再びリーザロッテの後ろで静かに控える。
「朝からの騒動の件は先ほどミレイネから聞いた。何が聞きたい?」
リーザロッテはパンを一口サイズにちぎり、バターを薄く塗って口に放り込む。
「目撃された黒い炎というのは、やはり魔法ではなく魔術なのか?」
「ほぼ間違いなく、な」
あっさりとリーザロッテから返され、思案するヴァーツラフ。
しかしリーザロッテは理解している。すでにヴァーツラフが思案する必要はないことを。
「安心するがよい。すでに黒い炎を使う魔術師はこの世におらん。新たな魔術師が生まれない限り二度と起きんよ」
「なぜ分かるのですか、リーザロッテ様」
ハーラルは水差しからグラスに水を注ごうとして手を止める。
「ヴァーツラフ、……妾はハーラルにも少し教えたか? 魔術師には必ず『制約』がある。そして黒い炎、『黒炎』の魔術は昔から有名でな」
細かな差異はあれどその制約も有名だ、とリーザロッテは遠い目をして語る。
「黒炎の魔術。これは魔術の中でもとりわけ人間味の強い魔術だ。数多く見てきたし、数多く死んでいった」
「今回のも『制約』に触れた、と言いたいのか?」
ヴァーツラフの真剣な問いかけに、リーザロッテは頷くと、ミレイネを部屋から外させた後、彼女の推測を説明し始める。




