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「(詠唱はなかった。……無詠唱魔法に至った魔法か? いや、それにしては俺が知らないほどの複雑な効果だ、それはない。ではなんだ、あれは、なんだ?)」
両手が錠にかけられていることもあり、激痛走る右手を左手で覆うこともできず、コルベッリは顔を歪ませながら黙する。
「……黙するくらいなら鳴くがよい」
リーザロッテの発言後、コルベッリの右中指も生気を失う。
「ぐぁあああが……」
コルベッリの右目から自然と涙が流れる。顔の右半分だけが、痙攣を起こしてしまいそうなほどに強張る。
「我慢するな。鳴くついでに答えればいいのだ。優しかろう妾は。開かない貴様の口を開かせてやっているのだ。感謝せよ」
「はぁ、はぁあ。……原典シリーズの原本を一冊『次代の明星』で保管している」
「なるほど。それで?」
「……」
「……。欲しがるではないか。卑しい豚め」
続く右薬指に激痛。
加えて小指が朽ち果て、ポトリと床に落ちると灰となって消えてなくなった。
コルベッリはこの牢に入って初めて痛みで叫んだ。
自分の右手が使い物にならなくなってしまった姿。燃えるような熱さ、潰されたような激痛、それらがコルベッリを襲う。
「ほら、そのまま口を動かせばいいのだ。それだけで妾は満足できる」
そんな痛みから解放されたいコルベッリには、傲慢に見えたリーザロッテの美しい声が、その言葉が心地よく耳に届く。
「一冊を、複数に分断し、魔力源としての聖遺物として、俺たちは原典を持っている……」
かすれた声で答えたコルベッリ。その右目からは絶えず涙があふれ、冷たい床の岩を濡らす。
「愚鈍なやつめ。貴様らの文化をここまで発展させた要因の一つである原典をまるで物として扱うとは」
「……もういいだろう。これであんたの質問には答えただろう」
「たしかに」
リーザロッテは自分の指の爪を見やり、少し伸びてきたので切らねばと思いながら短く答える。
「……それに、時間もないんだろう? さっきのもう一人の方の女が言ってたじゃないか。早く帰ったらどうだ」
コルベッリは自分の今の様子にまるで興味なさそうに爪を見やるリーザロッテに恐怖した。
これまでの拷問官とはまるで違う。彼らはコルベッリを痛めつけようという意志で行動を起こす。痛みによる脅迫として拷問を行っていた。
対して目の前のリーザロッテはどうか。
リーザロッテは、コルベッリに行っている事を拷問として認識していない。コルベッリは口を開かない。それならば口を開かせればいい。
口が開いたのなら声を出させればいい。激痛を与えれば声も出るだろう。絶叫も声である。
「(この女は止めなければどこまでもやる)」
右手の指がなくなれば、左手、右足、左足。指がなくなれば、そこから徐々に上に移していけばいい。
その結果四肢が無くなろうが、口が開くならば、声が出るならば、それでいい。
そんな恐怖を、狂気をコルベッリはリーザロッテから感じていた。
「あぁ。ミレイネとの会話を言っているのか。それなら安心するがよい」
リーザロッテは、何をつまらないことを聞くのだと言わんばかりに、ぶっきらぼうに話す。
「ここで貴様と過ごす時間も、そのドアの外にいるミレイネにとっては瞬きほどの時間に過ぎない」
「は?」
リーザロッテの言葉に、コルベッリは右手の痛みも忘れて腑抜けた声が漏れる。
「うん? 時間の心配をしていたのだろう? 安心しろ。時間の流れなど妾にとって何の縛りにもならん」
「……ありえない!! 時間の動きに干渉する魔法など存在しない!! 俺を馬鹿にするな。時間も忘れて俺を虐げたいのならそう言え! その方が数倍もましだ!!」
コルベッリは自らを魔術師と称している。実力は備わっていないが、それでも魔法に関する知識と誇りは優れた魔法士レベルで有している。
それがゆえに、時間に干渉するというある種おとぎ話のような、いや魔法士相手に語るとなるとそれはひどい侮蔑そのものである。
時間の流れに干渉する。誰もが夢に見る事象。若き少年少女は早く大人になりたいと思い、老い先短い者は時間の進みに恐怖する。幸せな時間も残酷な不幸さえも平等に時間の縛りの中で過去となっていく。
多くの魔法士がそんな夢を見て、夢に焦がれ、そして夢に溺死した。
数々の魔法士が何の成果も生み出せず、その生涯を無為に終わらせた残酷なる桃源郷。
そんな歴史を知っているコルベッリ含む、魔法士の誰もがリーザロッテの言葉に憤慨するだろう。
「何を一人で喚いておる。誰も魔法だなんて言っておらぬだろう?」
「魔法じゃなきゃなんだって言うんだ! 魔道具とでも言いたいのか! はっ、いつの間にそんな神器が出来たのか教えてくれよ!」
先ほどまで激痛で苦しんでいた右手と錠で固定された左手で机を思い切り叩くコルベッリ。
リーザロッテへの恐怖も、右手の激痛も、激しい怒りにかき消される。
「……魔術だよ」
「魔術? はっ、魔術師の俺でも知らん魔術なんて――、」
出鱈目を抜かすな! と言おうとしたコルベッリの脳裏に一人の少年が浮かぶ。
その少年は謎の右腕を発現させ、謎の力でコルベッリらを圧倒した。
『限定解除 奇跡の右腕』。あの不気味さを思い返すだけで激しい悪寒に襲われる。
「貴様も見たのだろう? エインズの右腕を、魔術を」
「ま、まさか、あんた……」
「まあ時間への干渉は付随的な効果ではあるが……。一つ直接見せてやろう、代償に貴様の両手をもらうぞ」
机を叩きつけた状態のまま固まっていたコルベッリの右手を、リーザロッテは持っている扇子でパンっと軽く叩く。
「まず一つ、自分の右手に注目しておくことだ。払う代償分しっかりと観察するがよい。――限定解除『任意流転 加速』」
エインズと同じ別次元からの力の行使。
怒りに支配されていたコルベッリもリーザロッテの聞き覚えのない詠唱を耳にし、我に返る。
恐怖や不気味さ、完全には消えぬ怒りや期待。それらがぐちゃぐちゃに複雑に絡み合ってコルベッリは吐き気を催しながらも堪え、震える右手を注視する。
リーザロッテの魔術がコルベッリの右手を対象として発動する。
直後、コルベッリは右手の内側、血管を流れる血液や手を構成する無数の細胞が沸騰していくのを感じた。
皮膚の外側から焼かれるものとは違う。
同じなのはそこに激痛を伴うこと。
「ぐあぁ、っあああが!」
目から涙があふれる。先ほど干からびた彼の指同様の現象。
「どうだ? 先ほどより少し加速度を下げてみたが、しっかり味わえておるか?」
コルベッリの右手は絶えず変化している。錠をかけられた手首から先、その部分のみが地獄に放り出されたように生命が奪われる。
陽の光も入らず風も通らない陰鬱な牢をコルベッリの絶叫が占めていた。
それを恍惚とした表情で眺めるリーザロッテ。
喉を枯らし、潰し、それでもコルベッリは止まらない。壊れた玩具のように鳴り続ける。
それをさも動物の囀りのように楽しむリーザロッテの不気味さも今のコルベッリにはどうでもよいこと。
コルベッリのそれがしばらく続き、そして、枯れた。




