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「なにを言って……」
腐った床の上をギイギイと錆びた音を立てながら台座がアインに近づく。
「幼い君? あなた、もう足がないのだからそこから動けないのよ」
はぁ、とため息を吐く少女。アインに向ける視線は冷めたもので、失望しているように見えた。
「は、はあ? 意味わかんねえ」
そこで初めてアインは自分の身体を確認した。
アインは椅子に座っていた。
背もたれがあり、立派に肘置きが両方についている。こんな朽ち果てそうな建物の中ではアインが座っている椅子だけ存在が浮いていた。
鉄製の頑丈な椅子。椅子の足は床を貫き、地面に突き刺さっているのかもしれない。
椅子のあたりだけ、他と異なり床の腐敗が激しい。
アインが身体を揺すってもびくともせず、倒れる気配はもちろん動く様子すらまったくない。
そしてその椅子の脚のあたり。
そこには本来目で見ることができる、朽ちそうな床ならば容易に踏み鳴らして穴を開けられる、あるべきはずのアインの両足が膝のあたりから無くなっていた。
痛みはない。
いや、あまりの痛みに感覚が麻痺してしまって何も感じなくなってしまっているのかもしれない。
「う、うああぁぁああ!!」
受け入れがたい現実がそこにはあった。
アインは激痛に対してではなく、その現実に絶叫した。
「どうしましたか、マーレ? ひどい叫び声が聞こえてきましたけれど、やってしまったのですか?」
ドアを開け一人の女性が中に入ってきた。
女性は台座の上の道具をいじる人形のような少女をマーレと呼び、彼女のもとに寄った。
「私ではないわよ、エンリーカ。レディである私が不用意にそのようなはしたない事はしませんわ。第一、レディである私——」
「そう、それならいいのです。……あ、それ以上は話さなくてもよいですよ。貴女のお話は長くて仕方がありませんから」
マーレよりも、アインよりも背が高い女性。エンリーカはすでに成人しているように見える。
長く伸びる金髪に、神官のような装い。
その立ち姿と言葉遣いにマーレのような、取って付けたようなものではなく自然な気品が醸し出ていた。
「失礼よ、エンリーカ。レディである私の話を長いと切り捨ててしまうあたり、やはり所詮は帝国の女ね。レディである私がいくらあなたに教えたところであなたは婦女子になれる才能は一切ないわね、エンリーカ。まあ、それでもリディア様の指示だからあなたのような帝国の女と行動を共にしているのだけど」
マーレが肩をすくめながらやれやれとため息をつくが、エンリーカは苛立ちを見せることはない。彼女に目を向けることもせず、まるで意に介していない。
「それで、マーレ。準備は整ったのかしら? 整ったのであれば、そろそろ始めたいところなのですが。なにせ、ここからは長丁場。見たところ、この少年は質が良い。神の礫でも粗礫くらいにはなるのではないでしょうか。となれば、そこに至るまでの時間もかかってしまうでしょう」
「……まあ、いいわ。私としても早いところあなたとは別れたいところだから。環境や付き合う人間によってその者の性質が変わることは多分にあるわ。つまるところ、帝国の女と長くいてしまえばレディである私はレディでなくなってしまう恐れがあるということでしょうし。いいでしょう、始めましょう」
マーレはペンチのような道具を手に取り、アインに向けた。
「さあ、幼い君? ここからはレディである私が紳士になり損ねた幼い君を壊して差し上げますわ」
マーレはペンチでアインの右手人差し指を挟み、思い切り力を込めた。
マーレのような少女の小さな力でもアインの細い指ならば簡単に潰すことができた。
ブチンッ。
「……ぁ、ぁ、ぁぁ」
マーレがアインの指を潰してからしばらく経つ。
朽ちた作業場には強烈な鉄臭さとアンモニア臭が漂っている。
椅子のあたりを中心に、床にはアインのものである涙や汗、流れ落ちる血、そして下腹部から漏れ流れた尿が混ざって溜まっていた。
椅子のあたりだけ床の腐敗が進んでいたのはこれが原因である。
アインだけでなく、他の者もアインと同じ絶望において体液を垂れ流してきた蓄積なのである。
だが、アインはまだ生きていた。
というよりも生かされていた。
恐怖により体液を垂れ流していても、これまで感じることがなかった激痛を与えてくる者がアインの眼前にいる。
四肢が欠損したとしても即座に傷口を癒す者がアインの眼前にいる。
死に至るほどの痛みなのに、アインは死ねない。
死にたいのに、アインは死ねない。
アインはもう考えることができなくなっていた。
文法を意識して言葉を紡ぐこともできない。ただ喉から声が出る。悲鳴という形で、なんの言葉にもならないただの声が勢いよく口から飛び出す。
「少年? この世の中で一番大切なものがいったい何か貴方は分かるかしら?」
「ぁぁぁぁぁあ……」
エンリーカはアインの傷を癒しながら問いかける。
「愛、よ。一番大切なものは、愛。金銭でもなく、名声でもなく、権力でもなく、愛。愛こそが全てに勝るのよ。ですが、神が我らに与えてくださった愛を残念ながら多くの人々は勘違いしてしまっているのです」
アインの腹部には数多くの深い切り傷が残っている。
マーレの道具によって腹部を開かれたのだ。
「多くの者は、相対する者の外面を見て、上っ面の打算的に紡がれた言葉を耳にして、その者を好きだと感じ行く行くは愛だと勘違いしてしまうのです」
エンリーカは幾度とアインの開かれた腹部を癒してきた。
ゆえにアインは生きていた。
「ですが、それは愛ではありません。愛とはその者の内面を見てこそ真に感じ取ることができるのです。目鼻立ちなど、ただの外面における突起に過ぎません。そんなものに愛など存在しないのです」
マーレは道具を使いさらにアインを開いていく。
エンリーカとアインの、会話にもならない話に口出しすることもなく、淡々と、微笑を浮かべた穏やかな表情を一切変えずに噴き出すアインの血を浴びながら手を動かし続ける。
「私は今、たしかに愛を感じております。少年を愛しております。貴方の内側を見て、触って、匂いを吸って、打算なき貴方の心からの声を聞き、私はいまとても深く貴方を愛しているのです」
エンリーカは自身の首にマフラーのように巻いている赤黒い管の両端を手に取り、頬ずりしながら愉悦に浸る。
頬ずりしたところがべったりと赤く汚れる。