×2-8
シギュンがそう言うとイオネルは一つ頷いて、続けた。
「であればタス村がいいだろうねぇ。あのあとシルベ村にやってきたのはタス村の人間だ。ジデンくんたちに調査させておいたから間違いないよ」
「エイちゃんはタス村の人間に拾われる、か。そうだね、なら『箱庭』はタス村の人目に着かないところに作ることにしようかね」
シギュンとイオネルの、二人の会話がまったく理解できないエインズが首を傾げているなか、シギュンは次にエインズへ話しかけた。
「エイちゃん。いまからエイちゃんにあたいの魔術をかけるよ」
「魔術? 前に僕にかけたやつじゃなくて?」
「そうだよ。これは魔術師であるエイちゃんのためにかける魔術。この先エイちゃんが直面するであろう困難に際したとき、自身を振り返るための魔術」
「シギュン婆さん、よくわからないんだけど?」
そうエインズが聞きなおすがシギュンは「うーん、どう言ったらいいのかね……」と苦笑いを浮かべているなか、イオネルがシギュンの代わりにエインズの問いに答える。
「魔術師はねぇ、自身の願望や祈りを世界の理を歪めて顕現させる。理に抗うための術、それが魔術。だけど悲しいかな、世界は、理は、その歪みを歪みとして残ることを許さないんだよねぇ」
「イオネル、そんな難しいことをいま言ったところでエイちゃんは理解できないよ」
「だけどこの知識も婆さんの魔術によって引き継がれるでしょ? 次のエインズくん、その次のエインズくんがそれを十全に消化していくだろうさ」
「そうかい……。お前が言うなら、それが正解かね」
次のエインズ、その言葉にシギュンは顔を曇らせた。
シギュンが口を閉ざしたのを見てイオネルは続けた。
「顕現した歪みは跡形もなく完全に消されるか、もしくは新たな理へと昇華されるかの二択でしかその在り方を許されないのさ。それが魔術師としての死であり、道程なんだよぉ」
だけど、イオネルは続ける。
「その半ばで生物としての生命が終了したとき、自身が生んだ歪みとともに歪みが生じたその時まで戻ってまた次の歩みが始まるのさ」
「……戻る?」
「そう、きみのその右目の魔術に目覚めたその時に戻る。他人は時にこれを『魔術の呪縛』なんて言ったりするけどね、おかしい言い回しだよねぇ。僕は『祝福』なんて思っちゃったりするけどねぇ」
「……だけどこれこそが魔術師として大きな困難でもあるのさ。新たな旅路に出た魔術師は、前回の旅の内容を全て忘れてしまう。自身が得た魔術の因子だけを持って次の旅が始まってしまうんだ」
重々しくシギュンが口にした。
自身が生んだ歪みが消化もしくは昇華されるまで繰り返す旅。幾千、幾万、幾億の旅を経て僅かな違和感を覚えた既視感をたよりに茨の道を歩かなければならない。
個人としての命であれば、前回の命の記録を忘れているため精神的な負荷はないだろう。だがそれは、魔術師としての魂には刻み込まれ続ける。
幾億の旅路の中で受けた喜びや感動、後悔や絶望。辛酸も甘美もその全てが刻み込まれ、ひび割れていく。魂の在り方を変貌させていく。
自身の願望を具現化させるほどまでに強固な魂がひび割れていくと、魔術師はどうなっていくのか。
「新たに旅立つごとに個人の精神が変貌していくのさ……。最終的には廃人になってしまう、文字通り生きながらに死んでいる——、生ける屍となってしまうんだよ、エイちゃん」
「わからない……」
エインズは分からない。だがイオネルとシギュン、二人がとても強烈なことを言っているのだと、それだけをエインズは感じ取った。
「たしかにいまは分からないかもしれないね。でも、そう遠くないうちに嫌でも分かるはずだよ」
そう悲しそうに微笑みかけるシギュン。
イオネルの表情は仮面によって隠されているため確認することはできない。しかしイオネルはシギュンと異なり普段と声色ひとつ変えることなく語っていた。
「あたいの魔術は、そんな魔術師を救うための魔術。一つたりとも無駄にはさせない魔術」
一つ一つの旅の内容を記録するための魔術、そうシギュンは語った。
それまでの内容が頭に入ってきていないエインズには、魔術師を救う魔術と言われても疑問しか浮かばない。
「でも、シギュン婆さんがそう言うってことは、僕のためなんだよね? わかった、かけてよその魔術」
シギュンの言葉が理解できなくとも、それでもシギュンの言葉を受け入れる。それだけの関係性を二人はこれまでの月日で築き上げてきた。
イオネルに連れてこられたときであれば何かしら抵抗をみせていたかもしれないが、今のエインズとシギュンではそうもならない。
「イオネル、そこの真っ新な本を一冊取ってくれないかえ?」
イオネルはシギュンが指さした先にあった彼女手製の本を手にとって皺だらけのシギュンの手の上に置いた。
「いまからかける魔術は、エイちゃんの中に残り続ける。改めてあたいから魔術を受ける必要もない、一度だけの魔術」
エインズは小さく頷く。
「いくよ、エイちゃん。——完全解除『精魂の導き手』」
エインズの旅路を見て取ったシギュンによる、その先の魔術。
シギュンの手の平に置かれた本は誰の手も借りることなく開かれる。白くまっさらな頁に淡い光が一つ落ち、その上を走る。
走った光の後には文字が残り、言葉を為し、文章を作っていく。
エインズの旅の記録が白紙の本に事細かに刻み込まれていく。エインズ自身が認識できていないような小さな事象ですらも、それ一冊がエインズそのものであるように。淡い魔術の光は一冊の本にエインズを作っていった。
本の上を走り、頁を飛び越え、次々と新たに白い大地を走っていく光をエインズはぼんやりと眺めていた。
シギュンもイオネルも、誰も言葉を口にしない。
ただ頁が捲られる音だけが聞こえ、無音で光が走る。
しばらくして魔術の光は本を走り切った。
本全体が一度淡く発光するとすぐに光は治まった。
皺だらけの手の上にあるのは何の変哲もないただの本にしか見えない。しかしエインズはそこに脈のような何かを感じる。
「この本自体もあたいの魔術因子を孕んでいる。だからこれも理の中を残り続ける。そしてエイちゃんがこれを開いたとき、自身の歩んだ道を完全に引き継ぐことができるのさ」
シギュンは本をエインズに手渡し、
「これはエイちゃん自身でもあるから、あたいが『箱庭』を作るまではエイちゃんに預けておくさね」
優しくエインズの頭を撫でた。
夜はすでに深まっていた。