×2-6
それはエインズにとっても、イオネルやジデンにとっても一瞬のことだった。
シギュンが何かを詠唱したとようにみえた次の瞬間にはその手はエインズの頭から離されていた。
(今の詠唱がシギュン様の魔術。しかも不完全解除の領域、さすがは箱庭の魔女といったところでしょうか)
それが魔術の行使であることはジデンにも分かった。その権能がどのようなものかまでは分からないが、それが目の前の老婆が魔術師と呼ばれる所以となる実力の行使であることは分かる。
「……そうかい、その右目かい」
「分かったのかい、婆さん?」
「ああ。目の魔術となるとその効果はいくつかに分類されるだろうけど、この子のはどうなんだろうね」
シギュンは白く濁るエインズのその右目をじっと見つめる。
見つめられるエインズには何が何だか分からないといった様子で首を傾げて返す。
「シギュン様」
「なんだい?」
そんな二人の様子を見ていたジデンがシギュンに尋ねる。
「いまの話しぶりからいきますと、やはりエインズ君は魔術師なのでしょうか?」
ジデンはいまだ魔術を扱えるに至っていない。
魔法士風情で落ち着いてしまっているジデン。そんな彼が押す車椅子に腰をかけていた辺鄙な村の少年が、ジデンを飛び越えてその領域に至っているなど到底理解できない。
そこに妬みや嫉妬などはない。理解できないからこそ、純粋にジデンは疑問を感じたのだ。だからこうしてシギュンに尋ねているのである。
「なんだい、イオネルから聞いていなかったのかい?」
「いえ、イオネル様から軽く聞いていましたがあまり信ぴょう性が……」
目を伏せ気味で答えるジデンに隣のイオネルが「ジデンくん、ひどくない?」と泣き真似をするが、それを二人は華麗にスルー。
「この子は魔術に目覚めているよ。あの右目がそうだね」
「ですがエインズ君のあの右目は……」
視力を失っている何も映さぬ瞳。
そして当のエインズも右目が見えないくらいの認識しかしていない。それが魔術を持っているとはジデンには思えない。
「エイちゃん、右目の調子はどうだい?」
「右目? みえないよ」
あっさりと答えるエインズ。その様子にジデンはやはりといったように、魔術には至っていないとどこか安堵するような、シギュンに対して落胆するような気持ちになった。
「エイちゃん、もっとその右目に集中してみな? まるでもう一つ目があるような感覚が分かるはずだよ?」
「……集中?」
何も見えないだけの右目。それ以上のこともない白濁とした瞳だが、シギュンに言われ意識を右目に集中させる。
集中といってもシギュンが言う集中がどういうことなのか、そして何をどう集中したら良いのかも分からないエインズ。
目とは何かを見るための感覚器。それを理解してなのか、それとも偶々なのか、エインズは何も映さぬ右目をもってシギュンに目を凝らした。
その時、エインズの奥底に昔からごく当たり前のようにあったような感覚とその言霊が意識下に現れた。
「限定解除『からくりの魔眼』」
それは当たり前のようにエインズの口から紡がれる。
白濁としたその瞳は赤く染まり、エインズの第三の目がシギュンの姿を捉えた。
「っ!」
直後、エインズはその場で激しく嘔吐した。
先ほど食べたパンに煮込み料理の全てを床に激しく吐き出した。
目からは涙が溢れ、鼻からも液体が垂れる。
「どうしたんですかエインズ君!?」
慌てた様子でエインズに寄り添うジデンと、そんなエインズを静かに観察するシギュン。
「すぐにお水と何か拭くものを持ってきますね!」
ジデンは空のコップに水を注ぎ、近くに転がっていた布切れを手にしてエインズの世話にとりかかった。
「この恐れ様は相当なものだよ婆さん」
「そうだね……。きっとあの瞳はいくつもの『あたい』を見たんだろうね、もしかしたらその先もあるいは」
「ということは婆さんの目と似たような権能がエインズくんの右目にあるのかなぁ」
それからしばらくしてエインズの嘔吐は止まった。
ジデンから渡された水をゆっくり飲むエインズと、床を布で拭くジデン。いくつかの書物が汚れてしまったようだが、シギュンに焦る様子がないのを確認したジデンはそっと胸を撫でおろした。
「エイちゃん、右目であたいを見たんだね?」
「……っ」
ビクッと身体が跳ねるエインズ。
あの恐怖に染まったエインズの顔と今も身体を震わせるエインズの姿、そしてシギュンの意味深な言葉が床を拭うジデンの手を止めた。
「いったいどれだけの数が見えたんだい?」
(どれだけの数……?)
ジデンは口を挟まず耳を傾ける。
「わからない……。だけど、数えきれないほどたくさんのおばあちゃんが見えて……」
「……」
「そして、たくさんのおばあちゃんが死んでいった……」
(どういうことでしょう。きっとシギュン様のことを言っているのでしょうが、たくさんというのはどういうことなのでしょうか)
エインズが発した言葉を拾い、様々に解釈をしてみるジデンだがそれが正しく理解できているとは自身でも思えていない。
「なるほどね。あたいの目と同じ力があるのかもしれないね」
「へぇ、そうなのねぇ。そりゃエインズくんが婆さんを見て吐いてしまうのも頷けるねぇ」
シギュンの言葉で全てを理解したのか、イオネルはうんうんと何度も頷いて納得した様子だった。
奇妙な仮面をつけた男が上下に顔を何度も揺らす。イオネルのあまりに滑稽な姿に白けるジデンだが、あれでも魔術師なんだなと魔法士の自分が悲しく感じてしまった。
「今日はあんたたち帰んな。エイちゃんはあたいのところで引き取るから」
「ええ! 婆さん、またいつもの勝手なこと言っちゃってさぁ。エインズくんは僕が連れてきたんだよぉ?」
「でもイオネルあんた、子どもの世話なんかできないだろう?」
まあそうなんだけどさ、と口を尖らせるように呟くイオネル。
「だけどエインズくんの気持ちも確認しないとダメなんじゃないかなぁ? 呆けた婆さんと一緒だと苦労しちゃって可哀そうだよぉ」
シギュンと二人でここに過ごすのか、どうしたいのか尋ねるイオネルにエインズは口を閉ざしたまま。
床の掃除を終えたジデンが処理を済ませ、エインズの肩に優しく手を置いて目線を合わせる。
「エインズ君はどうしたいのですか?」
「……」
なおも口を閉ざしたまま、ジデンから目を外し視線を落とすエインズ。
「ここならエインズ君が気になる本もたくさん読めますよ? エインズ君がしたいように決めたらいいんですよ」
自分がやりたいこと。
エインズはそう言われ、すぐに決断した。
自分がしたいこと、それはより多くの魔法を見たい知りたいという強烈な欲求を満たすこと。
シルベ村で、自身の頭上に瓦礫が崩れ落ちる中はじめて見る魔法に魅入られたように。
だからこそエインズは右目の魔術に目覚めたのだ。