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潮風に靡いていたからの右袖に半透明な右腕が生える。
右肩に留めていた白手袋を手に取り、異質な右手に嵌めるエインズ。
同時に、海中が大きく唸る。
少しして、唸っていた海面から白く巨大な魔獣が現れた。
分厚そうな白い皮に覆われたクラーケンは丸い瞳で、自身を見下ろすエインズを睨みつける。
クラーケンはエインズが発現させた氷柱で下から突き上げられる形で海面から姿を現したのだ。海面よりも高く突き上げられたクラーケンはその数多ある触手全てをもってしてエインズを捕らえ捻り潰さんと伸ばす。
「引っ込み思案だから臆病なのかと思っていたけど、けっこう度胸があるんだね」
エインズはすぐ下に見えるクラーケンに向かって氷柱から飛び降りる。
「限定解除『からくりの魔眼』」
血のように赤く染まったその右目は相対するものの深淵を覗く魔術。
「……君の弱点はそこだね」
その赤い瞳でクラーケンの心臓の位置を完全に把握して真っすぐに飛び込んでいくエインズ。彼を潰さんと触手を自在に伸ばすクラーケンだが、エインズが右手でぞんざいに叩いて払っただけで木端微塵に吹き飛んだ。
軽い破裂音だけを残し細かな肉塊になって吹き飛ぶ触手。堤防の上で開いた口が塞がらないアラベッタはもちろん、クラーケン自身も初めてのことだろう。
猛威を振るい、エリアスの港に泊まっていた船舶も数多と捻り潰し海に沈めてきた触手だったが、気づけば体から生える根本を残しそこから先は全てなくなってしまっていた。
触手とともに青い血をまき散らしたクラーケンの生物としての本能が働いた。敵わない相手からなんとかして逃げようと氷柱の上で必死に藻掻く。
「もう遅いね」
丸く大きな二つの瞳。白く分厚い皮をしたその間にぺたりとエインズの右手が添えられる。
「君の身体に触れている僕が、君の命を奪えないわけがない」
パンッと大きく乾いた音が鳴ると、エインズの右腕が触れているクラーケンの身体に大きく穴が開く。
そこから肥大化した魔石であるクラーケンのコアを抜き出すと、激しく悶えながら大きな断末魔の悲鳴を上げた。
べったりと青い血を付けた魔石を右腕でつかんだエインズと、魔石を抜かれたクラーケンが同時に海に落ちていく。
エインズの方は海面に作った氷の地面に着地する。
対するクラーケンは激しく水しぶきを上げながら海に一度沈み、しばらくして力なく海面に浮かび上がってきた。
クラーケンが上げた水しぶきによって海水でびしょ濡れになったエインズは気分が悪そうな顔をしながらアラベッタが待つ堤防へ向かった。
「エインズ殿……」
「これでよかったかい? 魚への影響はないはずですけど」
「え、ええ。それはなさそうですが」
目の前のあまりの出来事に困惑するアラベッタ。
「それならよかった。はい、これあげますよ」
エインズの右腕によって差し出されるクラーケンの魔石。
先ほどまで空だった右腕。
アラベッタからすれば異様で奇異な右腕。触れただけでクラーケンの身体に大きな穴を開けた無機質な右腕。
「か、感謝するエインズ殿」
恐る恐るといった様子で魔石を受け取るアラベッタ。
対するエインズは何も気にしていない様子。
「一つ、アラベッタ様にお願いがありまして」
「っ!? お願い、ですか」
あれだけの技量を持った魔法士、得体の知れない魔法でアラベッタ達では手も足も出なかったクラーケンをねじ伏せた魔法士が港湾都市エリアスの領主であるアラベッタに何を望むのか。
気が気ではないアラベッタはエインズの顔色から読み取ろうと覗き込むが、エインズはまるで呑気な顔をしていて何も読み取れない。
(流石ですね。ここまで優れた魔法士はポーカーフェイスも器用に使いこなせるわけですか……)
アラベッタはエインズに恐ろしさを覚えながら、彼の言う望みが何なのか言葉を待つ。
「エリアスには来たばかりでして、魚料理を食べたいのですが、アラベッタ様のおすすめのお店をお教えいただけませんか?」
「……」
予想していなかった言葉に呆気にとられたアラベッタ。
「あれ? やっぱり領主御用達のお店は教えてもらえないのでしょうか」
「いや、そういうことではない。……ふふ、なんだそんなことだったのですか、エインズ殿」
「そんなことではありません、アラベッタ様! 今の僕にはこれが生きがいなのです!」
恐れを覚えたエインズの、あどけない幼稚さを見て気が抜けたようにアラベッタは笑いがこみ上げてくる。
「それくらいの望みであれば容易い。この窮地を助けてもらったんだ、それくらいのお礼は私がしよう!」
「と言いますと? お店を教えてもらえるんですか?」
「いや、私の館に来てくれ。王家が抱える料理人ほどではないだろうが、エリアス家の料理人が腕によりをかけよう!」
「本当ですか!? それはうれしいご提案です。ぜひ、今すぐに!」
前のめりになって話すエインズに、彼が一つ忘れていることを伝える。
「いや、エインズ殿の仲間の方々はどうするんだ? あの二人はまだ街中を走り回っているのだろう。それに私も後処理が残っていてな」
部下に館まで案内させるが、もう少し待ってほしいとアラベッタ。
「……ソフィアもタリッジも遅いなぁ」
右腕を解除させ、白手袋を肩に留めたエインズ。
ソフィアとタリッジを待つエインズだが、空腹から腹を手で押さえて必死に我慢する。
その間、アラベッタは残った騎士たちに街に侵入している残党の討伐、および住民の安全の確保に移るよう指示を飛ばす。
そのままアラベッタはクラーケンの魔石を手にしてこの場を去ってしまった。
「よお、終わったみたいだな」
「タリッジたちも終わったようだね」
後ろから声をかけられたエインズ。
かけた主はタリッジとその横を歩くソフィア。
二人とも剣を鞘に戻しているところを見るに戦闘は無事に終わったようだ。
「全部討伐したの?」
「ほとんどではありますが、全てではありません。私たちが討伐したことによって徐々に騎士の方々が態勢を立て直していきまして」
「もう大丈夫だろうと思って戻ってきた。それにそっちに残っていた騎士の連中らも合流してきたからな」
街に被害は出てしまった。住民のどれほどが負傷、もしくは命を落としただろうか。
それでもエインズらの協力によって、それらの被害も最小限に食い止めることができたはずだ。




