09
彼の目的はエリアスの魚介料理を食べることにある。であれば、アラベッタの言う通り、魚が取れなくなってしまうことはエインズの目的が叶わないことを意味する。
すっと左腕を下げるエインズ。
雷系統の魔法を思いとどまった様子を見せたエインズに対し、胸を撫でおろすアラベッタ。だが、それでも現状が解決したわけではない。
「エインズ殿、どうするんだ?」
エインズの横に並び、一緒になって海へ視線を飛ばすアラベッタ。
彼女の後ろには、数人の騎士が控えている。中にはアラベッタが言うように魔法が使える者もいるのだろう、杖を持っている者もいる。
「……やはりここは、皆で協力してやつを海上に引きずり出すところから」
「必要ないですよ、アラベッタさん。海に住む魚に影響が出ないよう手段は変えますが、だからといって時間をかけるつもりもありません」
アラベッタが覗き込むエインズの横顔は、強がりを言っている様子には見えなかった。彼にはまだ『海の番人』を屠るだけの何かがあるのだろう。
「とりあえず海に行きます。そうすれば足を出してくるでしょうし」
「エインズ殿、まだ船の手配もなにも——」
急に海に出ると言われてもこの状況下において誰が率先して船を出すだろうか。出してくれないということはないだろうが、領主であるアラベッタが直談判してやっと出してもらえるかどうかである。
しかしエインズは前に歩き出し、あと一歩で水面に足がつくところまで辿り着く。
「エインズ殿、まさか、泳ぐつもりか!?」
義足に空の右腕。
アラベッタが贔屓目に見ても、エインズが満足に泳げるとは思えない。加えて、泳げたとしても機敏な動きが取れない海で自由自在に動くクラーケンを相手にできるとも思えない。
だがエインズはアラベッタの言葉に小さく微笑んだだけで、堤防から飛び降りる。
身体的ハンディキャップに加え、エインズは服を着たまま海に飛び込んだ。水分を含んだ服はそのまま重りとなり、泳ぎに影響を与えてしまう。
アラベッタは慌てて堤防の端まで駆け寄り、飛び降りたエインズを覗き見た。
「えっ?」
アラベッタの視線の先、そこには海面にまっすぐ立つエインズの姿。
「確かに泳ぐのは大変ですけど、だったら海面を歩けばいいだけですよ」
エインズはまるで陸の上を歩くかのように歩を進める。
「ど、どういうこと?」
自身の目を疑うアラベッタ。目をこすり、海面を歩くエインズの様子を確認する。
アラベッタの傍に控える騎士たちも彼女同様瞠目してエインズに視線を送っていた。アラベッタのもと、教育された精鋭たちが海面を歩く光景に思わずどよめいている。
「あれは……、氷?」
エインズを注視していたアラベッタは、彼の足元に氷の膜ができていることに気づいた。
エインズが歩くたびに足が触れる海面に氷の膜が次々とできていく。エインズは海面を歩いているのではなく、海面に氷の膜を生成しその上を歩いていたのだ。
「そんな器用なことを……」
エインズに詠唱している様子はない。
無詠唱で瞬時に足の裏に氷の膜を生成しているのだ。アラベッタは思わず控えている騎士たちに目を向ける。
彼らもエインズがどうして海面の上を歩けているのか理解したが、そのような芸当を果たして自身ができるかと言われればまず不可能だ。アラベッタの視線に静かに目を伏せながら首を横に振った。
「エインズ殿、あなたはいったい……」
これほど自在に魔法を扱える優れた魔法士は、エリアスはもちろん王国にもいないだろう。いや、『悠久の魔女』と呼ばれる魔術師であれば可能なのかもしれないが、つまり目の前のエインズは『悠久の魔女』と同程度に魔法に長けた人物であるのだとアラベッタは戦慄しながらその様子を見届けた。
「さて、どこから出てくるかな?」
歩を進め、堤防から離れたエインズは辺りを見回しながらクラーケンの攻撃を警戒する。
陸から離れ海が深くなったあたり、波も騒がしくなっている。
エインズが確認する限り、海面近くにクラーケンの姿は見えない。しかし不快な視線は感じられた。恐らく海中からエインズが隙を見せるのを見計らっているのだろう。
「意外と知性があるのかもしれないな」
魔獣であれば、餌を目の前に本能の赴くままに飛び込んでくるのが一般的である。しかしエリアスで『海の番人』と呼ばれるクラーケンは標的を観察するだけの知性を有しているようである。
「……」
氷の膜の上でぼうっと立つエインズの周りに風を遮るものは何もない。
一度、ひときわ強く風が吹き抜けた。
エインズの銀髪は大きくなびき、エインズは思わず一瞬目を瞑ってしまった。彼の意識もその一瞬だけクラーケンから離れ、強烈な潮風に向けられた。
その瞬間、エインズにまとわりついていた不快な視線が一層強くなる。
ザパァッと大きく水しぶきを上げて何かが海面から現れる。
「っ! ……本当に姑息な魔獣だね」
すぐに目を開けたエインズ。
その目で海面から生えている巨大な触手を確認するとすぐに横に飛び退く。
次の瞬間にはうねりながら伸びた触手がエインズの立っていた海面を強く叩いた。水しぶきを上げた後、触手は再び海中に姿を隠すがまた別の触手が複数海面から現れる。
それらは器用にエインズを挟撃するように動き激しく海面を叩いていく。
エインズは氷の膜の上を飛び退きながら、時には氷の柱を発現させて触手の攻撃をいなした。だが触手がエインズに攻撃を加えるたび激しく水しぶきが上がり、その度に視界が遮られてしまう。
「触手を見た感じ本体はかなり大きいと思うんだけど、どこまで上がれば届かないかな」
エインズ氷の膜を飛ぶと、海面から氷柱がせりあがる。
一段と高くなったエインズだったが、触手は氷柱に立つエインズの身体を捕まえようと上に伸びる。
「ここでも届くのか」
エインズはさらに氷柱を発現させ、飛び移りさらに上がっていく。
先ほど発現させた氷柱はまた別の触手によって砕かれてしまい、巨大な氷の塊が海に落ちる。
高さにして十メートルほど。エリアスに見える倉庫の屋根よりも高い位置でエインズは本体がどこに潜んでいるのか確認する。
「そこに潜っていたのか」
青い海に黒く大きな影が一つ見える。おそらくそこにこの宿主の本体、『海の番人』クラーケンが潜んでいるのだとエインズは考えた。
「見えたならもう難しくない。引きこもりみたいだから、無理にでも引きずり出そうかな」
さらに伸びてきた触手を避けて、氷柱でさらに上にあがる。
「限定解除『奇跡の右腕』」




