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ダリアスとルベルメル、キリシヤとセイデルが去った乱雑に荒れた書庫には完全に停止したエインズとリーザロッテのみが残った。
床に散らばった多くの本は煤に汚れている。
それらに見向きもせず、いまだ停止するエインズにリーザロッテは近づく。
「限定解除のその先、そこに妾は至った。だがこれはお前に対しての切り札だったのだ。お前を打ち負かすにはいくら妾でも不意を突かなければならぬ」
リーザロッテは持っていた扇子を左手に持ち替え、右手のひらを上に開く。
そこに透き通った氷のような刃が現れた。
それを手に刃先をエインズに向ける。
「……今ではなかったのだ。もう少し先、妾が自分の魔術を完全に理解した時に今の状況におりたかった」
リーザロッテは手に持つ刃でエインズの頬を斬りつける。
しかし薄く切れたはずが、切り口もなければ血も滴らない。
「妾の深淵、その目で覗かせることは防げたがお前にきっかけを与えてしまった。次はもう十全な効果を発揮できぬであろうな……」
返り血も付いていない透き通った刃を解除させるリーザロッテ。
それでもキリシヤを魔術から遠ざけることは出来た。
エインズに対しての決定的な切り札は失っても、キリシヤを守れたことはリーザロッテにとっては救いである。
彼女の信念が、そう彼女を慰める。
エインズに背を向けて、ふと思い出したかのように乱雑に散らばる本の山へ駆け寄るリーザロッテ。
価値ある本を、そこらのゴミを払いのけるように山をかき分けていく。
優雅に立ち居振る舞っていたこれまでのリーザロッテを考えてみると、それは彼女を知る者は目を疑ってしまう光景。
煤に服が汚れようと、それを気にすることもなく一心にかき分ける。
手入れされ整った爪に、苦労を知らぬ柔らかな手で、爪が欠けようとも手が汚れようとも気にせず一心不乱に手を動かし続ける。
「……あった」
リーザロッテはかき分けた先に一冊の本を見つけ、必死に汚れを振り払い汚れた手で大事に抱きしめた。
それと同時にエインズにかけていた『強制静止』の魔術を解除させる。
再び動き出すエインズの鼓動、時の歩み。
すぐに辺りを見回し、状況を確かめるエインズ。
既にキリシヤとセイデルがいなくなっていることに気づいた。
「いたっ!」
エインズにとって、それは急な出来事。
突如として自分の頬が裂け、エインズの痛覚を刺激する。痛みを覚えたエインズは思わず頬を押さえると、押さえた手に赤い血が付着していることに気づいた。
なぜ自分の頬が裂けているのか理解できていないエインズだったが、直前のリーザロッテによる魔術で生じたものなのか、もしくは魔術の影響を受けている間に何かされたのかという推測を立てる。
「リーザロッテ、君は正真正銘の魔術師だったんだね?」
汚れた一冊の本を胸に抱きよせて、床に膝をついているリーザロッテを確認してエインズは言葉をかける。
ほんの直前までのエインズの認識は、厳しい視線を投げながら直立していたリーザロッテだったが、今は離れたところで膝をついている。
セイデルやキリシヤがいなくなっていることも考慮すると、リーザロッテがエインズにかけた魔術の効果はある程度絞られる。
(……面白い)
とはいえ、正確にリーザロッテの魔術が何なのかは不明。エインズの魔術『からくりの魔眼』がリーザロッテの魔術、その深淵を覗けなかったからだ。
「……黙れ。妾は今、お前に構っている余裕はないのだ」
自由になったエインズに対してリーザロッテは、エインズに目を向けることもせず、強く抱きかかえていた本を開き、ページを捲っていく。
妖艶で異性を魅了する彼女から考えるとその光景は異様で、血眼になって本の内容に目を通していく。そして内容を確認しながらぶつぶつと何かひたすらに呟く。
ページを捲り、目で文字を追い、ぶつぶつと呟く。それがひたすらに続く。
「君、『不完全解除』って言っていたね? ……まさかそこに至っているなんてね。リーザロッテ、君は一体誰なんだい? 僕は君をまったく知らない」
エインズは蟀谷を指でトントンと叩きながら必死に自分の記憶の中からリーザロッテの存在を探すが見当たらない。
そんなエインズに構わずリーザロッテは呟き続ける。
「……ここはまだ分かる。ここも、覚えている」
呟き、捲る。
それはひたすらに続き、興味深そうにリーザロッテを静観しているエインズとともに書庫の中には本が捲られる音だけが占める。
仕方なくエインズは静かに指輪のアイテムボックスを展開し、ポーションを取り出す。それを裂けた頬に塗って、切り傷を元通り癒す。
いつまでも続くと思われていたリーザロッテだったが、ある所でその手が止まる。目が留まる。呟きが途絶える。
リーザロッテはまるで、彼女の体内奥深くにある何かしらが思いきり潰されたような衝撃を覚えた。
それは呼吸を激しく乱すといった形で現れる。
エインズに背を向けながら本に目を落としているリーザロッテ。その目尻から涙が伝う。
「……」
そしてゆっくりと、書かれている内容を噛みしめるように、自らに刻むように読み込んでいく。読みながら、ゆっくりと呟く。
それがしばらく続いて、リーザロッテは本を閉じ立ち上がる。
ドレスに付着した汚れを簡単に手で払い、エインズに振り返る。
そこにはもう、普段のリーザロッテがいた。
こちらに振り向いたことで自分の質問に答えてくれる気になったのかと考えるエインズ。
「君が不完全解除に至ったのはいつなの?」
にこやかに問いを投げるエインズだが、リーザロッテは答える気もない様子で前へ歩き始める。
「ちょ、ちょっとちょっと! 僕は君をしばらく待っていたんだよ!? 僕の質問に答えてくれたっていいじゃないか」
「別に待ってくれなどと頼んだ覚えはない。お前が勝手に突っ立っていただけであろう。妾には関係ないことだ」
構わず歩を進めるリーザロッテ。
「いやいや! そこはその、何というか……、人情、みたいなさ」
「ふん、正義も悪もどうでもよいと考えるお前が、小娘を執拗に煽っていたお前が人情を語るか。……道化の振りはよせ、エインズ。妾はお前を知っておる」
その瞬間、剽軽なエインズの様子が打って変わって真面目なものに変わる。
「……ほう、僕を知っているのか。ならば尚のこと――。僕が魔術に拘っているのも知っているんだろう?」




