08
目を閉じて深く息を吐いてから再びルベルメルを見やるセイデル。
「仕方がありません。中級魔法では効かないようですから」
セイデルはキリシヤに下がるよう伝え、彼女がセイデルから離れた様子を見計らって言葉を紡ぐ。
「……『冥府に流れる炎の川。死して残りし魂が、還ることを決して許さず。生は灰に、死は灰に。ただ踊るは業火の炎。善人も悪人も後を踊らず』——、炎地獄」
セイデルの術式詠唱。
中級魔法を無詠唱で発現させる彼が、術式を詠唱してまで発現させる魔法とはつまり上級魔法。
エインズが得意とする氷地獄と並ぶ上級魔法、炎地獄。
火槍や氷槍などの中級魔法が通用しなかったルベルメルを相手に、セイデルは火の属性を成す上級魔法を発現させる。
書庫の中を、炎の渦が激しく起こる。
一気に部屋の中の気温を上昇させ、居る者全ての汗が噴き出る。
うなりを上げて爛々と赤く迸る渦は、この世の全てを燃やし尽くしてしまうほどの凶暴な牙を剝き出しにする。
火の粉が飛び散り、床に落ちる。まるで炎の龍が鱗を生え変えているよう。
「このまま死んでもらっては私の手柄になりませんので、証明するためにも骨の一部だけでも残ってほしいところではありますね」
セイデルとしては、ルベルメルが降参してくれることを目論んでいた。彼女を捕らえることができ、尋問にかけることもできる。加えて必要以上に書庫や図書館を破壊することもない。
「あら、寡欲なのですね? 骨の一部とは言わず、着ている服も全て残して差し上げますわ」
爛々と迸る龍を前に変わらぬルベルメル。
その暴力的な上級魔法を前に変わらぬ様子は、セイデルに不気味さを覚える。
ルベルメルの言葉がただの強がりやハッタリである可能性ももちろんある。しかしそう言われて解除するほど甘いセイデルではない。
赤い龍がルベルメル目掛けて牙を剥く。
飲み込まれてしまえば一瞬で灰になってしまう程の火力。
うなりを上げてルベルメルに伸びる龍を前に彼女は目を逸らさない。
ただ、紡ぐ。
「水剋火」
直後、赤い龍はぴたりと動きを止める。
渦巻く炎から、本来であれば一瞬で蒸発してしまいそうな程に小さな水滴が一つ二つ、徐々にその数を増やしながら現れる。
蒸発することもなく無数に増えた水滴は、炎をまるごと覆う程の大きな一つの水球となる。水球に閉じ込められた赤い龍はもがき苦しむように不気味に揺れ動いてすぐに消滅してしまった。
断末魔の咆哮を残すことなく気が抜けてしまう程あっけなく。おどろおどろしい上級魔法を打ち破ったとは思えない程の肩透かし。
「……」
「……」
これにはセイデルもキリシヤも言葉が出ない。
動揺に揺れる瞳でルベルメルも見ることしかできない。
「炎地獄など怖くはありません。氷地獄であろうが、中級魔法であろうが、上級魔法であろうとも関係ありません。全ては相克。この理から外れることはないのですから」
相克の魔術師ルベルメル。
『次代の明星』に所属する彼女の魔法は特殊なもの。以前、ライカ=ブランディが敵対したコルベッリと同様に。
「ルベルメルさん、とっても面白い魔法を使うんだね」
離れたところで腰を下ろしていたエインズが、一段落ついた場に声を投げる。
炎地獄によって飛び散った火の粉もルベルメルの水滴によってその被害は鎮火している。
「エインズ様も、セイデル様と同じように私と戦われるのですか?」
とは言うものの、ルベルメルのエインズに向ける視線には敵意をまったく感じられない。
「まさか! 第一、ルベルメルさんと敵対する理由がない」
何の躊躇いもなく否定するエインズ。
これには思わずルベルメルも噴き出してしまう。
「まったく、エインズ様は本当に分からないお方ですね。王国にいらっしゃれば『次代の明星』についても聞いていらっしゃるでしょう?」
「君たちのことは確かに教えてもらったよ。でも、だからってそれが僕にどうこうさせる程の動機にはならないよ」
強いて言うなら、とエインズは続ける。
「ルベルメルさんの魔法を見て、君たち『次代の明星』の人らが扱う魔法に興味を持ったことくらいかな。もっと見せてほしいね!」
「……エ、エインズさん」
まるで王国における大罪人の肩を持つような発言に、キリシヤは思わずエインズを見る。
「キリシヤさんもだめだよ。そもそもルベルメルさんが今回行動を起こした目的も知らないじゃないか。外みたいに騒ぎを起こしたのはどうかとは思うけどね」
エインズの注意はまるで、人前で激しい口論をしていた両当事者を注意するような軽いものだった。
「……ふふっ。それは申し訳ございませんでした。エインズさんにも、びっくりさせてしまいましたね」
「……な、なにを」
何を言っているのだ。彼女ら次代の明星はそんな甘い集団ではないのだ、とキリシヤはエインズのその温度感に理解できない。
「今はセイデルさんも、みんな落ち着いたみたいだからルベルメルさんの目的を一旦聞こうよ。それで判断しよう、これを弁償してもらうとかさ」
乱雑になってしまった書庫や図書館、巨大な幹に潰されて被害を受けた校舎や荒れた修練場を見やるエインズ。
「いえ、エインズさん。そういうことでは、なく……」
キリシヤはまるで自分の頭がおかしくなってしまったのかと疑ってしまう程に、エインズとの認識の違いに戸惑っていた。
対してルベルメルは語る。今更隠したところでどうしようもない。彼女が去った後に書庫を調べればすぐにばれる。であるならば今黙したところで意味がない。
「私は、ここに保管してありました『原典』の原本を奪いに来ました」
ルベルメルは服の内側に入れていた原典を取り出してみせる。
そこにはシリカの文字「the original」という文字。
「えっ! 『とり』にきたというのは、『盗り』にきた、つまり奪いにきたってことだったのルベルメルさん?」
「ええ。騙すつもりはありましても嘘はついていませんよ、エインズ様」
小さく笑うルベルメル。
これには一本取られたといった様子のエインズ。
キリシヤ同様、セイデルもこの二人のやり取りが理解できない。ルベルメルの目的、その対象が原典の原本にあるのだ。今の王国の魔法文化を作り上げたその基となる魔導書、その強奪となれば大問題もいいところだ。
加えてそれだけで毒となってしまう程に濃密な魔力を生み出す聖遺物。
国宝の強奪に関するやり取りではない。頓智話をした方と、された方といった緩やかな空気が流れるだけだった。間違っても殺伐とした空気は一切ない。




