昨日の恋は今日の罠〜社長令嬢は分からない〜
放課後のチャイムが教室に鳴り響く中、微弱な振動に気付いた黒髪ロングの美女はポケットから携帯を取り出した。
「お嬢様、お迎えが到着致したました。裏の校門でお待ちしております…」
「分かったわ…でも今日も少し遅くなると思う。う〜ん、15分は掛からないと思うのだけど…」
「わかりました、私たちの事はお気になさらないでください…」
「ありがとう…。なるべく急いで向かうわ」
彼女はそう言うとスマホをポケットに戻した。
世界中で名の知れ渡る園華ホールディングスの社長令嬢である園華雪は控えめに言って完璧である。成績優秀、容姿端麗、人間味豊かな彼女は高校のマドンナに留まらず、今や崇拝する対象だと言っても過言ではない。クラス替えで毎年同じクラスになった男子の大半が喜びのあまり発狂し失神する…と言えば彼女の凄さが伝わるだろうか。
そんな高校三年生にして誰もが認める美神が放課後に向かう場所と言えば一つしかない。
…告白である。
彼女はその細い手で朝机に入っていた手紙を優しく広げた。
「え〜と、樋恨公報…。今日は男性のようね」
女子からの告白もざらにある彼女にとって告白前の性別把握は重要である。…というのも丁重にお断りする為の理由を先に考えるためだ。少なくとも一週間に二回のペースで告白される彼女だが、呼び出されれば必ずその場所に行きしっかりと話を聞く。小中高と合わせて告白された回数は遠に四百を超えているが、勇気を出して自分の気持ちを伝える相手を邪険にした事は一度も無い。
そんな心までも天使な園華雪が美術室のドアを開くと、前髪で目を隠した至って普通の男子が椅子に腰掛けていた。
「あ…!」
ドアの音に気付いた彼は慌て立ち上がる。
「こ、こんにちわ…樋恨公報です。今日は来て頂いてありがとうございます…」
「………!?」
その時、深くお辞儀をした彼を前にして園華に大きな衝撃が走った。目を凝らすと彼の心から真っ黒な光が放たれているが見えるのだ。
実の所、園華雪は人の心の色が見える。赤、青、白…常に変化し続ける他人の感情を読み取る能力。それは十全十美な彼女にどんな状況でも完璧に対応させる事を意味した。
紫の心の人には笑顔で相談に乗り、緑の人にはお菓子を分ける。黄色の人はパニックになっているため、焦らず落ち着いて話しかける事で問題を解決する。
彼女は生まれながらの勝ち組…これだけ聞けば誰もがそう思うかもしれない。しかし彼女はこの一見便利な能力を持って生まれてきたわけではい…。
それは遡ること12年前…彼女の5歳の誕生日。雪が降っていた事に子供らしく興奮していた彼女は周りを確認せずに道路へ飛び出してしまったのだ。誰もが死んだと思ったその瞬間、偶然にも女性が間一髪で彼女を庇った事で、その女性の命と引き換えに彼女は一命を取り留めた。しかし彼女は事故のショックからか、その時を境に人の心の色が見えるようになったのだ。
最初はちんぷんかんぷんだった。人の心の色が分かってもその色が何を意味するのか分からない。…この能力に何の意味があるのだろうか。嫌でも人の心が光を放っているように見える事に困惑した事もあった。しかし彼女はそこで好奇心にブレーキを掛けなかった。
あの心の色はお腹が空いている、泣いている人はこんな色をしているのか…。
秀才な彼女は12年間予測と研究を繰り返し、それぞれの色の意味を突き止めたのだった。経験と知識を元に心の色から心情を読み取り、それに応じて対応する。唯でさえ文句の付け所の無い彼女がこの能力を使いこなす事はまさに鬼に金棒であった。
しかし現在、そんな彼女も内心動揺していた…いや、せざる負えなかった。告白は何百回とされてきたが、いつも彼らの心は赤く光っていた。それがどうだ、彼の心は黒い。初めて見る色だった。
恋心は「赤」の筈…告白している彼の心は何故黒はなんだ。どんな意味があるんだ…。
彼女の鋭才な頭脳が高速で回転し出し、羅列するように脳内で憶測が飛び交う。
「園華雪さん、好きです僕と付き合ってください…!」
目の前に立っている男子が何か大事な事を言った気がしたが、彼女は内心それどころではなかった。
まだ見たことの無い色があったなんて…。
「園華さん…?あの、聞いてますか…」
樋恨は俯きながらなんの返答もない彼女の顔を覗き込む。
「あ…!すみません、私としたことが…。で、ご用件は…?」
「え…?あの、僕とお付き合いしていただけ無いでしょうか…」
彼は自分の必死の告白が彼女に届いていなかった事に戸惑いながらも、もう一度頭を下げた。
「いいですよ…よろしくお願いします」
「え……!?」
思いも寄らぬ返答に彼はだらしない表情で顔を上げた。無理も無い…誰とも付き合わない事で有名な彼女が告白を了承したのだ。
「では、早速連絡先を交換しましょう」
「あ、はい…」
お互い携帯を取り出し連絡先を交換すると、彼女は最高の笑顔でこう言った。
「樋恨くん、これからよろしくお願いします…!」
「こちらこそよろしくお願いします…」
「迎えの人を待たせているから私はここで失礼するわ。また連絡するわね」
こうして才色兼備の園華雪は樋恨公報といわゆるカップルと言う関係になったのだった。
----------
その翌日、園華雪がよく分からないヤツと付き合ったと言う噂は学校内に留まらず、一瞬にして辺り一体に広まった。学校、性別、年齢関係無く人々を惹きつける彼女の美貌は地域の崇拝する対象だったからだ。その知名度からか、彼女への告白はある時を境に付き合うためでは無く、唯彼女への気持ちを伝えると言う目的へと変化していた。ここ数年は皆、断られるのを承知で彼女を呼び出していたのだ。例えるなら記念受験である…。絶対断られるけど一様告白しとこうかな…みたいな感じだ?
しかしその記念受験で合格してしまった奴が出たのだ。彼女は誰とも付き合わない…定義と化していたその概念が皆の中で崩れ落ちた瞬間だった。
「樋恨君おはようございます」
校門前で待っていた彼の肩をトントンと園華は叩いた。
「あ、おはようございます…」
「ごめんね…待たせてしまってわよね。今朝は少し道が渋滞していたの」
彼女は顔の前で手を合わせ、申し訳ないと言う表情を浮かべた。
「全然大丈夫です…。それより一つ聞きたいことがあるんですけど…」
「いいわよ、何でも聞いて…?」
不意に顔を覗き込んだ彼女との距離に樋恨は思わず顔を赤める。
「なんで僕の告白をオッケーしたんですか…。園華雪さんは誰とも付き合わない人だと思ってました…」
「う〜ん、今までは恋とかよく分からなかったからかな…?」
普段はハキハキしている彼女は自信なさげにそう答えた。
「…そうなんですか。では、僕と突然恋に落ちた…という事ですか?」
「まぁ、そんな感じだわ…」
嘘である…。彼女が恋に落ちる事は今も昔も絶対に無い。
「恋愛など思春期の一瞬の気の迷い…そんな大人になって恥ずかしくなるだけの思い出を作る為にわざわざ貴重な時間と労力を消費するのは無意味」
そう当時七歳の彼女は結論付けたのだ。勿論結婚は無意味では無いと、彼女も思っている。跡取りを残す、会社の戦略を拡大する…結婚にはさまざまな目的があり、彼女自身もいつか社長令嬢として誰かと政略結婚するだろうと思っていた。しかし彼女は学生の恋愛と言う物に一ミリたりとも魅力を感じていなかった。合理的に考えてしまう癖のある彼女にとって恋の優先順位はお気に入りのシャープペンの次なのだ。
…にも拘わらず、今回樋恨公報と付き合ったのにはそれを上回る利点が彼女にあったからだ。そう、彼の心の色である。どうしても彼女は黒と言う未確認の心の色の正体を突き止めたかったのだ。
「僕のクラスここだから…」
廊下を歩いていた彼は立ち止まると右隣の教室を指さした。
「三組だったのね。ここだと学年が同じでも私のクラスとは階が違いますね…」
「そうですね、これではお昼休みしか会えないですね」
「でも、これでお昼休みが楽しみになるわ」
「ですね…。今日は僕が園華さんのクラスに迎えに行きますから、四時間目が終わったら待っててくださいね」
「フフッ…楽しみにしてるわ」
----------
こうして彼女の余りある知名度から一時は時のカップルとして注目され「どうせ直ぐに別れるだろう」と後ろ指を指された事もあった二人だったが、その関係はその後二ヶ月…三ヶ月と順調に続いた。
朝は校門の前で待ち合わせ、お昼は二人で食べる。休日には水族館、遊園地、お花畑…など誰もが思いつく定番のデートスポットを訪れた。一般的なカップル同様、記念日も共に祝った。一ヶ月記念日、二ヶ月記念日、三ヶ月記念日…。『好き』という気持ちでスタートした関係では無かったが、これら全ての時間が二人にとって掛け替えの無い物となっていった。
しかしそんな満足のいく関係を築いていたものの、彼女…園華雪は当初の目的を今も尚達成できていなかった。そう、彼の黒い心の正体である。少しでも手掛かりを見つけたいという一心で彼の心を観察し続けていたが、例えどんな状況においてもその黒い光が彼の心から消える事は無かった。何の変化も無ければ意味が無いで片付けてもよかったが、その黒が日に日に深く濃くなっているという事実が彼女に諦める事を許さなかった。
-----------
そして雪が微かに降り始めた12月16日…今日は園華雪の誕生日である。
「そろそろ行ってくるわ…。遅くとも8時には戻ると思う」
白いコートに身を包み、ふわふわの手袋をつけた彼女は扉を開く。
「行ってらっしゃいませお嬢様…誕生日のお祝いの準備をしてお待ちしております」
彼女を取り囲む五人のメイドと執事が頭を下げた。
「いってくるわ…!」
春に舞う桜の様な笑顔で振り向いた彼女はそう言い残すと家を飛び出して行った。
彼女の出発を見送った彼らは頭を上げ、彼女の背中を見つめる。
「お嬢様…最近はとても楽しそうですね」
「そうですね…。彼女は器用な方ですから、どんな時にも笑顔でお過ごしになる。しかし最近は何と言いますか…心の底から嬉しそうに微笑まれる」
「私達もなんか嬉しいですね…」
「ですね…本当に」
すると白髪の執事がポケットからハンカチを取り出した。
「また一つ大人の階段をお登りになられたのですね…グスッ…お嬢様」
「な〜に泣いてるんですか…一郎さん」
「すみません…つい嬉しくなってしまいまして」
「もぉ〜、そんな泣くと寿命縮みますよ…」
樋恨との誕生日デートに向かう園華は、雪の中を進みながらも心を弾ませていた。彼と付き合い出してもうすぐ四ヶ月…楽しい時間が一瞬で過ぎてしまうと言うのはどうやら本当らしい。黒い心の正体はまだ気になるが、その一方でそんな事がどうでもよくなっている自分が居る事にも気付いていた。
今は唯彼との時間を大切にしたいと…。始まりは間違っていたかもしれないけれど、今の関係は間違いなく本物であると…。
今まで経験した事の無いその感情が日に日に大きくなっていくに連れて、彼を騙しているという罪悪感も彼女の中で確かに大きくなっていた。
いつか彼に告白を了承した本当の理由を打ち明けて、謝ろう…。そして今の気持ちを伝えよう。本当の気持ちを、伝えよう…。絶対…近いうちに。
そんな思いを胸に、高鳴る鼓動を抑えながら待ち合わせの駅に到着した彼女だったが、少し張り切り過ぎただろうか…待ち合わせの時間よりも15分早く到着してしまった。
「少し早すぎたわね…」
直ぐ横を通過する電車の風が彼女の黒髪を掻き上げる。
「ここで待とうかしら…」
彼女は『大手町』と書かれた看板の下に移動すると、ポケットからスマホを取り出した。
そして10分程だろうか、しばらくすると後ろから彼女の名前が呼ばれた。
「園華さん…!すみません…お待たせしました」
「あ…!樋恨君、大丈夫よ…私が早く来ただけですから」
「良くないですよ、こんな寒い中待たせてしまって申し訳ない…」
「いいのよ、早く行きましょう…!」
園華はペコペコと頭を下げる彼の手を取ると、電車へと乗り込んだ。
東京から目的地の茨城まではかなりの距離があったが、思い出話に花を咲かせた二人がそう感じる事は一切無かった。一番盛り上がったのはハロウィーンで樋恨がゾンビのコスプレをするためトイレットペーパーを身体中に巻き付けてきた時の話だろう。頼んだ衣装が間に合わなかった樋恨は急遽ゾンビの格好をして彼女の前に現れたのだ。彼が恥ずかしがりながらも何とか仮装して来た姿に、園華は当時思わず爆笑してしまった。
「フフッ、何で…選りに選ってトイレットペーパーなのよ」
「笑わないでくささいよ…!あの時はトイレがたまたま近くにあったんです…」
「フフッ、そうね…たまたまね」
必死な樋恨とは反対にニヤニヤが止まらない園華は持っていたハンカチで顔を隠す。
「そんなに馬鹿にするなら僕も西武遊園地での園華さんの話しますよ」
対抗するように樋恨がジェットコースターに乗った時の園華の表情を掘り起こすと、彼女は顔を赤らめた。
「あの日は体調がすぐれなかったのよ」
「いやいや…園華さん早いの苦手なだけですよね」
「そ、そんな事ない…わ…」
相変わらず黒い光を心に巻き付かせた彼との時間は園華にとって居心地が良かった。嫌でも分かってしまう他人の心情を伺いながら過ごさなくて済むのだから。
「あ…これどうぞ、誕生日プレゼントです」
樋恨は袋から紅いマフラーを取り出すと彼女の首に巻いた。
「え…!ありがとう…とても嬉しいわ」
「気に入ってもらえて見たいで良かったです…」
「もしかして…おそろい?」
彼女は樋恨の首元に巻かれた紅のマフラーを挿した。
「そうです…ペアルック?ってヤツです」
「素敵だわ、ペアルック…!」
車内でイチャイチャする二人の姿に周りが見惚れていた事など気付く筈もなく、電車とバスを乗り継いで2時間…お揃いのマフラーを身に付けた二人は目的地の竜神大吊橋へと到着した。
地上100mの位置に架けられたスカイブルーの鉄橋。彼らはそこから見える絶景に呆気に取られていた。
「綺麗ですね…」
「前から来てみたいと思っていたけど、これは予想以上だわ」
「冬に来るのもありですね…」
「ん…?」
白銀に飾られた山並みを瞳に写す彼女は足元の違和感に視線を落とす。
「樋恨君…!これ見て、下が透けてるわ」
足元に設置されたアクリル板越しに見える湖面に彼女は思わず声を上げた。
「こ…これはスリルがありますね……」
そう言いながら樋恨は何かに追われているかの様に透けた足元の上を素早く移動する。
「フフッ…高いのもしかして苦手なの?」
「いや、全然そんな事無いですけど…。唯あっちの方が綺麗だなと思って」
「樋恨君にも苦手な物があるのね…覚えておくわ」
しばらくして透けたアクリル板の道を堪能した彼女は、柵に手を掛けている樋恨に肩を並べた。
「樋恨君、お待たせしました…」
彼女が来た事に気付いていないのか樋恨は何処か遠くを見つめている。
「何か考え事…?」
「あ…すみません。母の事をちょっと思い出しまして…」
「お母さん…?」
「今日は母の命日なんです…」
寂しげな彼の横顔に園華は言葉が詰まる。
「そうなの…」
二人の間に気まずい沈黙が流れたが、しばらくすると樋恨がその沈黙を破った。
「12年前の今日…雪だるまを一緒に作ろうと、僕は母の帰りを一人で待っていました。だけど何分…何時間待っても母は返って来ませんでした…」
樋恨は一息つくと遠い雲と山の狭間のを眺めながら続ける
「それでも一人で待ち続けた僕の肩が叩かれたのは次の日の朝…。息を切らした父さんと、慌てて病院へ向かいました」
「お母さんは……」
「白い布を被っていました…。幼い僕は『母さん雪だるまを作ろうよ』なんて病院で叫んでしまって…。恥ずかしいですね…雪はもう溶けてしまっていたのに」
樋恨は歪んだ顔を隠す様に俯く。
「交通事故でした……女の子を庇って即死だったようです」
「それは…つらかったわね」
「お母さんは超がつくお人好だったんです。自分の事なんて全く意に介せず他の人を助ける…そんな母さんは僕の誇りでした。でも、本当は…本当はもっと自分を大事にして欲しかった。毎日ご飯を作るだけで…僕という存在を救っていた事に気づいて欲しかった…」
頬を伝い零れ落ちた彼の涙が、ポロポロと音を立てながら深い谷の底へと落ちる。
「ショックから立ち直れなかった父はやった事もないパチンコにのめり込み、僕を置いて蒸発しました。僕の…僕の大好きだった家庭は12年前の今日…一瞬にして崩れ落ちたんです」
どこか苦しい表情を浮かべた彼は下唇を噛んだ。
「そんなどん底に落ちた僕は思いました…。彼女…母さんが助けた彼女が全て悪いのではないかと…。僕から全てを奪った彼女に復讐すれば、僕は救われるかもしれないと…」
彼の澄んだ瞳が突然悲しさと憎しみに浸った様な気がし、園華は言葉を失う。
「イカれてますよね…僕はその時を境にどんどんおかしくなっていったんです…」
「………」
「その日から毎日…毎日苦しかった。彼女が憎い…。彼女が悪い…。母さんが彼女を助けなければ…。そんな思いが僕の胸をこれでもかと締め付け続けました…」
その苦しみが滲み出るかのように彼は力強く続ける。
「耐えて、耐えて、耐えて…耐え続けました12年間…。しかしそんな努力も虚しく、遂に僕は我慢の限界を迎えました。そう…彼女を呼び出してしまったんです…」
彼の胸の黒が一段と大きくなる。
「殺してやる…殺してやる。誰もいない…ナイフを潜めた僕と何も知らない彼女の美術室。彼女を殺して、僕はこの胸の苦しみから解放される…やっと、解放される…」
着ていたコートの胸元を強く握りしめた樋恨は声を張り上げる。
「そう思っていました。なのに何で、何で告白を了承してしまったのですか…」
先までの温情な言葉が無かったかの様に冷たい表情を浮かべた彼は不意に視線を向けた。
「……園華さん」
「え……?」
彼が一瞬何を言ったのか分からなかった。
その『彼女』は私…?
外は雪が降っているにも拘わらず、冷たい汗が背中を流れる。
確かに私は12年前の今日…交通事故にあった。そしてとある女性に命を助けてもらった。
でも、そんな…まさかそれが…。
戸惑いを隠しきれない彼女を他所に、樋恨はじっと彼女を見つめながら続ける。
「予想外でした…まさか誰とも付き合わない筈のあなたが告白を了承するなんて。本当はあなたの返事を待ってから殺す筈だった。しかしあなたの予想外の返事に僕はさらに動揺し、あなたを殺す事が出来なかった…。僕はこの胸の苦しみから解放される絶好の機会を失ったんです…」
彼は握っていた胸元のポケットをさらに強く握りしめた。
「それでも希望はありました…あなたと過ごせば僕は変われるかもしれない。このドス黒い気持ちがあなたといれば晴れるかもしれない…」
……そうよ。彼が私を殺す筈なんて無い。きっと何かの間違いだわ。
言葉は喉を通らないが、彼女は心の中でそう言い聞かせ、揺れ動く心を必死に抑え付ける。
「しかしそんな事は起こらなかった…。楽しかった…あなたと過ごす時間が。それなのに、それなのに何故か…その爽やかな笑顔を見る度に、僕の気持ちは日に日に大きく…苦しくなっていく」
「何で…何でなの…」
言葉を並べるにつれ、どんどん冷めていく彼の表情を前に、園華は必死に言葉を紡ぐ。
「そして気付きました…。もうダメだな…と、僕はもう普通の人間では無いんだな…と」
「そんな事ない、あなたは……」
「僕たちの愛は最初から偽物…だったんです」
「違う…樋恨君。私は…」
「いいんです…園華さんだって最初から僕なんかを好きなわけないですもん…。告白を了承したのには何か理由があったんですよね……」
「違…違うのよ。私はただ…あなたの…」
…言わなきゃ、本当の事を。伝えなければ、今の気持ちを…。
そんな気持ちが溢れ出ているにも拘らず、視界だけがどんどんぼやけていく。
「僕にはもうこれしかないんです。こうするしか、僕はこの気持ちから解放されないんです」
大粒の涙を流しながら橋にもたれる彼女の元へと樋恨は近づく。
「ごめんなさい…」
次の瞬間、大きな衝撃が園華の背中に走り、彼女は空中へと投げ出された。
「樋恨…くん…」
さっきまで見えなかった筈の湖面が見え、彼女は状況を理解する。
……私、死ぬのね。
橋の底へと落ちていく彼女の姿に辺りで悲鳴が飛び交う。
降り落ちる雪とともに空中を舞う園華は、みるみる透き通っていく彼の心の黒い靄に息を漏らした。
……ああ、そうか。殺意…。黒は殺意なんだわ。やっと分かった…けど、少し遅かったかしら。
走馬灯のように彼との時間が脳内で再生され、彼女は涙を浮かべる。
…恥ずかしいわね、騙されていたのは彼ではなく、私だったなんて。
「僕はこれでやっと、やっと解放されるんだ…」
闇の中へと消えた彼女を見送ると樋恨はその場を後にした。
…帯を剥いだ彼の心が首元の紅のマフラーの様に「赤く」染まっていた事など知る筈もなく。