123/341
122
「少し前にお会いしましたよね?」
里奈は男の横にしゃみこんだ。
「さあ?そうでしたか?」
男は里奈には顔を向けず、やはり鬼気迫る様子で筆を走らせている。
里奈は、次にかける言葉が見つからず、黙りこんだ。
あまりの緊張感のため、息苦しさえ感じ始めていた。
「海にはよくいらっしゃるんですか?」
里奈は沈黙から逃れるように口を開いた。
「いえ」
男はまったく表情を変えず、キャンバスに向かったまま答えた。
「普段はどんな絵を?」
「いろいろと」
「へー、見てみたいな」
そう言って里奈が、組んだ両手を顎の下に置いた時だった。
2人の目の前に、一匹のトンボが飛んできた。
「あっ」
里奈は小さく声を上げ、男は筆を止めた。




