前編
人って悪魔の姿に似ているかもしれない。
「って考えたこと、ある?」
「…いや、ないよ」
そうかー、と口にしながら私は机に突っ伏した。何一つ汚れていない進路希望調査の用紙が、窓からの夕陽でオレンジ色に染まっている。コロン、とシャーペンを転がして遊ぶ暇なんて私にも悪魔ちゃんにも無いはずなのに止められない。放課後の教室に二人だけ居残り。
「ねぇ、悪魔ちゃん」
「何?天使ちゃん」
「人生ってなんだろうね」
カリカリと適当な学園の名前を記入しながら青春みたいなことを呟いた。哲学的、それは、まさしく青春。
「ねえ、悪魔ちゃん」
「だから何?」
「本当に私って天使なの?」
そんな言葉を口にした時、胸にチクリと痛みが生じた。とても嫌な予感がする。とても、とても、嫌な感じだ。少し動揺している私の、前の席に座っている悪魔ちゃんが、ゆっくりと振り返りながら「そうだよ」と囁いた。どこか嘘っぽくて、なんだか悪魔ちゃんの声をもっと聴いていたい気持ちが出てきてしまう。
「それじゃあ、悪魔ちゃんは、悪魔なの?」
「…そうだよ」
グイッと頬を引っ張られる。
「い、いひゃい……」
「なんでこんなことするの?って顔だね。それはね、私が悪魔だからだよ」
そう言う悪魔ちゃんは何かを隠しながら笑いました。私には分かります。
「私に何か隠してるでしょ?」
ギイ、と椅子から立ち上がった悪魔ちゃん。じっと上から私を見下ろす形になります。一体、何をされてしまうのでしょう?
「ねえ」
「は、はい」
拳を膝の上に置いて真面目に聴く態勢になる。
「実は天使ちゃんにはね、好きな人がいたんだよ」
「おぉ…」
それは、なんとまぁ…大きな隠し事ですね。あれ?と私は気づきます。その肝心な恋人との記憶が私の頭の中にありません。
ヒラヒラとスカートを揺らしながら帰りの支度をする悪魔ちゃんの背中を見つめる。もしかして悪魔ちゃんが私の好きな人を殺したのでしょうか。そして、復讐に失敗した私の記憶を消したのでしょうか。
「他に質問ある?」
と、聞かれて当たり前のことを確認し忘れていました。
「あの………天使とか悪魔とか、そんなの嘘だよね?」
沈黙。が、流れたのは一瞬で悪魔ちゃんがすぐに否定した。
「嘘じゃないよ」
「どうして?」
「じゃあ、試しに手を4回叩いてみてよ」
うん?と疑問符を何個も飛ばしつつも私は手を叩く。パチパチパチパチ。
ぽん
「うわっ!?」
色紙サイズの透明なガラスが何処からともなく現れた。魔法。奇跡。もしかしたら今、目にしているのは現実じゃなくて夢かも、と思って触るとヒヤリと感触があった。
「……すごい」
手を離しても空中に浮かんでいるソレには、細かい文字が刻まれている。
《悪魔の契約書》
【再生】
時間、生命を元に戻すことも出来る。代償は契約者が一番大切にしているモノの“破壊”。
【破壊】
目に見えるモノ、目に見えないモノを壊すことが出来る。代償は契約者が一番大切にしているモノの“破壊”。
「契約書…?」
他にも沢山言葉が並んであって思わずスクロールして“同意する”を押したくなる。もちろん、そんなものはない。
小説みたいな出来事について行けなくて、階段も途中で転けそうになった。
「おっと」
悪魔ちゃんが私を支えてくれた。
「あ、ありがと…」
彼女が悪魔っぽくなくて少しドキドキしてしまう。
「ね、ねぇ」
「何?」
「悪魔なのに、どうして優しいの?」
「……うーん」
顎に手を当てて考えるポーズをしながら思考している悪魔ちゃん。その隣を歩く私。外では陸上部が騒がしい。そういえば、この女子校には王子様がいたような気がする。グランドを見るとファンクラブの子猫たちがキャーキャーと鳴いていた。
「もう終わったから」
「へ?」
私は彼女が何を言っているのか理解出来ずに数秒停止した。さっきまで何を話していたっけ?
「優しさの理由」
「あぁ…いい歌だよね」
「……ん?違う違う、そうじゃなくて。私が天使ちゃんに優しいのは“契約が終わったから”だよ」
「けいやく」
「だから天使ちゃんは好きな人のことを思い出していいよ。私の叶えたいことは叶ったからね」
「う、うーん??」
グルグルと頭が回る。なんだろう、この謎を解くピースは集まってきているのに解けそうにない感じは。頭の整理が全然出来なくて、私のことを優しくする理由も聞けないまま下駄場に着いてしまった。白羽 天という自分の名前が貼ってある下駄履きを脱いで、学校指定の靴に履き替える。
「それじゃね、ソラ」
黒羽 愛海が寂しい目でバイバイしてきた。
「またね、アミ」
私も手を振り返してバイバイする。なんだか私まで寂しくなってきたから早く家に帰ることにした。
私たちは人間だ。どこにでもいるヒューマン。哺乳類。霊長類。怪我もするし、授業で居眠りもする。天使とか悪魔とか、最近始めた遊び…
「の、はずだったんだけど」
パチパチパチパチと手を叩く。ぽん、とガラスみたいな契約書が出てくることを知ってしまった。
私は自分の額の手術跡に触れてみる。脳裏に浮かぶのは白い病室で私の手を握りながら泣いていたアミの顔。先生達は信じられないものを見たようなリアクションをしていて面白かった。
私は、私の命を【再生】したんだと思う。下校途中にトラックに引かれて死にかけたんだよ、と母親が教えてくれたことは、まだ記憶に新しい。
「ただいまー」
台所から「おかえり」の声が返ってきた。失くしていない記憶に触れて安心する。そう、私は何も忘れていないはずなのだ。
ガチャリと自分の部屋に入って契約書をぽんと出してみる。ていうか、悪魔の契約書がポンポン簡単に出てくるけど実感が湧きづらい。私はベットにダイビングして息を吐く。アミが言うには「好きに読んでいい」とのこと。
「好きに読めっていわれてもなぁ…」
難しいことは苦手だ。だからスマホに手を伸ばしてアプリに逃げることにする。
「あっ」
人差し指でチョンとタップしたら間違えて画像フォルダを開いてしまった。何をやっているんだ私は…と思ったけど…ちょっと待って。フォルダ名が「王子様♡」で保存されていて、かなりの数の写真が入っているようだ。
「どういうこと…?」
ファンでもないのに、こんなに写真を撮っているなんておかしい。いや、もしかしたらファンだったのかもしれない。
チラッと契約書に目を通す。私が大切にしているモノが好きな人への気持ちだったら?忘れてしまっている理由に説明がつく。
「もし、そうなら」
取り戻したい。私の心を、私の願いを。仰向けに寝転んだ私は、ぎゅっと拳を突き上げて決意する。壊れたのなら、直せばいい。スマホに映る短髪の少女に、未発見の想いにワクワクしながら、この夜は眠りました。
朝練の陸上部。もうすでにファンの子が数名いた。先輩たちに敬礼!
「アミは、まだ起きてないか…」
LINEで色々聞きたいと思っていたけれど、また今度にしよう。
「あ…」
王子様が走る番になった。背中に、羽が見える。風のように走る描写は、よく聴くけれど王子様は違う気がする。羽の生えた鳥のようにビューーンとコーナーを美しく曲がって鋭い。見ていて気持ちが良い走りなのだ。思わず握りこぶしを作って応援していた。私は、もう一度、ファンになった。
「あ、そうだ」
このことをアミに報告しなくちゃ、と王子様から目を離した時、小さな悲鳴が響いた。グランドを見ると足を押さえて倒れる王子様の姿が。それは大会前の一週間前ということを知らない私でも嫌な予感というものを感じざるを得ない出来事でした。
保健室に運ばれた王子様、山咲 翔子先輩は青ざめた顔でベットで横たわっている。
「山咲先輩」
私が声をかけると驚いた顔で振り向いた。
「あ、あれ?授業はどうしたのかな?」
「えっと、サボっちゃいました」
「へぇ、ソラちゃんはイケナイ子だね」
「え」
名前を覚えていてくれているということは以前に会ったことがあるということ。やっぱり、私の予想は間違っていなかったんだ。
「でも、本当にイケナイ子はボクの方だよね…」
向けた視線の先、テーピングされた右足を見つめている。廊下ですれ違った先生たちの残酷な言葉を思い出しそうになった。もっと自覚してほしい、とか言わないでほしい。山咲先輩は、彼女はただの女の子なのだから。
「山咲先輩」
「ん?なんだい?」
汗で濡れた前髪がキラキラと光って胸が高鳴る。私は、多分、この人のことを好きになると思った。だから、聞いておきたい。
「また、走りたいですか」
「それは……」
目と目が合う。山咲先輩は何一つ諦めていない顔で答えた。
「言うまでもないでしょ」
これで、決まりだ。
パチパチパチパチ。ぽん。
【再生】を選ぶ。後悔はないか、聞かれたら上手く答えられないけれど、別にいい。王子様の目を見たら大切なものを失う恐怖なんて平気だ。
契約書が青白く光りだしてきた。一度、使ったことがあるはずなのに、まるで初めて使うみたいでドキドキする。膝が震えてきた。そして次の瞬間、思わず目を閉じるほど眩しい光に包まれたのでした………