花に恋を秘めて
空が泣いてる。君を想って。
太陽のように笑う君がいなくなって、僕の心はいつも雨模様。
君は、一体、どこに行ったの。
君とよく来た公園のベンチに座って、ぼんやりと虚空を眺める。
僕の視界の隅には、紫苑の花が寂しげに揺れていた。
だんだん寒さが増してきた今日、この日。昔、君と約束した日。あの日、君は来なかった。君はどこかへ消えてしまった。それでも毎年のこの日に、僕はこの公園を訪れる。いつか、君がここに来ると信じて。
あの時高校生だった僕は大学生になって、社会人になった。
「もう、忘れたっていいだろう」
そう言う人もいる。だけど僕は待ち続けることを選んだ。君を忘れることなんてできない、と思ったからじゃない。君を忘れてしまうということが、どうしようもなく怖かったから。ここに行かなくなったその時こそ、本当に彼女のことを忘れてしまうと思ったから。
あの、花が開くかのような暖かい笑顔も。
あの、豪快な笑い声も。
あの、むちゃくちゃで阿呆のような行動も。
時の流れは残酷で。もう朧気にしか思い出せないその記憶の残りかすを、僕は大切に抱き締める。
…あいたい。
君に、あいたい。
「…はあ」
込み上げてくる熱い衝動を、大きく息を吐いてごまかした。
ふと、雨がやんでいることに気づく。元々薄暗かった空は、更に暗さを増していた。
「…帰るか」
今日も、君は来なかった。
すっかり冷えてしまった体をぶるりと震わせて、よっこいしょ、と立ち上がる。そして、公園から出ようとした時。
「あの。鈴木さんです、か?」
バッと振り返った。まさか。そんな思いが脳裏を駆け巡る。
こんな遅い時間、こんな辺鄙な公園に来て、僕の名前を呼ぶなんて。それこそ、彼女しか…。
そんな淡い期待は、その女性を見た瞬間に砕け散った。その人は、彼女よりも明らかに背が低かった。彼女は女性にしてはとても背が高かったから。
しかし、続くその女性の言葉に、思わず「ひゅっ」と息を飲む。
「優奈さんから、あなた宛の手紙を預かっているんです」
それは、確かに、彼女の名前だった。
「どうぞ」
そう差し出された手紙を、震える手で受けとる。中身を見たいと思うが、見るのが怖い。本当にこれが彼女からの手紙だったらいいのに…、と願う。
可愛らしい柄の封筒をゆっくりと開けて、何だか良い香りのする便箋の中身を見た。
「鈴木君
久しぶりだね。元気にしてますか?
私はとても元気です。
実は最近結婚したんです。
あなたがずっと私のことを待っているって聞
いて、この手紙を書きました。
あなたも私を忘れて、幸せになってください。
優奈」
女の子らしい、丸っこい字だった。昔より、字は綺麗になったのかな?
「フッ」
小さく笑って、目を閉じる。心に乾いた隙間風が吹いた気がした。
「失礼ながら、あなたは優奈とどのような関係で?」
しばらくたって、目を開く。そして、僕のことをじっと見守っていたらしいその女性に尋ねた。
「あ、えっと、私は彼女の同僚です。家がこの近くだって言ったら、この手紙を届けてくれと頼まれて。この日にここに来るはずだからって」
改めてこの女性をじっと見る。ずいぶんと小柄だが、よく見ると目がくりくりとしていて、髪の毛はふわふわとおしゃれにカールされている。先程までは気づかなかったが、小動物的な可愛いらしさを持った人だった。
その人の目を見て、僕は言った。
「手紙、ありがとうございました」
「いえ、私はただ届けただけですので…」
手をぶんぶんと振って、でも少し嬉しそう。そんな彼女に、続けて言った。
「これを書いたのは、あなたですね?」
「え…」
瞬間動きが止まった彼女を尻目に、更に言葉を連ねた。
「彼女は、優奈は、おしゃれや可愛さとは無縁の人でした。こんな可愛らしいイラストのものよりも、シンプルな封筒や便箋を選ぶでしょうね。字だって良く言えば男らしい、普通に言えばただ単に汚い字を書いた。
僕はよく覚えていますよ、優奈の字はこれじゃない」
優奈は、そう、とても明るく元気で、だけどとても大雑把な子だった。細かいことが大の苦手で、嫌なことは全部僕に放り投げて。荷物はいつもグシャグシャだし、何度ちゃんと整理しろって怒ったことか。
彼女のそんなところも、僕は好きだったんだけど。
「で、でも、時がたつにつれて彼女も変わったんですよ、きっと。ええ、私の知る今の彼女は、可愛いものが好きな可愛い子なんです」
慌てたように捲し立てる目の前の女性を見て、僕は柔らかく笑いながら言った。
「いいえ、彼女は変わりません」
その人は不思議そうに首をかしげた。
「何を根拠にそんなことを…?」
僕は笑った。おかしくておかしくて堪らなかった。目の前の女性が、ではない。そう、僕自身が、あまりにも滑稽で。
「だって…」
ああ、そうだ、だって彼女は。
「彼女はもう、死んでいるんですから」
「は…?」
あれは高校2年生の時。
約束の日、彼女は忘れ物をしたらしくて。取りに戻ったら時間がもうぎりぎりだったんだね。なんとか間に合おうとすごく焦って、全力で自転車をこいで、…交差点に飛び出した。
…即死だったって。
そんなに急がなくても良かったんだよ。君のことなら、僕は何十分だって、何時間だって待っていられたのに。
それにね。彼女が忘れた物ってなんだったと思う?
…僕への誕生日プレゼントだったんだってさ。
もうすぐ冬だからって、彼女は自分でマフラーを編んだんだよ。あの雑で不器用な彼女が。後からそれをもらったけど、案の定網目の大きさはバラバラ。だけど、それを見れば、彼女が一生懸命編んでくれたんだろうなっていうのがよく分かった。
…でも。
でも僕は、そんなプレゼントよりも、君が僕のもとに無事に来てくれることの方が、僕と一緒にただ笑っていてくれることの方が、ずっと良かった。
ばかだよね。最高の誕生日になるはずが、最悪のプレゼントで最悪の誕生日になったんだ。
何しろ僕は、その事故の現場を見なかったから。だから、彼女はまだ生きているんだ、と自分に言い聞かせてた。…彼女は約束をほっぽらかして、そのまま薄情にもどこかへ行ってしまったんだ、って。
彼女の葬式には行かなかった。だって彼女はまだ生きているのだから。
両親は悲しそうに僕を見ていたけど、葬式に行かないと言ったとき、父さんが僕を殴った。
「彼女は死んだ。いいか、彼女は死んだんだ! いつまでも自分の殻に閉じ籠っていないで、最後くらいあの子を見送ってやれ…!」
知らない。聞こえない。…優奈は生きてる、葬式なんて必要ない。
そう心の中で繰り返してた。
あぁ、でも、本当はわかってたんだ。彼女は死んでしまったんだって。僕がとてつもなくばかなことをしてるって。でもそれを認めきれずに、今日まで毎年、この日は学校も仕事も休んで、ここで彼女を待っていたんだ。
「そんな…。じゃあ、私は余計なことを…」
一つ目を瞬いて、ふと、目の前に女性がいることを思い出す。すっかり項垂れてしまっている様子に、ゆっくりと声をかけた。
「いいえ、あなたにはむしろ感謝してるんです。優奈は死んだ。ええ、その通り。死んでしまったんです。
僕は今、ようやくこの事実を事実と認めましたよ。
…あぁ、これで、今まで意地を張ってできなかった、彼女の供養をしてやれる」
僕は、雲も少なくなってきていた空を振り仰ぐ。そこにはぽつぽつと星が見え始めていて。
「あの中に、優奈はいるんでしょうかね?」
思わずぽつりと溢してしまった言葉を訂正しようとすると、
「ええ、いますとも。きっと優奈さんは、あの高い高い空から、あなたのことを見守っています」
思いの外力強い声が返ってきたので、驚いて彼女を見下ろす。彼女は僕を見ず、空を見上げたまま、言った。
「私は、あなたは知らなかったようですけど、あなたと同じ大学だったんです。そこで何度か見る機会があって、少し気になっていたの。楽しくなさそうな、虚ろな笑い方をする人だなって。
その時は接点なんかなかったから、それっきりでしたけど」
彼女は目線を下ろして、僕に向けた。
「ここには、今年引っ越してきたんです。それで今朝あなたを見かけて、あれ? と思って。
その時偶然耳にしたんです。あなたはいなくなってしまった彼女を、何年も待ち続けているんだ、と。ああ、あの時の表情はそういうことだったんだな、って思ったんです。
…私は、あなたが楽しそうに笑った顔が見たかった。だから、もうその子のことは忘れてもいいんじゃないか、と思って、その子の名前を調べて、その手紙を書いたんです。
あなたに、幸せになってほしかった」
聞いてるうちにだんだん気恥ずかしくなってきた僕は、少し横に目を逸らした。
すると、ふと紫色の小さな花の塊が目に飛び込んできた。
「おや、あれはブッドレアか? まだ咲いてるなんて」
あの日々を思い出す、懐かしい花。思わず早足で近づいて、よく見てみる。
「ブッドレア? 何ですか、それ」
後ろからパタパタとついてくる音を聞きながら、僕は彼女に説明した。
「もうちょっと早い時期に咲くはずの、紫系の花ですよ。優奈は花とかが意外に詳しくてね。よく教えてもらったんです。
確かこの花言葉は…」
さすがに気まずくなって、口をつぐむ。
「花言葉は?」
女性というものはそういうものが好きなのか。少しきらきらとした目をこちらに向け、答えを促してくる。
「いや、何でもありません。夜ももう遅い。そろそろ帰った方がいいですよ。
…さよなら」
「えぇーっ、何ですかそれ! 教えてくださいよー!」
さっと踵を返して、帰り道を急ぐ。後ろで彼女の何やら叫んでいる声が聞こえてきた。
そう言えば、彼女の名前を聞いていなかったな。
…まあ、またここに来るのも良いだろう。何だか、彼女とはこれからも浅からぬ付き合いをするような気がしているんだ。
…ブッドレアの花言葉。
それは、「恋の予感」