三冊目
最近、生きているのが辛い。
部活では失敗したし、
成績は落ちて親に叱られて、
挙げ句に彼女にも愛想尽かされて。
夢を見ようにも夢が無い。
こんな俺、必要なのかな。
この世界に、
俺は本当に必要?
校舎の屋上、柵の外側、
ふわりと体が浮く――。
「べぶっ」
「うぐっ」
棚から落ちた俺は、とっさに出した腕を強く床に打ちつけた。
ん? 待てよ。棚? 床?
「どこだ…? ここ」
上半身を起こし、辺りを見渡して、俺は驚きのあまりあんぐりと口を開けてしまった。
見渡す限り、本、本、本。びっしりと本が詰められた棚は、高さが五メートルはありそうだ。しかもそれが、延々と続いている。
「すげぇ…」
「あのー」
下から声がした。下? 下……。
「ちょっと重いです」
「わぁぁすみません!」
俺は人の上に座っていたんだ。慌ててのくと、下敷きになっていた人はいえいえと言って、ゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫ですよ。慣れてますから」
「そ…そうですか」
にっこりと笑いかけられる。男の俺が言うのは少し変かもしれないけど、その人はびっくりするほど綺麗な男の人だった。そう、格好いいじゃなくて、綺麗。年は俺より二、三上ぐらいだろう。
彼は持っていた本を埃をはらうように撫でると、本棚の空いている箇所にはめた。
「ここは初めてですか?」
「え? ああはい」
心なしか声が上擦る。しっかりしろ俺。
「えと…ここは…どこなんですか?」
「…そうですね。僕もよくは分かってはいないんですが、あらゆる物語の揃った図書館、とでも言いましょうか」
「あらゆる物語? 普通の図書館とは何か違うんですか」
「ええ。違います。あなたの知っている図書館はどんなものかは知りませんが、おそらくここは普通とは違うでしょう。詳しいことは“管理人”に聞くのが一番です。…ご案内しましょうか?」
「お願いします」
彼は微笑むと、こちらです、と言って歩き出した。俺はその後をついていく。
なんだか不思議だ。俺は目の前を歩くこの綺麗な人を知らないはずなのに、全然緊張していない。俺は初対面の人と話したりするのは苦手だけど、この人とは古い友達みたいに話せる。何かがしっくりくるんだ。
なんだろうな。
「なんでしょうね」
「え? 俺何か言いました?」
まさか今思ってたことが声に出てた?
男の人はちょっと振り返って、首を傾げた。
「いえ。…どうかしました?」
「あ、いや、何でもないです。そちらこそどうしたんですか? いきなり」
「…いやぁ、何だか、あなたとは初対面じゃない気がするなあと。もちろん思い違いだとは思うんですが」
なんだ、この人も同じことを考えていただけか。俺は心の中で安堵の息を吐いた。
しばらく歩くと、本棚の森を抜け、少し開けた場所に出た。テーブルと椅子が数脚並んでいる。
「あれ、いませんね」
男の人は首を傾げた。
「いつもならだいたいここにいるんですが」
変ですねぇと呟きながらきょろきょろ見渡している。
それにしても変な所だな。
目の前にあるテーブルも、椅子も、床も本棚も。何もかもが変だ。何が変と言われても分からないけど、とにかく変だ。少なくとも天井は俺が知っている図書館とはまったく違い、でこぼことしていて所々蔦まで生えている。いや、むしろあれが天井であるのかどうかも怪しい。
俺が辺りを見渡していると、男の人はしょうがないと言いたげに溜め息をついた。
「ちょっと探してきます。このあたりにいて下さいね。迷ったら僕には見つけられそうにありませんから」
「あ、はい。分かりました」
反射的に頷く。彼はまた微笑んで、本の森の中に消えていった。
チチチ、チチチ…。どこからともなく、雀の声がした。見上げると、丸い天窓に一羽の鳥の影が見えた。
ちょっと待て…。あれ、雀か?
明らかに赤い。カナリアか? 俺は本物のカナリアを見たことはなかったけど、写真では見たことがある。だが、よく見ると尾が異様に長い。やっぱりあれはカナリアじゃない。
「何だあれ」
チチチ。チチッ。俺が考えている間に、鳥はどこかに飛んでいってしまった。
「行っちまった」
「そうだな」
「!?」
真正面から声がした。俺が慌てて前を向くと、テーブルの向こう側の椅子に、小さな男の子が座っていた。
いつの間に?
しかもこの変な図書館に似つかわしく変な格好だ。映画かゲームかで見たような古い感じの服装をうまく着こなしている男の子は、金縁の眼鏡をくいと指で上げた。
「あれはああいう鳥だ。人が最も美しいと思う色、形に姿を変える鳥。私はあれをユメウツシと呼んでいる」
「ユメウツシ…」
なんだかおとぎ話に出てきそうな鳥だな。というか、姿を変えるとか有り得ないにも程がある。口調は大人びているけど、こいつ見た目相応に子供だな。
男の子は器用に片方の眉だけ上げた。
「君、今私が馬鹿だと思ったろう」
「ば、馬鹿だとは思ってないぞ」
なんだこいつ。人の考えが読めるのか? いや、それはないだろ。
「馬鹿だ、とは、だな」
「う?」
「とは、と言ったということは、似たようなことを考えていたのだろう? うん?」
見破られてるー!
俺はそれでも首を振った。
「まあいい。確かに君からしたら私は奇っ怪な存在なのだろうよ。おそらく。姿形は子供、しかし思考能力は大人のそれと同等かそれ以上。老人並みと言ってもいいかもしれない」
確かに口調は老人みたいだ。少なくとも見た目には似合わないはずだが、あまり違和感を感じない。
何だろう。この感じ。
「それは今どうであってもいいのだ」
いきなり何だこいつ。
「今必要な情報はだね、君。君が何故ここに来たかなのだよ」
「俺が?」
「ふむ。…君、何か探しに来たのではないのかね?」
「探しに?」
何をだ?
「おや、君もまた分からないのかね。となると、この図書館が何なのかも分からない、か」
「まぁ…そうだ、うん」
確かに分からない。分からないことだらけだ。
「つまらないなぁ」
は? またいきなりなんだ。
「ああ気にするな」
気になるよ!
「…君、分かりやすいなぁ。言葉に出してもいないのにこちらに心中まるわかりだぞ」
俺は多分赤くなっていたと思う。何故なら男の子は馬鹿にしたような、だが不思議と何かを納得させるような笑いを俺に向けたからだ。
「そう感情的になるな。君。頭に血を上らせると冷静な判断ができなくなるぞ」
一瞬、やっぱりその物言いに腹がたった。けどこれまたやっぱり、その言葉は俺を冷静にさせた。
「…じゃあ考えないで聞く」
「何だね」
「お前誰?」
そんなに意外な質問だったろうか。男の子は目を丸くした。
「なんとまぁ」
「…何だよ」
「あ、いや、最近同じ質問を受けたのでね。少し驚いたのだ」
誰か聞くのは当たり前だと思うんだけど。俺は内心そう思いながら、男の子の次の言葉を待った。
「私は…」
「ああ! もう、ここにいたんですか!」
「おおぅ」
男の子は悪戯がばれたかのように顔を変えた。
「え?」
声をかけたのはさっきの男の人。
管理人を探しに行ったんじゃ…。
「私が管理人だよ、少年」
「はぁ……はぁ?」
「鈍いなあ。聞こえなかったのかね? わ・た・し・が・か・ん・り・に・ん・だ。単純な言葉を二度も言わせるな」
えぇぇ!? こいつが、管理人!?
「そうだ。何か文句でもあるのかね」
「ちょっと、管理人」
「助手君は少し黙ってくれ」
で、この人が助手だって?
「そうだ」
意外…って、
「何で俺が何も言ってないのに分かるんだ」
「さっきから言っているだろう。君は分かりやすいと。…どうやら君は本来の世界ではあまり認められていないようだな」
俺は絶句した。何も言えなかった。
何で、こんなやつに、分かるんだ。
「君を“検索”にかけてみた」
冷徹な瞳が、俺を固める。
「そうしたら、引っかかったのだ」
俺から目を離し、本棚に寄る。
「君は早く帰ったほうがいい」
何に、と聞く前に、更に言葉が紡がれる。
「もっとも引っかかってはいけないものに引っかかってしまっていたのだから」
一冊の本を取り出す。俺の好きな色、赤色のカバーの、分厚い本。
あの本、どこかで見たことがある。
バララララ…。ページがめくられていく。
「思い出せ、少年。そして…」
ページが止まった。
「奏でろ」
ポーン。
音が、した。
振り向くと、そこには、少し古びたグランドピアノ。
あの色、あの傷、あの雰囲気――。
「俺の…」
俺の、ピアノだ。
なくしたはずの、あの。
俺の足は、自然とそれに向かっていく。魅せられたように。引き寄せられるように。
ずっと、会いたかったんだ。ここに、いたのか。
「アマリリス」
俺の一番好きな曲。何であいつが知っているんだろう。偶然か? いや、たぶん偶然じゃない。あいつは、意図的にこれを選曲した。
粋な奴だぜ。
「大分弾いてないから、多分ガタガタだぞ」
「構わんよ」
男の子は笑った。
「君が弾きたいように、弾けばいいのさ。それが君の音なのだから」
俺もつられて笑った。いいな。いつぶりだろう。自然に笑ったの。
カタン、と音を立てて蓋を開け、ワインカラーの鍵盤カバーを取る。
ドーレミファソラシド! 試しに弾いた音は楽しげに跳ねた。
「よっし。やるか」
アマリリス。単調で単純だけど力がある、俺の大好きな曲。
そうだ。この心の躍動。ずっと忘れていた――。
「上手いではないか」
ふわ、と、風が耳にかかる。少し離れた所にいる二人とは違う、誰かの声が聞こえた気がした。思わず手を止める。
誰の声だ?
ピアノは俺が手を止めても、まだ鳴っている。
アマリリス。
軽やかなスタッカート!
またふわりと風が吹く。
「行け、少年。我々はいつでも、ここにいる」
体が、急に重くなる……。
そんな、俺は……。
ピッ。ピッ。ピッ。ピッ。
ん?どこだここ。
目を開けたそこは、俺の知らない風景。白い天井、白いベッド。それに横になる俺。
カチャカチャと音がした。右を見ると、忙しく点滴の袋を付け替えている看護師がいた。名札の裏にちらりと犬の写真が見えた。
「あの…俺…」
看護師はハッとして俺を見た。な、なんなんだよ? そういえば何で俺、点滴なんか…。
「目が覚めましたね! 良かった。ご家族をお呼びします! あ、この子見ていてあげて」
え、ちょっと…あーあ行っちゃった。
部屋には俺と、他の仕事に忙しくて俺を見ているだけなんてできない他の看護師が残った。
気まずい…あ、ラジオが鳴ってる。どこだろう。
『…では、気にすることはないということですか?』
『うん。そうですね。相手がどう考えようと、自分は自分以外の何者でもないですから。自分に自信をもってください。あ、でも、他人の意見を聞くことも勿論大事ですよ。新たな発見があったりもするので』
『なるほど~。お、そろそろお別れの時間です。今回はゲストに東洋の魔術師の――』
ガラララ!
病室の扉が開いた。その向こうに立っていたのは顔を赤くして息を荒げた――
「母さん」
じわ、と目尻が熱くなり、俺はベッドのシーツと、赤い羽根を握りしめた。
「よかったんですか。あの羽根」
「いいのだ。それより、また君の本は見つからなかったな」
「いいですよ。気長に探しましょう」
「そうだな」
チチチ。チチッ。鳥がまた鳴いた。