二冊目
「どうしてここに来たんだね?」
彼は、聞く。
「君に会いに来たんだよ」
魔術師は、答える。
「ほう。珍しいな。この世界の外で私を知っている者がいるとは」
金髪の少年――管理人は、口元に微笑を浮かべて言った。テーブルを隔てて反対側に座っている壮年の男は、細い腕を組んで同じように笑った。
「そうだろうとも。少なくとも我々東洋の魔術師の中で知っているのは私だけだ」
「教えなかったのかね?」
「信じると思うか?」
「いいや」
「だろうね」
管理人と魔術師は同時に頷いた。
何なんだこの空気。僕には分からない。分からないままに、僕はコップにお茶を注いだ。何となく使ってはいるけれど、僕はこのお茶をよく知らない。彼の行動の見よう見まねで煎れられるようになったぐらいだ。
二人の前に入れ終わったお茶を置く。管理人はふむと言い、魔術師は微笑んだ。
「ありがとう。…君は誰だい?」
いきなり問われて、僕は声が出なかった。
「彼は私の助手だよ」
管理人が代わりに答えた。
「彼は迷い人でね。元の世に戻れなくなってしまっているから、とりあえず私の下で助手をさせているのだよ」
「なるほどね」
なんだか違う気がするんだけど。僕は内心そう思いながら、お茶のポットを静かに洗いだした。
ここは図書館の中にある、カフェのような所。本棚から離れているのもあって、床も天井もずっと広く見える。美しい彫刻が施されている天井は、何か一つの物語を語っているように見えた。
「欧州の小粋なバーみたいだな」
魔術師がぽつんと呟いた。
「いや、レストランか」
「ミラノあたりの?」管理人が口を挟んだ。
「そうだね。ヴェネツィアでもいいかもしれない」
「どちらにしろイタリアか」
「イタリアしかまともに行けてないんだよ」
すうと魔術師は茶を飲んだ。僕には『ミラノ』や『ヴェネツィア』が分からなかったから、何も口に出すことはできなかった。地名ということは何となく分かるのだけれど。…ただ忘れているんだろうか?
「イタリアは統一されてもう何年になる?」
「さぁ。分からないね。忘れてしまったよ。私は年を覚えるのはどうも苦手なんだ」
情けないことにね、と魔術師は言う。その言葉は彼をすごく老けてみせた。
「忙しいと、時間が分からなくなるんだ。若いころは人気になることが夢だったのに、今では昔の平和と自由が恋しいなんてね…」
「だから休息を求めてきたのだな」
「そうとも言う」
また茶に口をつける。管理人がいつものように、目を細めた。
「魔術師、イタリア、自由…」
「ケンサク、かい?」
「いいや。…なんとなくだ」
「っくしゅん」
二人が同時に僕を見て、ふきんでポットを拭いていた僕は思わず赤面した。そうですよ。くしゃみをしたのは僕ですよ。
「そういえば、君は魔術を見たことがあるかい?」
唐突に、魔術師は言った。
「僕ですか?」
「そう」
「いいえ。というか、魔術が何かもよく分かってません」
「そうかい。…魔術は時にマジックとも言う。いわゆる手品だよ。だけど私の魔術は手品とは違う。本当は誰にでもできりことをやってみせるだけ。タネなんてない」
男はカップを置き、両手を何かをすくうように合わせた。
ぽんっ。
「綺麗になってる」
「え…あ!?」
僕が手に持っていたはずのポットが、魔術師の手の中に現れていた。
「さすが君の助手だね。管理人さん」
「ふむ。あたりまえだ」
そうかい、と男が言う。そして、右手の指をパチンと鳴らすと、またいつの間にかポットは僕の手の中に移動していた。
「え? あれ?…どう…なって?」
「私の力だ。まぁこれを珍しがって、人々は喜ぶんだよ。けどさっきも言ったように、これは本当に誰にでもできるはずのことなんだ。人々は《できない》んじゃない。やり方を《忘れている》んだよ」
魔術師は指を組んだ。とても細い、疲れたような手。血色の薄い、白いそれは、何を掴んでいたのだろうか。
「神は人間を、神自身に似せて造った。神話では見た目や考え方だけ似せているように書いているけれども、真実は違う。能力さえも同じようにして造っていたんだ。しかし罪を犯したことで、人間は神と同じであった能力のほとんどを奪われた。いや、奪われたではなくて、使う方法を忘れさせられたんだったか」
僕はポットを棚にしまった。
「忘れさせられたということは…」
「そう。思い出すことができれば、誰にでも神の力は使える。…私は物質移動しか思い出せはしなかったけどね」
「それでも充分すごい話ですよ」
「そうかなぁ」
男は頭をかいた。照れ隠しと言うよりも、ただ頭がかゆかったから、かいたようだった。
「私は君の方がすごいと思うよ」
「…僕ですか」
「うん。私は君ほどうまくお茶を煎れられないと思う」
「…僕がお茶をいれることとあなたが物を瞬間移動させることだったら、あなたの方がすごいと思いますけど」
「そうかなぁ」
男はまた言った。目を閉じ、黙っていた管理人は目を開けて、ふうと息をついた。
「これもまた価値観の違いだよ、助手君」
「そうですか」
僕の頭の中は本当に訳が分からなくなった。だがすぐに、妙に納得した。
僕が手を上げられるように、彼は物を動かせる。ただそれだけのことだったんだ。彼にとっては、むしろ何故それが凄いのか、もう分からないのだ。
「でもまぁ、彼の方が煎れるのは上手いですよ」
僕が管理人を指差して男に言うと、男は笑った。
「そうかい」
「褒めても何も出んぞ」
「なっ!? そんなこと考えてたんじゃないですよ!」
僕がぷくりと頬を膨らませると、魔術師は更に笑った。一通り笑うと、男は急に静かになって、静かに溜め息をついた。
「繋がりとは、美しいものだね」
管理人の眉がぴくりと動いたのを、僕は見逃さなかった。男はまた指を組んで、先程まで笑っていたはずの顔を曇らせ、哀しげに、ぽつりぽつりと言葉を発した。
「私は、何故ここに来たのだろうか。いや、そうだよ? 私は自分で『君に会いに来た』と言ったよ。だけどね、今にしてみると、それはただの言い訳に思えてきたんだ」
「……」管理人は口を開きかけたが、すぐ閉じた。
「本当は自分で分かっているんだ。私はやはり探しに来たんだ。何を探しているのか、何が足りないのか、それを探しに」
「……そうか」
納得した風でもなく、かといって腑に落ちないわけでもないように管理人は言った。
魔術師は小さく、うんと言って、咳をした。
「失礼」
「構わんよ」
「ん…何だか、最近咳が多くなってきたんだ。調子が悪いんだろうかな」
「半分正しいが、半分間違っているよ、魔術師。君が世界に合わなくなってきたことに体が反応しているのだ。世界もまた然り。君だけの問題ではない」
「そうなんだ?」
「うむ。…あたりまえのことだ。君達は世界の秩序を乱してきた。だがこれは誰にも避けられないことだった。君達のような意識達というものは、常に己の利を少なからず考え、そして飽くなき欲を持て余しているものだからな。創造による破壊が急激に行われ、崩壊は既に始まっている」
管理人はくしゃ、と何かを壊すように手を合わせた。
「対策はしているらしいが、あまり意味を成してはいない。それはそうだ。悠久の時の中繋がれてきた星々の自然のサイクルと人為的な変化がちょうど同じ時期に起こっているのだから。だが…破壊のあとには、創造、再生、復活といったものが必然的に生じる。少なくとも自然は星々のサイクルの通り、すぐに方向を変えるだろう。世界と君達のずれはいつかは無くなる」
「いつか…? 分からないのか」
「ああ。分からないな。これは君達の行いが強く影響してくる」
「私達の行いが? 変わらないのではないのか」
「それがそうとも言えんのだよ」
管理人はすっかり冷めただろう茶を飲んだ。いつの間にか緊迫していた空気が緩む。
魔術師は、ふいに、はっとひらめいたように、目を見開いた。
「そうか」
「分かったかね」
「ああ。…要するに、私達が善ければ早く、悪ければ遅くなるんだろう」
「その通り」
意を得たりと男は笑う。僕にはやはり意味は分からなかったけど、彼が元気になったようだから、良かった…のだろうか。
男は笑ったまま、立ち上がった。
「もう行くのかね」
管理人が問うと、相手は黙って頷いた。そして、頭をかいた。
「随分と早いなぁ」
「仕方ないさ。仕事は結構詰まってるんだ。…あと、見つけたんだよ。私が現世に生きる意味を」
「そうか」
少年席を立ち、男に向かい合った。身長といい、雰囲気といい、まるで親子。
彼は男に右手を差し出した。
「…君の世界では、挨拶で握手するのだろう?」
「そうだね」
「一つだけ言っておく。魔術師。これだけは決して忘れてはならん…」
細い手を、小さな手は握った。
「笑え」
魔術師は一瞬戸惑ったように無表情になると、すぐに軽く吹き出して笑った。
「もっと難しいことを言うのかと思った」
「世の中は意外と単純なものなのだよ」
「…そうだね」
じゃあ、と言うと、にわかに男は光に包まれ始めた。
「あ、言い忘れていた」
「何だ」
「――」
何と言ったのか僕には分からなかったけど、確かに少年の目が驚愕で見開かれた。
そして魔術師は、笑ったまま、消えた。
管理人は固まったまま動かない。
「…どうかしたんですか?」
少年はびくりとした。
「い、や? 何でもない。少し驚いただけだ。そうだ驚いただけだ」
「…明らかにすごく驚いてますよ」
「な、何だと」
「挙動不審なんですよ」
「ぬ、ぬぬぬ…」
「で、何を言っていたんです?」
管理人は魔術師とそっくりに一瞬無表情になり、笑う変わりに怪訝そうに眉をひそめた。
「聞こえなかった?」
「ええまぁ」
「ふうん。私にしか聞けなかったのか」
「だから何がですか」
ニヤリと、少年は笑った。
「内緒だよ」