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一冊目

「君はどうして、ここに来たのだね?」


 彼は、聞く。


「分からないわ」


 看護士は、答える。





「でも、何もかも分からないって訳じゃない」

「ほう?」


 管理人はいつも通りの仕草で、椅子に座って足を組んだ。

 彼の目の前に座っているのは、小綺麗な服装に身を包んだ女性。おそらく、僕より何歳か上なんだろう。年はお互いに分からないけど、僕とは違って、彼女からは大人の落ち着きが見えた。


 だが何故だろう。彼女は、目の前にいる少年を、ちっとも不思議に思っていないようなのだ。


「何が分かるのかね?」

「私は看護士なの。地方の病院の。さっきまでは、病院の中で事務仕事していたんだけど…いつの間にかここに来ていたの」

「ほう」


 管理人は、何か合わなかったのか、組んでいた足を逆にした。

 チチチ、と窓の外で鳥が鳴いた。雀のような声だったが、窓の外にいたのは見たこともない綺麗な鳥だった。


「看護師、地方病院、事務仕事」

「…何を言っているの?」

「君の世界でいう、検索」

「検索?」

「うむ。…助手君、君の右側にある棚の、下から四番目の段の、左から二番目の本を取りたまえ」


 突然言ったので僕が聞き返すと、少年は何も思っていないかのように、淡々と繰り返した。


「君の右側の棚の」

「うん」僕は右を向いた。

「下から四番目の段の」

「うん」目が下から上がっていく。

「左から二番目」

「この白いのですか?」

「うむ」


 彼は頷いて、こっちへ持って来いと手招きした。

 僕が持って行くと、彼は受け取っておもむろに表紙を開いた。


「君」

「何です?」

「いや、違う看護士だ」


 僕は赤面した。


「何? その本」

「この本は君と少なからず繋がっているはずだ。だから君ならばここに書かれているものが分かるはず」


 看護師は首を傾げた。可愛らしい傾げ方だった。

 管理人は一瞬何もない表紙に目を落とし、そしてまた看護士を見た。


「君は、犬を飼っていたかね?」

「ええ。……数年前までね。どうして知っているの?」

「犬が教えてくれたのだ。……コウタ」


 スウと管理人が表紙を撫でる。


 僕は目を見張った。

 何もなかったはずのページに、犬の絵が浮き出ていた。今にも動き出しそうなほど精巧な犬の絵が。

 看護師も驚いたようだった。

 管理人はなお、言葉を紡ぐ。


「彼は幸せだった」


 ページの淵に手をかける。


「だが一つ気がかりだった」


 パラパラとめくっていく。


「最愛のひとは幸せだったのか」



 ワン、と声が聞こえた。



「コウタ」


 看護師は思わず管理人の持つ本に手を伸ばした。


「コウタ」


 本は、吸い込まれるように看護師の手に収まった。

 そのページは、白紙。

 だが、彼女は名を呼び続けた。


「コウタ、コウタ」


 はらりはらり。ページはひとりでにめくられていく。


『僕は幸せだったよ』


『すごく、すっごく、幸せだったよ』


『だから泣かないで』


『僕は、ずっと、一緒にいるから』


「コウタ…!」





 本が光って、僕達を照らした。

 明るいのに眩しくない、優しい光。

 次にまばたきをしたとき、既に看護士はいなくなっていた。光もいつの間にか消えていた。


「君」


 管理人は静かに言った。


「彼女は無事に生きているようだ」

「え? それって…死にかかってた…とか言います?」

「いや。そこまでじゃない」


 管理人は本を目線の高さまで持ち上げた。

 あれ?


「いつの間に本を?」

「さっきだ。看護士はもとの世界に戻ったからな」

「現?」

「君は本当に質問が好きだな」

「仕方ないですよ分からないんだから」


 僕がムッと眉間にしわを寄せると、管理人は無表情でフンと鼻を鳴らした。


「なるほど一理あるな。…簡単に言うと、このに来るには主に二つの方法がある。一つは、生きている者が夢を見ること。もう一つは…」

「死んだ者?」

「うむ。なんだ、分かっているではないか」

「生きることと反対の言葉を考えただけですよ。当たるとも思っていませんでした」


 管理人はまたうむと言った。


「まぁそういうことだ。彼女はただ過労のせいで事務仕事中に居眠りしてしまったらしいな。よくあることだ」

「そうなんですか」

「彼女のいる世界は忙しすぎる。過去、現在、未来。記憶と記録、社会……。自らが生きる時間がどれほど長く、どれほど短いかさえも分かってしまうそんな世の中だ。ここの安息を求めてくる、生ける意識が多くなってしまったのも無理はない。あの世界からの訪問者は死者が多かったのだがな」


 チチチ、チチチ。また鳥が鳴く。淡い日差しが図書館の中を照らしている。管理人の睫毛が一瞬、悲しみを帯びたかのように光った。


「彼女が生きている世界では、彼女の世界で六十年ほど前にまず一つ、歪みが生じている」

「歪み…ですか」

「世界大戦と、彼らは呼んでいる」


 世界大戦。僕はその言葉に何かひっかかるものを感じた気がした。懐かしいとかではない。何か恐ろしいもの。

 少し、管理人は僕を黙って見つめたが、話を続けた。


「世界大戦によって、何万、何十万という単位で意識達は器を強制的に分離させられた。簡単に言えば殺されたのだ。知らない者の手によって」

「第三者ですか」

「うむ。何故死ななければならない。我々は何も悪事を犯した訳でもないのに。家族はどうした。国はどうした。…そんな思いを持つ者が多かったのだろう。ここには前いた世界に未練を残す者が来る。その当時はここが彷徨う意識達で溢れかえっていた程だ」

「それは……すごいですね」


 この図書館が意識達で溢れかえるなど。今の図書館の様子からはまったく想像がつかない。

 うむ。と管理人が口癖のように言う。いや、本当に口癖なのかも知れない。まだ僕には分からないけれど。


「…君の本に関する手がかりは無かったな」


 いきなり、彼はポツンと言った。僕は半ば諦めたような溜め息をついた。


「いいですよ。そんなすぐに見つかるとは思ってませんから。それに…」

「…なんだね?」

「それに、ここは居心地がいいですから」

「……」


 少年はキョトンとした顔をしたが、すぐに、ははっと笑った。


「君は変わっているな」

「そ、そうですかね。僕は普通だと思うんですが」

「ん? どういう根拠、事例があって普通と言うのだね?」


ため息を漏らし、言葉が紡がれる。


「よく普通、普通と言うが、私にはそれが逃げるための言葉にしか聞こえない。分かるように説明するために使うことはよしとしよう。……”普通”というものは本来存在しないのだ。何故ならば”普通”というのは個人の見解における基準値だからな」

「よく分からないんですけど」

「……つまりだな。個人個人で”普通”は違うというわけなのだよ。そして”普通”は、他人を測ることはできても、自身を測ることはできない。どうしても自分に甘くなるか、厳しくなるかしてしまうからだ」


 彼は言って、椅子から立ち上がり、ゆっくりと僕の横を過ぎて本棚の方へ向かった。白い犬の本を置いたまま。

 何をするのだろう?


「経済における世界基準値を遥かに下回る所と、遥かに上回る所」


 すぅ、と管理人は二冊の本を取り出した。どちらも薄い本だ。同じ灰色の本。


「どちらに住む者も、元は同じ感覚をもった者達の筈だ。眠い、痛い、暑い、寒い…。だが、次第に受けた影響によって、思想や価値観は変わってくる。ここに、”普通”という概念が個々に生まれてくる。まだ分かりにくいかもしれんから、さらに簡単にしてみることにしよう」


 彼が一冊を開く。中身は先程開いた本とおなじ白紙だった。

 ……いや、違う。


「分かるかね。助手君。この中身が」


 これは白紙ではない。中身が無いのではない。


「真っ白、ですね」

「その通り。白だ。ここで基準値が設定される。白。これが、この本が色という世間を見る時の”普通”となる。ここに黒い点が現れたらどう思う?」


 点?

 僕が考えると同時に、変化が起きた。

 ぽつん、ぽつん……。

 黒い点。大きな、小さな。丸。丸。丸。


「変わった……」

「そう。変わった。白が基準であるため、黒を奇っ怪に感じる。だがもしもうひとつの本が、全部黒だとどうなるか」


 管理人はもう一冊を開いた。

 真っ黒だ。暗黒と言えるほどに黒い。


「これには、白い点を現してみよう」


 ぽつん、ぽつん……。

 白い点が、黒い点と同じように現れる。


「変わった……あ」


 そうか。


「うむ」


 一冊は白に黒点。一冊は黒に白点。二色しかないはずなのに、一方には黒が異色に、一方には白が異色に見える。本当に、二色しかないのに。


「これが一概に”普通”と言えない理由だよ」


 管理人は両手に持っていた本を同時に閉じた。


「”普通”は人によって、世界によって異なる。双方がまったく同じものを見ることができたり、感じたりすることができても、それから受ける印象というものは人それぞれ。だから本当の”普通”などいないのだ。もし仮に”普通”があるとしたら、それは実質的にはすべてを超越した存在となる。なぜならそれは、誰にも、何にも気づかれないままに”普通”を演じていることになる」


 ストンと本を本棚に収める。

 ふと、僕は気づいた。

 背表紙が灰色だ。二冊とも。

 見分けられるようになっている。


「あの」

「なんだね」

「僕は普通と言いましたが、あなたは変わっていると言いましたね」

「そうだが」


「それは、何の基準からして僕を変わっていると言ったのですか?」


 管理人の方を向く。

 彼の赤い目は、試すように僕を真っ直ぐ見た。


「なんだろうね?」

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