はじまりの本
「君はどうして、ここに来たのだね?」
彼は、聞く。
「分かりません」
僕は、答える。
溜め息には体の中に溜まった悪いものが混じっている、とどこかで聞いたことがある。僕は悪いものを吐き出しながら、ただぼうっと棚を眺めながら、目の前を歩く彼の後ろをついて行った。
周りには、他に誰もいない。ただただ、本棚が陳列している。棚は壁のようにそびえ立ちながら、無意味に圧力を与えずに、僕の不安を吸い取ってくれているような気がした。
「面白いとは思わんかね。生とかいうものは。…意識は不完全な器に入り込み、繋がりを求めてさまよう」
彼は振り返り、呪文を唱えるかのように僕に言った。僕はまったくもって意味が分からなかったから、ただ首を傾げた。
「分からなくても構わん。実を言えば、私にも分からんのだ。何故意識達がわざわざ、この世界から、いつ崩れるか知れない世界に渡り、器の中で生き、器の死によって戻ってくるのか。…実に不可思議だ」
立ち止まり、彼は本棚から一冊の本を取り出し、表紙を眺めた。一定の距離を保って歩いていたため少し離れた所にいる僕には、何が書いてあるのか、それとも書いていないのかさっばり分からなかった。
しばらく眺めた後、彼は何かを納得したように頷き、本を元の場所に戻した。
「貴方は何をしているんです?」
彼はちょっと黙った。
僕がもう一度聞こうとすると、口を開いた。
「君がここに来た訳を探している」
「この本棚のどこかに、僕のことを書いている本があるのですか?」
「そのはずだ」
「まさか」
僕はただの、一人の人間にすぎない。本になるような偉大な事をした覚えもないし、凶悪な罪を背負った覚えもない。日記を書いていた覚えもない。
「いや、ある」
ぽん、と彼は本棚を軽く叩いた。
「何故ならここは君が思っているような所ではないからな。ここにはあらゆる世界、あらゆる次元において意識が構成した、あるいは意識が紡いだ物語が収められている」
よく考えて彼の話を聞こうとしたが、やはり僕にはまったく分からない。
彼はそんな僕の心中を察したのか、それ以上説明を込み入らせはしなかった。
「とりあえずだな。この図書館のどこかに、君に関する本が絶対にあるはずだ。…深くは考えるな」
「はぁ」
「分からなくていい」
彼は呟くように言った。
彼と僕 ―― というより彼 ―― はしばらく本を棚から抜き取り、眺め、しまうことを繰り返していた。その間も相変わらず、本棚は優しく僕を見ている気がした。
時間にすれば三十分は経っているように感じるのに、不思議と、退屈だとは感じない。
「ふむ…」
何十冊目かの本をしまったあと、彼は苦悶の鼻息を吐いた。眉間にはしわが寄っている。
「何故だ…?」
「どうか…したんですか?」
彼は答えない。
変わりに一冊の本を取り出し、僕の前に表紙を向けた。
何も書いていない。あるのは、錆びたような茶色の、表紙。
「なんですかこれ」
彼はずり落ちた眼鏡を押し上げた。
「これはある一つの意識の記憶だ。意識が紡いだ、人生という名の記憶。先に言ったように、ここにはあらゆる世界の物語が存在する」
彼は本を僕の目の前から離し、埃を払うように表紙を撫でた。実際には本棚に上下ぴったり入っていたので、埃の積もりようがないのだが。
「今、私達の周りには君の事が少しでも書いてある本が並んでいる、そのはずなのだがな」
「え、ちょ、待って下さい」
「何だね」
「ここにある本が…?」
「そうだ。君は気付いていないだろうが、君が私の後をついて来ている間に、棚の中の本が入れ替わり、私達に必要な本だけが並んでいたのだよ。そうだな…ある世界の言葉で言えば、検索、とでも言おうか」
カタン、と音を立てて、本は彼の手によって本棚に戻っていった。すっぽりと収まった本は、一度まばたきした瞬間に、どこにあったか分からなくなっていた。
彼はまた黙って、本棚を眺めている。
僕より幾分か背の低い彼は、僕には見えない何かを見ているように、同じに見える本の背表紙をゆっくりと、眺めている。
再びしばらくして、また彼は口を開いた。
「だが、無いのだ」
「は?」
訳が分からない。何があったのか。無かったのか。
「君の本が無い」
「はぁ…。まぁ、そりゃあそうなんじゃないですか?」
言って、僕は息を呑んだ。
彼がこちらの方を勢い良く向いたのだ。
「いや、ありえん」
彼は頑として首を振った。
「ここに君に関する本がないということは、君は今まで存在していないし、今も、存在していないということになる」
「は?」
僕にはまったく分からない。
存在していない? ならここにいる僕は何だっていうんだ?
「不可思議だ」
彼は呟いた。言葉は、先程言った不可思議とは別の響きを帯びていた。
辺りが、しいんと静まり返る。
僕はいたたまれなくなって、彼に聞いた。
「そんなに、ここに本が無いことが重要なんですか?」
「うむ」
彼は癖のある金髪を指でいじった。どこかの民族衣装のような服装は、その動作に驚くほど合っている。
「ううむ」
また彼はうなる。僕もつられてううむとうなりかけたが、すんでのところで止めた。他人の真似をするのは好きではないのだ。今思い出したことだが。
「実に不可思議。不明瞭。君はここで確かに存在する。なのに本が存在しない」
彼はまたううむとうなり、彼はコツコツと靴の音を響かせながら、ぐるぐるとその場を回った。
何回か回った後、彼は止まって、僕を見上げた。
「そうだ君、君は記憶があるかね?ここに来るまでに何をしていたか、どこにいたか」
「そりゃあ…」
僕は肯定しようとして、できなかった。
何をしていた?
何を思っていた?
何を知っていた?
僕は、何だ?
「君?」
彼の声で、僕は我に帰った。
彼の声は、僕の心に響いた。
同時に、怖くなった。
「あなたは、誰ですか」
彼は驚いたのだろうか。綺麗な赤い瞳が、きらりと光った。
「…誰だと思う?」
「え…」
「記憶を無くした者よ。本を見失った者よ。…私は誰だと思う?」
彼は囁くように問う。
ゆっくりと。
「私は、誰だと思う?」
「あなたは…」
誰だったか?
彼は小さく溜め息をついた。
「いい。からかうのもこのあたりにしよう。…私は誰でもあり、誰でもない」
彼は溜め息混じりに言った。
「誰でもあるし…誰でもない」
「そう。…私は無であり、私は全てでもある、ということだ。だが、そんなことを君に論じた所で、理解はし難いだろう。…ふむ」
また彼は本を一冊、取り出した。
先程とは全く違う、真っ白な本を。
彼はそれを僕の方に向けて開いた。
何も書いてはいなかった。
「君には見えないだろう。ここに書かれている筈の文字が。だが私には見える。それは私が全てである証拠」
「なら、僕の事も分かるんじゃ…」
「だから問題なのだ。私は君が分からない。何故なら本が無いからな」
パタン、と本を閉じる。若干起きた風が、僕の前髪を揺らした。
「本がそんなに重要なんですね」
「うむ」
また、カタンと音をたて、本は本棚に吸い込まれるように戻っていった。
静寂が、訪れた。
鳥の鳴き声も聞こえない静寂。
「そうだ」
突然声を張り上げられ、僕は飛び上がりそうになった。
「な、何です」
「君、私の助手をやらないかね」
「は?」
「だから、助手だよ。助手」
彼は無邪気な声で言った。
「君は記憶を失い、本を失っている。だが、君は存在している。つまり君と本が繋がっていないだけで、本は確かに存在している筈だ」
「はい」
「そして君は道を探している。何故ここにいるのか、何処へ行きたいのか、はたまた行くべきなのか」
「はい」
「これで私の助手になる条件は整った」
「…はい?」
全く分からない。彼が考えていることは突飛すぎるのだ。
彼は察したようだが、わざと語気に抑揚をつけた。
「まったく分からないようだな、君。本を探す手助けをしても構わんと言っているのだ。それは結果として私の手助けもすることになる。私も君の本について興味があるからな。そう言いたかったのだよ」
「ああ…なるほど…って」
助けてくれる?
彼が僕を?
助ける?
僕が彼を?
「どうする? このままさまようか、留まって道を探すか?」
彼は極端に無表情になり、僕に問う。
僕は迷った。
僕は彼を知らなさすぎる。
さっきまでは彼が言っている事は素直に受け止めていたが、今更全て嘘だと言われても、何も驚かないだろう。
むしろ、嘘と言われた方が納得する。
ここにある本の中に、僕のことを書いた本が存在するなんて。
彼の言葉で言うなら、不可思議だ。
だが、僕は留まるだろう。さまようのが恐ろしいわけじゃない。
今の僕にここ以外の場所は無い気がするから。
「探します。道を」
彼は、うむと頷いた。
まるで、最初から分かっていたかのように。
彼はにっこりと笑った。
「では、よろしくな。助手君」
「はい。えと…」
「ああ、申し遅れたか」
彼は、金髪を揺らし。
眼鏡を外し。
赤い瞳で、僕を見。
そして、少年の声で、言った。
「私は、“管理人”だよ」