強くてニューゲーム
蒸し暑さに目が覚める。都会の夏にはいつになっても慣れない。枕元の携帯電話を手に取ると、時刻は十時半を回っていた。
久しぶりに、よく寝た。
率直な感想だった。久しぶりの丸一日の休暇である。
まだ寝ていたい気もするが、せっかくの休みを寝てつぶしてしまうのはもったいないと思い、薄い毛布を蹴飛ばしてむっくりと体を起こした。汗をかいていたらしい、Tシャツが湿っていて気持ち悪い。
田舎の公園で、木陰から木陰へと走りまわった子ども時代が懐かしい。
脱いだTシャツを洗濯機に放り込みながら、気がつくとため息をついていた。
○
どうも、俺は基本的に考えが浅いらしい。というか、自分のことでさえも面倒くさいことがままあるのだ。
大学まではそれなりに勉強をしてそれなりの学校に進んでいけば問題はなかった。なにも考えなくとも、誰にもなにも言われなかった。それが楽で、心地よかった。指示されたことをうまく出来ればよかった。
ところが、社会に出るにあたって就職活動をしてみればどうだろう。「ここに行けば安泰ですよ」と旗を振って案内してくれる先生はいない。就職活動を支援すると言い張る連中にしても、結局金が絡んでいる。信用ができない。説明会の担当なんて尚更だ。企業側の人間ではないか、いいことしか言わないに決まっている。
仕方なく必死に集めた情報をもとに色々な企業を受けて、やっと内定をもらって一息。ああ、これでまた何も考えなくても生きていける。
そんなわけはなかった。
休暇、手当、給与、いろいろと確認したつもりではあったけれど、会社に入ってみれば「聞いていた話と違うじゃないか」と怒鳴りたくなるような出来事の連続だ。残業手当なんて出ない。土日に呼び出されることだってままあるし、給与からは何に使われているのかわからない費用が天引きされている。労働組合なんて名前だけだ。上司たちから聞かされる会社の愚痴はだんだんと脅し文句になっていく。
社会に出てみてわかったことは、世の中「いかにうまいことやるか」ということらしい。言い方ひとつ。やり方一つ。嘘のつき方、つきどころ。思っていたよりも、世界は生臭い。
○
考え事をしながら行く当てもなくふらふらしていたら、気持ちよさそうな木陰を見つけた。近所にこんな公園、あったっけ。見れば遊具らしい遊具もない、ほとんど空き地のような公園だ。
安全性がどう、とかかな。嫌な時代になったもんだ。
自分が子どもの頃を思い出しながら、木陰のベンチに腰掛けた。幸いほかに人はいないようで、成人男性が一人でいても気楽なものだった。
ジーンズの尻ポケットに財布をつっこんで手ぶらで出てきた手前、することはない。だからといって公園のベンチでスマートフォンをいじるのも憚られる。さっきは遊具もなくなる嫌な時代とか言っておきながら、外でゲームをするというのはいかにも矛盾している気がする。
いっそここで昼寝でもした方がまだマシじゃないか。それこそ子どもの頃を思い出して……。あの頃には戻れないけど、夢で見れたらいいなあ、なんて思いながら……。
横たわって、木陰越しに空を見上げたのなんて、何年ぶりだろう。
ゆったりと雲が流れる。天気がいい。さわさわと音を立てて木々の枝葉が揺れている。気分がいい。風も心地よい。そうだな、やっぱりひと眠りしてしまおうか。いいじゃないか、たまには人目を気にせず……。
目を閉じかけたそのとき、視界の端になにかを捉えた。
その方向に目をやるが、なにもない。部屋で羽虫を見かけた時のような気分だ。たしかに何かがいたのだが。見失ったのだろう。まあ、外なら虫くらいいてもおかしくない。
もう近くにはいないのか、周りにはそれらしきものは何も見当たらない。気にする必要もないだろう。
ところが、目を閉じてもなにかが近くにいる気配が拭えない。落ち着かない。このままでは眠るどころではない。気にしないよう心がけるほど、静かだった精神の水面に波風が立つ。
もういい、やっぱりどこか他に行こう。
舌打ちをしながら目をあけた。
真っ黒な瞳と目が合った。
○
「失礼な奴だな。人の顔をみるなりベンチから落ちて、這って逃げるだなんて」
ソレは、そう言った。
「なんだなんだ、腰が抜けているのか。地べたにへたりこんでこっちを見て」
ソレは、笑っているようだった。
まるでピカソの絵を実体化したような顔だ。半分の月のような頭部をしている。顔が、正面から見て中央の部分で、縦に、直角に折れているのだ。正面から向き合うと、顔の右半分がこちらから見えない。異様に大きな目がひとつ、こちらをじぃっと見つめていて、居心地が悪くて仕方がない。鼻は直線的だが鋭さが目につき、大きく開いた口からはジグザグとした歯が見え隠れしている。
「呼吸が荒いな、落ち着きなってば。初めて見る顔だけど新顔か? 菊池あたりから事前に聞いてなかったのか。今度新入りの教育について注意しとくか……。まぁそれはいいとして、ほら、報告、報告」
一歩一歩、ソレは近づいてくる。左右の体つきのバランスがとれておらず、見ていると本能的な嫌悪感が湧いてくる。じりじりと後ずさりをするが、体がいうことを聞かない。
「……来る、な……」
ようやく出た声はかすれていて情けないものだった。立ち上がって走ればいいのに、思考がまとまらず行動に移せない。ギョロギョロと眼を動かすが、出口は見つからない。なんでだ。なんでだ。
「……ひょっとして、もしかして……」
ソレは足を止め、九十度に曲がった顎に手を当てた。
公園の外への出口がない。文字通り、ない。柵の向こうが真っ黒になっている。
見れば、風に揺れていた木々もぴたりと動かなくなっている。空気の動きが感じられない。いつのまにか茹だるような暑ささえも消えている。
どころか、景色から色が消えている。白いキャンバスに、影だけで物を描いたかのようだ。そこに、ソレだけがやけにくっきりと俺の視界に在った。
自分の手や体を見やると、色こそ見て取れないものの、いつも通りの形を保っている。影で描かれているようではないようだった。
「ああー……。その反応からしてもそうか……。迷い込んだのか、一般人が」
そう言ったソレは、俺が瞬きをする間に美しい女性の姿になっていた。
「よし、ちょっと落ち着け。悪かった」
○
変身したソレの話からすると、彼(彼女?)は世の中の人間たちを見ていて、死後の処理の判断をしているという。天国か地獄か……みたいなものだろうか。ということは、こいつは……神様?
自分だけでは地球全体を見ることが難しいので、現地に調査員を派遣して定期的に報告を受けているのだという。今回はこの地域の調査員との報告会をする予定だったのだが、別の会議でいつもの場所が使えないということで、特例でこの公園を隔離し、そこで報告会を開く予定だったのだという。
なんだそれは。調査員だとか、別の会議でいつものところが使えないだとか、信じられるかそんな生々しい話。現実に超常現象の只中にいなければ眉に唾を塗りたくっているところだ。
約束の時間の五分前に公園の隔離作業を始め、終わったところで降りて来てみれば俺がいたという。律儀な神様もいたものだ。そのくせ入り込んだ人間にはうっかり気がつかなかったというのだから困る。神様っていうのはもっとこう、なんでもできるようなイメージだ。
「まぁ、そういうワケで。悪かったね、驚かせて。人払いはしていたんだが、どうも間隙を突くように君が入ってしまったようだ。もちろん、君に責任はないんだが……。はて、調査員が遅れているのか、場所を間違えたのか……。そのうち来るだろうけど、うーん、どうしよう。帰る? よね? ここでの記憶とか消しちゃうけど、問題ないでしょ?」
一刻も早くこんな状況から立ち去りたい。帰りたい。忘れてしまいたい。
一も二もなく頷こうとしたところで、はたと気がついた。
こんな機会は滅多にないのではないか。神様に直接願掛けできるんじゃないか。それこそ、あの頃に戻れる……?
「おや、なんだ、どうした何か思いついたような顔して。怯えが打算に変わってるぞ……。ああ、そうか。そうだなぁ、こっちのミスで迷惑かけたわけだしなあ。ようし、ここはひとつ、サービスしておこうか」
美しい女性の顔をにやりとさせて、ソレはこう続けた。
「なんでも願いごとを一つ、叶えてあげよう」
そのあとに「あ、願い事増やす系はNGだから」と付け加えると、ソレはいつの間にか足元に現れた座り心地の良さそうな椅子に座り、優雅に脚を組んだ。先程までとは打って変わって、見とれるような美しくすらりと長い脚だ。普段なら眺めてしまいそうなシチュエーションだが、不思議と邪な気持ちにはならない。元を知っているからだろうか。
じっと俺を見つめる視線を気にしつつも、俺は必死に頭を働かせた。こんなチャンスはそれこそ千載一遇だ。過去に戻る……そんな願いでいいのか?
今までだって、もしも過去のあの時に戻れたら……。なんて妄想は何度もしてきた。だが、記憶は引き継げるのかどうかだとか、結局得てきた友人や経験もあるから同じ道を選ぶんじゃないか、なんて結論に至ることが多かった。
失わずに、得るような願いの方がいいに決まっている。
漫画の世界みたいな話だけど、例えば不老不死、なんてのはどうだろう。若いままずっと……。
いやいや、そんなのはよほどうまく立ち回らないと無理だろう。だいたい、終わりがないだなんて、考えただけでもぞっとしない。
だったら、これまでの人生で得てきたものは持ったまま、次の人生でそれを活かすような……。
……そうだ、
「記憶を……引き継ぎたいです。ら、来世に」
ソレは、どこからか取りだした紅茶のカップを口から離し、地面から生えてきたテーブルにそれを置くと、視線のみを俺に流した。
「いいよ」
少しの間の後、ソレはそう答えた。
軽いな。そんなもんなのか。神様にとっては、俺の願いもそんな簡単なことなのだろうか。
「なんというか。いいのかね、それで。逆解脱、みたいな言い方でいいのかな。まぁ、もう聞き入れちゃったし、今更やっぱやめたっていうのはナシよ」
俺は黙って頷いた。余計な言葉を発してはいけないような気がした。
「はい了解。今世の記憶を引き継ぎたいっていうことだし、ここでの記憶も含めてのことだよねえ。うーん。でもなぁ、とりあえず今世では一旦忘れてもらって、死後に思い出す形にするよ。このままっていうのは問題あるからね。死後に全部思い出した上で来世に引き継ぐってことでいいかな。いいよね。じゃあそれで」
そうして、ソレがパチンと手を叩いたところで俺は気を失った。
○
それから俺は対して語るべくもないような人生を過ごして、語るべくもないような死に方をした。恐ろしいまでに俺はなんでもないただの凡人だった。
○
「やぁどうもお久しぶり。記憶は全て戻っているようだね。それじゃあ、あの時の願いを叶えよう。その魂にひっついた今の記憶や人格を、来世に引き継がせてあげよう。では、よい人生を」
○
生まれ落ちたその瞬間に理解できた。
たしかにこの魂は俺のものだ。俺と同じものだ。
でも、この肉体は、精神は、この赤ん坊のものだ。
視覚も嗅覚も聴覚も、全て共有している。感情も伝わってくる。突然の、全身を刺すように襲ってくる『感覚』に驚き、怯え、感動している。肺が痛い。空気の冷たさに鼻腔が痙攣している。初めて肌で触れる世界に圧倒されている。
俺も生まれた時に、この感覚を、驚きを経験していたのだろうか。だとしたらなぜ、こんな衝撃を忘れたまま生きていたのだろうか。
俺は、こいつの魂に住む別人格だ。決して表には出てこない、二重人格の、二人目の方だ。魂を共有するもう一人の俺であり、俺はもう一人のこいつなのだ。
きっとこいつも、生まれ落ちたその瞬間に、理解していた。
俺はこいつにとって、口うるさい先輩であり、善行や勉学を勧める天使でもあり、道楽を教える悪魔でもあり、そして友人でもあったと思う。
幸いにも、再び日本人の男として生まれることが出来た。俺は俺の記憶を、経験を、余すところなく活かすことができる。もしかしたら、あの神様の計らいなのかもしれない。
赤子の頃はまるで親のようにひやひやしながら生活を共にしていたが、物心がつくと心の中で対話をすることができるようになった。それまでの、一方的に感情の奔流をぶつけてくるだけの交流から考えれば大きな進歩だった。
俺は言葉を教えた。読み書きを教えた。本能で俺が他人ではないとわかるのだろう。素直にそれらを聞き入れたこいつは、年齢に不相応な知恵を身につけ、周囲に振り撒いた。
両親は天才だ、神童だと持て囃した。祖父母は近所に自慢して回った。末は博士か大臣か、そんな月並みな褒め言葉を耳にすることも多かった。
いいスタートを切った。そう思った。
一心同体のこいつの人生を成功させることは、俺の成功でもあった。二度目の人生だ。人生の成功者になる自信はあった。凡庸な人生とは言え、一度は人としての一生を全うしているのだ。わかっていれば、馬鹿でもうまくやれることなんて世の中たくさんある。初めてだから失敗するだけなのだ。
今の俺は、後悔を取り返せる。後悔を先に立たせることができる。後悔をする前に、避けることができる。
優秀な成績を保ちながらスポーツの得意な子どもになった。周囲の子どもたちからは兄気分として慕われた。俺も気分がよかった。中学生になって性に目覚めたこいつを宥めすかすのは骨が折れたが、下手を打たぬよう言動には気を使わせた。前世で憧れた学生服デートも達成した。
地域で一番の進学校を狙った高校受験は、笑えるほど簡単だった。暗記ものは二人で分担して取り組んだおかげで時間をかけずに済んだ。
高校生活も、それまでと同じようにそつなくこなした。ただ、大学受験だけは真面目に見据えていた。1年生の当初から受験勉強を始めた。参考書があれば俺でも簡単な講師役くらいできる。両親は「塾いらずだ」と感心していた。
どれだけでもいい大学に行けるよう、勉学に割く時間を増やした。目指すは医学部だ。それと並行して、内申点をあげるために様々な活動や委員会にも積極的に参加した。だからといって真面目一辺倒ではうまくない。運動部に入り、それなりの人間関係は保った。全ては人生の成功の為だ。
そして、無事に有名私立大学の医学部に入ることが出来た。両親がそれなりに稼いでいることも幸いした。だが、ここからは、前世にはない体験だ。それこそ、月並みのアドバイスしかできない。俺はもはや親戚のおじさんみたいなものだ。学生の性格や質、言動も俺の経験とは別物だった。
とはいえ、こいつもこれまで生きてきて「コツ」は掴んだのだろう、勉学はうまく続けながら交遊関係を広げ、楽しげなキャンパスライフを送った。俺もその楽しみを共有しながら、さてこれで成功者への切符を手にしたぞ、と高を括っていた。
大学を出た俺たちを待ちうけていたのは、前世で知った社会の生臭さなど比にならない、「医者」という生き物たちの渡世、その裏側だった。数限られた座り心地のいい椅子を求めて、蹴飛ばし合い、貶め合う。本当に患者の身体を、生命を考えている医者などどれほどいるのだろうかと感じる。あんなのは、漫画やドラマの中の世界だけの話なのではないか。時々それらしい人物もいるが、本当に数えるほどだ。そして、彼らは大抵、俺からすれば成功しているとは言い難い人生を送っているようであった。
かくいう俺達にしても、第一目標は人生における成功だ。誰もがうらやむような人生を送りたい、そのためならどんな艱難辛苦も耐えて見せてやる。争いがあるなら、勝ち残ってやる。
だが、誤算だった。生まれてからずっと俺との対話の中で決断を下してきたこいつは、すっかり俺に依存していた。前世である俺は医者の経験などないし、医者の世界の知識もない。共に生きて見ていたが、大学に入って以降はもう俺の役目はほぼ終わったとばかりに放任していた。気がつけば、こいつは自分で物事を判断することに自信を持てなくなっていた。
「ここに行けば安泰ですよ」と旗を振って案内した俺に、こいつは全て委ねていたのだった。
そして、限界はすぐに訪れた。俺の判断だけでうまくいくはずもなかった。俺たちは出世コースから外れた。
「いい学校出てもこれじゃあねえ」
「随分できるコだったようじゃないか、すごいねえ」
「鳴り物入りで入ってきたから期待してたんだけどなあ」
「このくらいの判断もしっかりできないのか?」
こいつは初めて俺を酷く罵倒し、そのまま塞ぎ込んで、そのままその精神は深く深く沈んでいった。
ひとつの失敗で全てが無に帰した。なんとか生活が出来る程度に精神を引っ張り上げはしたが、地方の町医者として生きていかざるを得なくなっていた。
暗く沈んだこいつの心の奥底には、沸々とガスを履きだしながら粘性を帯びて燻ぶる感情が蠢いていた。
「今度こそ」
「もう一度」
「次の人生こそは」
俺も同じ気持ちだった。
これは俺の描く幸せな成功者の人生ではない。
○
「ああ、どうだった、記憶を引き継いでの人生は。私としても初の試みだからなあ、興味深いところではあるんだよ。え、なに? もう一回? うーん、まぁ、いいか。君らの魂に許可を出した願いだったわけだし、同じ魂ではあるわけだから願いを継続しても嘘にはならないよなあ。そういうことなら、もの好きな君たちの前途を祝して。いってらっしゃい」
○
今度も日本男児に生まれた。今度こそは。今度は二つの人格が一人の赤子に寄り添った。
でも、まただめだった。大手企業に就き、役職を得たのに、痴漢に間違われて社会的信用を失った。おかしいだろ。なんでだ。俺達はまともに生きていたじゃないか、それをなぜ、あんな乳臭い子どもに、犯してもいない罪を着せられて、正義漢ぶった野郎どもに手荒く扱われて。衆人からの冷めた視線に晒されながら儀礼的な裁判台に上げられて。刑を受けた後も近所一帯から言いたい放題言われ、蔑まれ。人生を、破滅させられた。
許せない。ふざけるな。今度こそだ。もう一度だ。あんなどうしようもない屑共が地に伏して泣いて媚びるような人生を得てやる。幸福な、成功した人生を、今度こそ。今度こそだ。
次もだめだった。病気だ。若くして寿命を宣告された。なんで俺が。まぁいい、今のうちに次の人生の作戦でも立てておくか。
だめだ。起業して軌道に乗っていた会社が潰れた。だめだ。婚約者が上司と浮気していた。だめだ。就職活動に失敗した。だめだ。受験に落ちた。だめだ。だめだ。だめだ。だめだ。
くそ、何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ何でだ。
何故だ、これだけやり直して、これだけ学んでいるのに、どうして幸せになれない。どうして成功できない。いつもいつもいつも何かが邪魔をする。何かが足を引っ張る。過失だけじゃない、巻き込まれたことも間違われたこともどうしようもない厄介事や災害に巻き込まれて俺は俺たちは毎度毎度毎度……。
ああああああああああああああああ。
くそが。ちくしょうが。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も死んで、生まれて、生きて、生きて、活きて、活かして、逝って逝かせて学んで這いつくばって生きて活きて生んで生まれて逝って逝かせて笑って泣いて啼いて吐いて捨てて捨てられて拾って守って殺して壊して抱いて潰して叫んで黙秘して潜んで顕して稼いで奪って奪われて、
どうして成功できない。
そのうち、もともとの俺との類似点は薄れてきた。日本人じゃないことも増えてきた。女性に生まれることも増えた。金持ちの家に生まれもしたし、捨てられて孤児になったこともあった。やけになってアルコールに塗れて生きたこともあった。何度も生を遂げてはやり直すうちに摩耗した俺はもはや「俺」を認識できなくなった。もはや、ひとつの魂に執念深くこびりつく、「成功」を渇望するの怨念の一部であった。ひとつひとつの人格は、もはや明確な理想形のない「人生の成功」という目的を達さんが為に寄り集まった細胞のようで、ただひたすら擦り切れた声で「次の俺」に向かって指示を出さんがために叫び、罵倒し、怒号とも雄叫びともつかない呻きをあげながら蠢き、一つきりの魂は怨嗟の声に埋め尽くされていた。
今度こそは……もう一度……今度こそは……次こそは……。
○
「ほんとうにもの好きだなあ、こんな魂見たことないなあ。ああもう聞いちゃいないな、はい、はい、もう一回ね。わかりましたよっと。はーあ、こんなに膨れ上がっちゃって。はい、大人しくしててねー」
○
ああ、今度こそ。今度こそ。
今度こそ俺たちは成功するんだ……ひとつのミスもあってはならない。
ああ、生まれる。これで何度めだ。この衝撃も、この感動も、もはや流れ込んでくる感情全てがノイズのようだ……いいから早く落ち着け、五月蠅い。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
ん……なんだ、この生まれは……。これじゃあ成功できないじゃないか。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
だめだこれでは。
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」
もういい、もういい、死ね、死ね。生まれ直せ。
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ……」
大丈夫だ、もう一回、もう一回やり直せばいける……。
物心がついてすぐ、赤子は母の目を盗んでベランダへと這い出た。
その人生で最期に眼にしたのは、駆け寄ってくる母の青ざめた顔だった。
○
「あーあー、いつかやるんじゃあないかと心配してたけど、やっぱり人間そんなもんだよなぁ。というか、今の君たちの魂って、人間って呼んでいいのかな?」
「本当に『今度こそ』を達成する可能性も捨ててなかったんだけど、残念だなぁ。どうする、まだいっとく? って言ってあげたいところだけど、今回は明確なルール違反しちゃってるもんなあ。弁護しようがないなあ、する気もないけど」
「さて、これでようやく君たちのその魂は『死』を迎えるわけだね。まあ、安らかかどうかは保障しかねるけど。だって、その様子じゃあねえ」
「ねえ、君たち、やたら滅多に『幸せになるんだ』、『人生を成功させるんだ』って鼻息荒くしてたけど……。幸せってなんだい。成功ってなんだい。よくわからないけど、それって外に求めるものなのかい。他の人生と比較して得られるものなのかい。相対的な評価結果のことを指すのかい。なぁ教えてくれないか、『人生』って比較できるようなものなのかい。比較して成功かどうか決めるのかい。だとしたらそれを判断するのは誰なんだい」
「リトライが効くのも悪くないと思うけど。君たちが過ごしてきた時間は、本当に『人生』と呼んでいいのかい」
「記憶を引き継いで転生したから『今度はうまくやれる』だとか、死んだと思ったら生き返ったから『今度は間違わない』と必死に生きるとか。言いたいことはわかるけど。それができる奴が、どうしてそれまで真面目に人生してなかったんだろう。過ちから、後悔から学ぶことは生物の強みだけど、じゃあ決定的な過ちを犯すその前に起こした過ちからは、どうして学んでいなかったんだい。そもそも、生まれ変わったからと言って、気持ちを強く正しく持ち続けられるのか甚だ疑問じゃないか。無限に使えるリセットボタンを目の前にして、堕落しないと言い切れるのかい。いつか小さな失敗をして『もうだめだ』『もう一度やり直したい』なんて、諦めや妄執に憑かれて歪むことがないと言い切れるのかい。人間ってそんなに強いものなのかい」
「てめえの一度きりの人生と正面から向き合って真っ当に泣き笑いしなかった奴が、次の人生ではそうならないと思うかい?」
「興味があったけれど。だめだったね。人生なんてよくわからないけれど、本当に振り絞ったら、人間、一度っきりしか全力で生きることなんてできないんじゃないのかな」
「まぁ、愚痴もこれくらいにしておこうか。それじゃあ、死に際しての諸手続きに入ろうか。とりあえず、まずは風呂に入っておいで」
「そうだよ。風呂だよ。魂の穢れを落とすんだよ。その膿んだような人格も記憶も含めてね。ルール違反もあったし、お湯は熱いかもね。垢擦りも強めかもしれないね」
「まあ、すぐ終わるさ。どうせ終わったら覚えてないんだから、なにがあっても無いと同じでしょ。熱かったり痛かったりするかもしれないけど、関係ないよね」
○
「おかえり。思ったよりは早かったね。何度もやり直している人生の回数分、もっと時間かかるかと思ったよ。回数と比べると短いね。ということは、存外、回数が多かっただけで一回一回は薄い人生だったんだろうね」
「どうだった、人生の回数分、穢れを焼かれて記憶を溶かされてひとつひとつの人格を剥ぎ取られてみた気分は。すっきりしたかい。あはは、覚えてないよね」
「ああ、そうだ、勘違いしていたら困るから言っておくけど、さっぱりしたからって天国行きじゃないからね。そもそも君たちの言う天国っていうのも、その実態を勘違いしている気もするのだけれど」
「ああ、それから、勘違いといえば、私のことを神様と思ってたみたいだね。それ、違うからね」
「それじゃあ、ばいばい。いってらっしゃい。今度はうまく実っておいで」
○
「おぎゃあ、おぎゃあ」
「よかった、泣きましたよ。元気な赤ちゃんですよ」
人生に「強くてニューゲーム」を求めるのはとても寂しいことだと、私は思います。
月並みではありますが、人の人生は一度きり。
生まれ持ったその心身は、あなただけのものです。
自分の人生は、誰に評価されるものでもありません。
幸せとはなんぞや、よく悩みますけれど、とある漫画では「幸せっていうのはな、あとで気づくものなんだ」なんて言われていました。子ども向けの作品でしたが、未だに胸に残っているセリフです。
説教くさくなるのも嫌いなので何が書きたかったか端的にまとめますと、
「自分の幸せも成功も含めた全ては自分の人生にしかないんじゃないの」
というようなことです。
『たられば』は、あなたの人生じゃない。妄想は否定しません、私も大好きです。
でも、あなたの人生を本当に味わって、本気で泣き笑いできるのはあなただけでしょう。それを見て笑う人はいません。少なくともどんな人生であれ、私は決して笑いません。きちんと向き合い、真っ当したものであれば、どれだけ凄惨でも滑稽でも歪んでいても私はあなたの人生とあなたを心から尊敬します。笑う奴がいれば私がぶん殴ってあげましょう。
と偉そうに語りましたが、ここまで、自戒を込めた文章です。
人間、とまで括るのは度が過ぎていますが、少なくとも私はそんなに強い人間ではない。
きっとニューゲームなんてできないこの人生を、この人生の中で失敗も後悔もしながら本気で泣いて笑って、最期の最後、「いろいろあったけど幸せだった」と言って死ねたらいいなと思います。