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重要な戦いからは逃げても回り込まれるんですね分かります

 しばらく愛美に導かれて風丘町の中を進んでいると、人手で整備された歩道が途切れ、愛美の家がある白夜山を始めとした山々と、それに見下ろされるように存在する田圃、そしてそこに水を送るための水路などが望める一帯に出た。


「先生、町外れに住んでるんです」


 あぜ道を進みながら、愛美は説明した。先日、はじめの体調を見た医師の名は喜多島忠志。元は都心の中央病院に務めていたが、ゆえあってこの小さな田舎町に越してきた。その田舎町の中でも、人が多く住まう駅周辺ではなく、山間の、町と町をつなぐ山道から少し外れた林の中に医院を構えているのだと。


「なぜ、そんな儲かりそうにないところに?」


「人付き合いが苦手なんだそうです」


「最初に見た時、そう人付き合いが苦手そうな人には見えなかったが……」


「人は見かけによらないものです」


「まったくその通りだな、うん。実にその通りだ」


「……どうして、私を見ながらやたらに力強く頷くんです?」


「いや、愛美のように表裏ともにお淑やかという娘は、少ないもんなぁと思っただけ」


 真に地獄があるのなら、閻魔様に舌を抜かれること確定の所業を行った後、はじめは春の日差しに照らされた周囲の風景を見回す。それは、次に出すべき台詞を、言うべきか言わざるべきか、悩んでいることをごまかすためであったかも知れない。


「あの、それで、愛美」


「はい?」


「……いや、何でもない」


 まさかこの後に及んで、「やはり医院には行きたくない」などとは言えない。言えるはずがない。言ったが最後、吉川愛美の心の中から田中はじめの名前は永遠に除去され、口を聞くどころか目を合わせることすらなくなるだろう。出会ってからまだ四日も経ってはいないが、はじめは愛美のことが分かってきていた。ゆえに確信できる。時折柔性の面をのぞかせることはあるものの、基本的にその性根が剛である少女は、ひとたび交わした約束を違えた者を、笑って許すほど甘くはないであろうことを。


 決して注射が怖いとかいったことではなく、個人的な理由により、喜多島医院に近づくことが嫌なはじめは、しかしそこに向かって進んでいる以上、物理的に近づいていってしまう。はじめが何を言いかけたのか、不審に思い問いただしてくる愛美を言葉巧みにかわしている間に、見たくもない喜多島医院の表札が見えてきた。


「着きましたよ」


「着いてしまった……」


「さあ、中に入りましょう」


 表札の立て掛けられた門扉を開き、引きドアの玄関扉をくぐり、二人は医院の中に入っていく。


「あら、吉川さん。お久しぶりね」


 玄関を入ってからすぐにある受付から、落ち着きのある大人びた女の声が愛美に呼びかける。そこには、目鼻だちが繊細に整った、年の頃二十歳弱といった風体の女性が、受付窓から二人を見つめていた。


「調子はどう?」


「絶好調です」


「そう。最後まで頑張ってね」


「はいっ!」


 それ以上は会話も続けず、愛美は医院の中へと足を運んだ。だが、愛美は一度、足音も激しく受付まで戻らねばならなかった。はじめが、パソコンをいじる受付の美女の横顔を、やや惚けたように見つめていたからである。


「何をしてるんです、はじめさん」


「え!? あ、いや……」


 あからさまな嫉妬に燃える愛美を前に、下手な言い訳は男らしくない。はじめは胸を張って覚悟を決めた。


「男が本能的に求める、美女という自然が生んだ芸術を鑑賞していたんだ」


 男らしくないもって回った言い訳に、思いっきり張り倒され、壁に吹っ飛ぶはじめ。愛美は、喜多島医院にもう少しで壁の修理費を払わねばならなかったほどの勢いだった。


 それから、耳を引っぱられて院内へと進む。ほどなく、求める姿は見つかった。


「やあ、愛美ちゃん。さっそく遊びに来てくれたのかい?」


 喜多島は今、診察室にて、ポットから湯を注ぎ、カップラーメンを作っている真っ最中であった。コポコポと音をたてながら、笑顔で二人を出迎えてくれる。


「いえ、残念ながら。今日は、改めてこちらの人を診察していただきたいんです」


 愛美に右手で示されたはじめは、平静を装おうとして失敗している顔で前に進み出た。


「よろしくお願いします」


「……あまりよろしくされたくなさげな顔だね」


 あくまで穏やかに、喜多島は微笑んだ。


「まるでタンスの角に足の小指をぶつけたような顔をしているよ」


「いえ、せいぜい麦茶とコーラとコーヒーを混ぜ合わせたものを飲んだような顔です」


「う~ん、まずさのあまり気絶してしまいそうだ」


 はじめの称した飲み物の味を想像し、喜多島は身震いした。


「さて、診察をしようか。どこが悪いんだって?」


「どこも悪くないです」


 はじめは即答した。


「あ・た・ま・が・わ・る・い・と・言われたいですかっ?」


「もぎゃー」


 金属を万力で押し潰すかのような、はじめの頭蓋骨の軋む音と、カエルが圧し潰れるようなくぐもった悲鳴が、室内に響き渡った。


「う~ん、自前の怪我や病気の前に、愛美ちゃんに殺されそうだな、田中くんは」


「何か言いましたか、先生?」


「さて、診察をしようか。どこが悪いんだって?」


 まるでビデオテープを巻き戻したかのように、同口同音する喜多島医院医院長。


「そうだな……うん、じゃあちゃんと診察してもらうから、愛美は廊下で待っててくれ」


「どうしてですか?」


 さも不思議そうに、愛美は目を丸くした。当然、自分は側にいるつもりであったからだ。「診察は普通、一人で受けるものだ」


「いいですけど……」


 愛美が、驚きから一転、疑いの眼差しではじめを睨む。


「……逃げません?」


「どうやって」


 はじめは診察室を見回す。山の風景をのぞかせる窓以外、はじめが逃げようとしても脱出口はなかった。


「……そうですね……」


 愛美は、ほおに右手を当てて少しの間、思案した。


「天井、とか」


「俺は忍者か何かか?」


「床下、とか」


「床を剥がして、わざわざ穴掘って逃げるのか、俺は?」


「扉や壁の透き間から、霧になってシュー、とか」


「なんだそのシューって」


「まあ、窓から逃げそうになったその時は、わたしが捕まえるから安心していいよ」


 いつまでも続きそうな不毛な会話を、喜多島が止める。


「そうですね……分かりました」


 愛美は、完全に納得した訳ではなさそうな顔をしたが、とりあえずここは喜多島を信用することにした。


「それでは先生、はじめさんをお願いします」


 そう言って、扉から廊下へと姿を消す愛美。後に残ったはじめと喜多島は、しばしのあいだ無言であった。


「さて、先生」


 沈黙を破ったのは、はじめの方からだった。


「事情は聞かず、俺の診察は問題なく終わったということにしてくれないか」


「事情によるね」


 聞いてくれるなということを、喜多島は聞いた。


「私はこれでも、医者のはしくれでね。自分の医院に、診察しに敷居をくぐった者が後で倒れられては困るんだ」


「こんな、町から外れた場所に医院を建ててるのに?」


「こんな場所に建てていればこそ、だよ」


 顔は笑っていたが、目が笑いをおさめる喜多島。


「それがどんなに軽い怪我や病気でも、全力を尽くす。病院側の都合や利益の関係で手を抜いたりはしない。そうでなければ、どうしてこんな場所まで、わざわざ患者さんが足を運んでくれる?」


「……まるで、全力を尽くさない医者を知ってる口調だな」


 そのはじめの発言を聞いた時、喜多島は笑った。好意の笑みではない、侮蔑を含んだ笑みである。はじめが怒らずに済んだのは、それが田中はじめにではなく喜多島忠志本人に向けられたものであることが、理屈に寄らず、何故か分かったからであった。


「……とにかく。診察してもいないのに診察したことにするというのは、わたしの方からすれば手抜き以外のなにものでもない。それを要求するのなら、相応の理由を聞かせてくれねば、承諾しかねるということだよ」


 はじめは無言だった。理は、間違いなく喜多島にある。それを無視して、自分の都合だけ押し付けることはできそうにない。


 はじめは腹を据えて口を開いた――




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