本日稽古、ところにより決闘
風丘町の一角に、歴史を感じさせる黒ずんだ木造の建物があった。そこには普通の住宅にはない門があり、その横には「無音一刀流」なる看板が立て掛けられている。中からは、老若問わぬ者たちの気を張り詰めた声と、竹刀を打ち合う音が轟き渡っており、そこが剣道の道場であることをうかがわせた。
未だ十にも満たない少年、師範代に打ち込みを繰り返す壮年の女性、ただ目前と座し、静かに自分の打ち込みの番を待つ老人――
はじめは道場の脇に正座し、そんな三十人前後の様々な年代の現代の剣士たちを見つめながら、その中の一人、愛美のことを思っていた。
(愛美ちゃん、か……)
本人には聞こえないのをいいことに、心の中では愛称付けで呼ぶはじめ。
思えば、この風丘町の白夜山で行き倒れ、介抱されてから三日。もう初日から身体の調子は戻っていたというのに、はじめは無くしたスポーツバックを見つけるためにこの町にとどまっている。それができるのも、えんもゆかりもない自分を泊めてくれる、奇特な家族があるからこそだった。
それらが全て、吉川愛美の存在によって成り立っているということを、はじめは今この時初めて深く考えていた。愛美がいなければ、行き倒れたままどうなっていたかも知れない。介抱され食事にありつけたのも、無くしたスポーツバックを探すために居候させてもらえるのも、ぜんぶ愛美のお陰だった。
少々(かなり)強引な性格ではあるものの、はじめは裏表のない愛美のそんな性格が嫌いではなかった。行き倒れた見ず知らずの、得たいも知れぬ自分を家まで運び、介抱してくれた相手に、イヤな気分など感じようはずがない。
(一目、惚れ……)
愛美が、はじめに語った想い。はじめの見るところ、愛美という少女は、かなり愛らしい、可憐な容姿をしている思う。そんな美少女から「一目惚れしました」と言われれば、一男性として単純に心は弾む。
(……だけど)
嬉しいのに、しかしはじめは素直に愛美の気持ちを受け入れることができない。心の中に、引っ掛かるものがあるからだ。
どうして、引っ掛かるのか。そのことに思いを巡らせた時、はじめは自分が置かれた状況をいやがおうにも再認識せざるを得なくなり、その心は暗く沈む。
何故、旅をしていているのか。何故、スポーツバックを持っているのか。何故、持ち金が少なくとも自分の家に帰ろうとしないのか。それら様々のことが、はじめに重くのしかかる。
「はじめさん」
そんな、思考の海に沈み、周囲に人がいようとも孤独になっていたはじめに、明るく、どこか照れたような声が、深海を照らす陽光となって注がれ、彼を現実に呼び戻した。
「どうでしたか? 私の稽古姿……」
後ろで両手を組んで首をかしげ、面の中の顔をわずかに朱に染める愛美。それは、今しがた打ち込みをしてきたための、運動による上気なだけではなさそうであった。
「うん、綺麗なフォームだったと思うよ。小さい頃からやってるの?」
そんな愛美に、笑顔で答えるはじめ。自分がどれほどの重圧を持っていようと、それを知られ、愛美の心を患わせたいとは、つゆほども思わなかった。
「はい。父が剣道を嗜んでいたので、その流れで」
綺麗なフォームと称えられ、朱色となった頬はそのままに、愛美も微笑んではじめを見つめた。
「そっか……明彦さんがね」
吉川家にお世話になりだした日の夜と、次の日の朝と夜。そして今日の朝と、合計でまだ四回しか顔を合わせておらず、そしてそう長く話し込んだ訳でもなかったが、はじめは愛美の父、明彦が気に入っていた。
「なに、愛美を泣かしたら叩き斬るだけさ」
自分と愛美の間に間違いがあったらとは考えないのか、と、尋ねて返った答えがそれだった。爽やかに笑顔で、明彦は広間に飾ってあった刀を見ながら言ったものである。そしてこうも付け加えた。
我がままを言うような娘には育てていない、その娘のしたいことが君を泊めたいことだというのであれば、どうして自分がそれを否定するだろう、と……
明彦の、愛美を愛した上での放任に、はじめは素直に羨ましいと思ったものだ。愛する娘の仇となる者を、混じりっ気なしの本気で「叩き斬る」などと言い放てる男が、今の日本に何人いることだろう。
表面は柔和だが、心に宿すものはしなやかで鋭い。まるで、見つめる先にある日本刀そのもののような人物――はじめの、明彦に対して抱いた感想がそれだった。
「いいお父さんだよな」
「はい。自慢の父です」
我がことのように、心から嬉しそうに微笑む愛美。二人の心境が、周囲の喧噪を遠い彼方の出来事にさせようとした時、そこに横槍を入れるように第三者の声が介入してきた。
「昨日はどうも、田中くん」
はじめはわずかに、愛美はあからさまに眉をしかめ、その声を発した主へと視線を向ける。そこには、秀麗な顔にたいへん面白くなさそうな表情を浮かべて二人を見つめ、手に持った竹刀を己の右肩で跳ねさせ、左手に面を抱える柳沢孝治の姿があった。
「さて、素朴な質問だ。何故、道場生でもない君がここにいる?」
「はじめさんは見学です」
問われたはじめ自身ではなく、その隣の愛美が答えた。
「昨日もお話ししたでしょう? スポーツバックのこと。その中身が剣道道具の一式だったから、もしかしたら何か手掛かりが掴めないかということで、私が案内してきたんです」 愛美がはじめの援護をする姿を見て、複雑な表情をする孝治。だが、気を取り直して、孝治ははじめの方を睨んだ。
「まあ、吉川さんがそう言うのなら、別にいいけど。先生の許可は、ちゃんと取ったんだろうね?」
「私がちゃんと言いました!」
愛美が怒鳴る。
「そうやって、ネチネチと回りくどくからむの、やめてください! 昔の孝治は、そんな陰湿な……! って、あ……」
そこまで言って、愛美は気まずそうに顔をしかめた。一瞬口を右手で押さえてうつむくが、すぐにグッと身体を引き締めて、孝治の方を睨む。
「昔の柳沢さんは、そんな陰湿なことはしませんでした」
幾分か声のトーンを落として、愛美は孝治を名ではなく姓で呼び直す。それが、自らに対するけじめとでも言うように。
「僕の方は、孝治で、いいんだけどね……」
寂しそうに、そんな愛美を見つめる孝治。だが、それ以上はその件に触れず、寂しさを拭って敵愾心に溢れる視線ではじめを睨む。
「道場生は、私情による決闘は禁じられている。師範代や先生のいる前で、私闘はできない。今回は、黙ってるよ」
それだけ言うと、孝治は面をかぶり、師範代に打ち込みをするべく道場生の列に並びに戻った。それを見て、愛美も、今は練習中であるということを再確認した。
「済みません、はじめさん。また、打ち込みをしてきます」
「ああ。適当に見物しているから、気にしなくていいよ。目一杯練習してくるといい」
それだけやり取りをすると、愛美もまた打ち込みをしに道場生の列へと歩いていった。
結論から言えば、はじめがこの無音一刀流の道場にきたことで得られたスポーツバックの行方への手掛かりは皆無であった。しかしそれは覚悟していたことで、はじめとしては落ち込むほどのことではない。
だが、無音一刀流の道場にきたことで、奇妙なことになった。はじめは、ただ黙って愛美や孝治をはじめとした道場生の稽古姿を見物していただけだったのだが、そんなはじめの姿を見て、声を掛けた者がいたのだ。
「君ですか? 吉川さんの言っていた見学者というのは」
見れば、そこには威風堂々たる体格を有した、頭髪もひげも深い灰色をした老齢の男が、見下ろすように立っていた。はじめは姿勢を正し、立ち上がって返事をする。
「あ、はい。田中はじめと言います」
はじめは緊張していた。それは、目の前の男に圧倒的な威圧感を感じたからであった。
見た目とは、天地ほども違う。内在する剛性の気迫は、愛美の父・明彦にも勝るものがあった。
「よく来てくれましたね。剣道に興味が?」
「ええ、まあ」
「フム」
老体の男は考え、値踏みするようにはじめを頭の先から足の先まで見つめた。
「どうです、わたしと一本」
「……は?」
思わずはじめは聞き返す。当たり前だった。この道場には一見の自分が、どうしていきなり立ち会いを申し込まれると想像できようか。
「一本、とは?」
はじめとしては、そう聞き返せざるをえない。聞き間違いようのない一言ではあったが、信じ難い言葉であったことは確かであったから。
「わたしと試合をしてみないか、ということですよ。無論」
返ってきた答えは、やはりはじめの思った通りの内容であった。はじめの中の驚きが、当惑へと変わっていく。
「おれ……じゃない、私は、この道場に見学にくるのははじめてです。その私に、いきなり試合をしてみようと言われるのは、どういうことなのでしょうか」
はじめとしては、当然の疑問を返すしかない。
「何となく、ですが。あなたは剣道が同年代の方よりかなり達者とお見受けしたのです。その実力を、少し見せていただければ嬉しいのですが」
顔は重厚感あふれる趣で微笑んでいるが、気迫は有無を言わさぬものがあった。それだけで、物理的に後ろへ吹き飛ばされる思いがする。
断れない。はじめは、そう思った。
だが、それを聞いて沈黙を破った者がいた。
「彼の実力を見るのに、わざわざ先生が手間を掛けることはありません。僕がやります」
そう言って、はじめを睨み男の横に進み出てきたのは、またあの柳沢孝治だった。
この時、はじめは孝治をじっくりと見据えた。切れ長の鋭い瞳、あごがとがりぎみのほっそりとした顔の輪郭、無用に膨張しておらず、なれど引き締まった均整の取れた四肢。
(これだけの美形、そうはいない)
愛美とこの柳沢孝治には、いかなる経歴があったのだろうか。二人の間にいかようなことがあったのか、はじめは少し興味をそそられた。決していい意味でなく、嫉妬にも似た感覚で。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
「田中くんも、それでいいね? もとより、再戦することになっていたんだから」
孝治の容姿と、愛美の恋人への美形願望に思いを馳せていたはじめが、孝治の一言によって現実に戻される。内心あわててはじめは、呼びかけてきた孝治の方に顔を向けた。
そして思わず頷きそうになってから、はじめは「おや」と首を傾げる。
「……再戦、することになっていた?」
おうむ返しに聞くはじめに、孝治は軽く目を見張る。
「昨日の立ち会いのやり直しだよ。メグちゃんから聞いてないのかい?」
無論、何も聞いてはいなかったが、今の孝治の言葉でだいたい察しがついた。
昨日、不意打ちとはいえ孝治に一本取られた自分は、そんな姿を情けないと感じたであろう愛美の手により、自分の預かり知らぬところで勝手に孝治と再戦する約束が取り付けられていたのだろう、と。
「聞いてはいないが、望むところではある。俺の方に異存はない」
「片桐先生、よろしいですか?」
「フム、柳沢くんとなら、彼も相手に不足はないだろう。よろしい、無音一刀流の成果、試してごらんなさい」
「決まりだ」
自らの師に試合の許可をもらった孝治は、竹刀をはじめの方に投げて渡した。確か今、孝治は自身専用の一本しか竹刀を持っていなかったように見えたが、すでにもう一本、はじめに投げたのとは別の竹刀を持って道場の中央へと闊歩している。よほど先日と同じようにどこから出したか聞こうかと思ったが、どうせまた無視されるだろうとはじめは無駄な努力はしなかった。
口に出して聞いたのは、別のことである。
「……それにしても、私闘は禁じられているんじゃなかったのか」
「そうだが? これは私闘じゃないぞ。今、許可をもらったんだから」
「そうじゃない。師匠の前で、昨日俺に襲い掛かったこと、言ってよかったのか」
「……あ」
言われて気づき、首を片桐と呼んだ男の方に捻る孝治。そこには、終始変わらぬ笑みを浮かべる片桐先生がいた。言ってしまったものはしょうがない、と、孝治は気にするのを止めさっさと道場中央へと歩み行く。
はじめも受け取った竹刀を持って、道場の中央へと進む。別に自分から剣道をしたいともできるとも言った訳ではなかったが、愛美の前で敵前逃亡と受け取れる会話はできない。そんなことをすれば、また後で「男らしくない」と言われるであろうし、なにより先日の不意打ちの鬱憤を晴らしたい。それに、はじめ自身も今は愛美をかなり意識し出しており、単純に、愛美の前で良いところを見せたい、という気持ちも確かに存在するのだった。
はじめの中で、以上の理由により、腹をすえて試合に望む。無様な姿は、さらけ出せないし出したくもなかった。竹刀の柄を握る手に力がこもる。
はじめと孝治、二人が道場の中央にたどり着き、向かい合って立つ。防具もつけず、はじめに至っては着の身着のままの姿であったが、この道場の師範代か、ないしは道場主と思われる片桐という男は、それについて何も言おうとしなかった。
互いが竹刀を一旦、鍔の部分を腰につけ、腰から下げるように持つ。そして相手に向かって一礼し、かつて武士が刀を抜くのと同じ要領で、竹刀を、眼前の相手に向けて構える。後ろに二歩引き、しゃがみ、竹刀の切っ先を右に、左に重ね合わす。再び立ち上がり――「はじめっ!」
それを見守っていた片桐が、道場内を震撼させるかと思えるほどの音声で試合開始を告げる。告げられたと同時に、はじめが動いた。
昨日とは違い、お互いが体勢をしっかりと整えた上での純粋な試合。はじめにとって、不利益の方が多いものであるはずだったが、その心は熱くたぎっていた。
純粋に、立ち会いに心踊る。剣の技術と技術のぶつかりあいが、楽しくて仕方がない。
多分、自分も剣士なのだ。目の前の青年、柳沢孝治や、この成り行きで、道場の後ろで自分たちを見守っているであろう道場生たち、そしてその中にいる吉川愛美と同じく。
であるから、自分は剣道具一式の入ったスポーツバックを持っていたのだ、きっと。それは、自分の物ではなかったけれど。
はじめの、孝治の面に向けて放った竹刀が、それを防ごうと孝治の持ち上げたそれと擦れ合い、竹独特の音を鳴らす。孝治の手首がひるがえり、激しく鋭い刺突がはじめの喉を貫こうとする。先日の、突きのお返しとでも言うように。それを、手首と共に胴体もひねって、はじめは寸前でそれを受け流した。再び竹の擦れる音が道場に響き、と同時に二人は軽く後ろに飛びのいて距離を取った。
はじめの身体から、多量の冷や汗が吹き出す。今のをまともに食らっていたら、どうなっていたことか。喉がつぶれ、下手をすれば誇張でなく絶命していたかも知れぬ。
孝治が、手加減どころか寄らば斬ると言わんばかりの本気であることを、はじめは理解せざるを得ない。だが、それではじめの心が恐怖に冷えきったかといえば、そうではない。むしろその逆であった。
(遠慮はいらないという訳か!)
はじめの、闘志という名の心の水源が沸き立った。身体中に熱いものが駆け巡り、敵手たる柳沢孝治以外の何者も見えなくなる。敵手が手加減してこぬ以上、自分の方が手加減するいわれはまったくない。戦いたくて疼いていたその心が、ようやくはけ口を見つけることができた。そんな気持ちが、はじめの偽らざる気持ちだった。
しかしそのような気持ちは、孝治の方も同じだった。
(はじめてだよ、全力の突きをかわされたのは……!)
その顔に、愉悦の表情が浮かぶ。今の一撃で、孝治はケリを付けるつもりだった。田中はじめがただの一撃で敗れる様を見れば、愛美のはじめへの好意は少なからず減退する。そう思い、自分が持てる技量の全てを竹刀の上に乗せて放ったのだ。それを、田中はじめは回避して見せた。剣士としてのプライドが傷つかなかった訳ではない。だがそれ以上に、今までの半生でも出会うことのできなかった雄敵との邂逅に、柳沢孝治もまた、喜びに心踊ったのだった。
二人が同時に、言葉にならない声を張り上げる。激突した竹刀はそれに倍する音を響かせて、たがいに弾き返された。すれちがう両雄の視線が、真剣ではない得物の代わりに激しい火花を散らしつつ、二人は立ち位置を正反対に再び睨み合った。
だが、その睨み合いも長くは続かない。両者が走るような速度で相手に擦り寄ると、たがいの竹刀をかざし、苛烈に打ち合った。
孝治の面を狙って、はじめが強烈な一撃をたたき込む。眼前でそれを受け流すと、はじめが体勢を崩した孝治の胴をめがけて竹刀を放つ。今度は孝治が、それを受けるべく竹刀を動かし、二人の竹刀はその試合中、何度目かの激突を起こした。
そして――激しい音と共に、爆ぜるように折れた。
両者の竹刀とも、鍔の部分から鉤裂きとなって。二度と使いものにならぬ代物と変わり果てていた。
「それまでっ!」
竹刀が爆ぜた音と、同じかそれ以上の大きさで、片桐が試合の終了を二人に告げた。二人は打ち合った姿のまま、自分に降りかかってくる竹刀の破片の中、敵手の目を睨む。
「田中はじめくん、でしたね? やはり見込んだ通りでした」
片桐は、好々爺とした笑みを浮かべ、はじめと孝治に歩み寄る。そして、今度はもう一方に語りかける。
「そして柳沢くんも、いい試合でした。しかし今ので、君が普段は手を抜いているのがハッキリと分かりました」
こちらには、厳しいものが視線に含まれた。恐れ入るように、孝治は老齢の男に頭を下げる。
「しかし、実力が拮抗したいい試合だっただけに、実に惜しい……」
男が、はじめを見つめる。はじめとしては、首をわずかに傾げて、老齢の次の言葉を待つしかなかった。
「田中くん。次は身体を完治させてからおいでなさい。柳沢くんも、どうせ戦うなら完全な体調の君とやりたいでしょうからね」
「……っ」
それだけ言うと、片桐は後ろで今の試合を見学していた他の道場生や師範代に練習を再開するように告げ、道場の奥へと姿を消した。
その言葉を受けて、他の者たちが打ち込み・切り返しを始める最中、二人は道場の隅まで移動する。
「……田中くん、どういうことだ?」
孝治が、その鋭い瞳ではじめを睨む。絶句していたはじめは、目をそらしこそしなかったが、バツの悪い表情を隠すことはできなかった。
「君はどこか、身体を怪我か何かしているのか?」
「………」
「答えてくれないか、田中くん」
孝治の切れ長の瞳が、怒りによって吊り上がってくる。
「今の試合、君が完全な体調でなかったとしたら、僕にとって無関係な話じゃない」
それから、しばらく二人の間に沈黙の時間が流れた。他の道場生たちの練習の掛け声や、竹刀が面や胴を打ちすえる音が、どこか遠い世界での出来事に感じられる中、そんな二人を見かねたのか、声を掛けた者がいた。
「私にとっても、関係あります。どこか……具合悪いんですか? はじめさん」
憂いに満ちた表情で、愛美ははじめを見つめる。だが、それでもはじめは、沈黙を破ろうとはしなかった。だがその無言こそが、何よりはじめ自身の体調を雄弁に物語っていた。
「はじめさんが、お医者さまを嫌がった理由が何となく分かりました。でも……それならなおのこと、お医者さまを避けていてはダメです。はじめさん、先日お会いした、喜多島先生のところに行きましょう」
そんな愛美の提案に、はじめはこの世の地獄でも見るような顔をする。
「医者は苦手だと言った」
「ダメです」
彼女のその静かな物言いは、逆らいがたい覇気が籠もっていた。
「怪我や病気を侮って、大事に至られては私の想いは行く場所を失います。この生命に代えても、絶対に連れていきます」
愛美の、静かだが覇気のある物言いは続く。
「どうしても嫌だとおっしゃるなら、私の屍を乗り越える覚悟で逃げてください」
はじめは絶句した。
真面目な顔をして言える台詞ではないはずであった。だが、少なくともはじめの見るところ、彼女の表情は、冗談どころか一片の妥協すら見いだせぬような、真剣そのものの顔であった。
「分かった……」
はじめは敗北を認めた。ここまで真っすぐに心配されて、逃げることはできない。それこそ、愛美がよく自分に言ってきた「男らしくない」というやつだった。力づくで、それこそ愛美を屍にかえるつもりで、成そうとすることが逃げることでは、他の誰でもない、自分自身にどう申し開きもできなくなってしまう。
とんでもない娘と巡り会ってしまったものだ。そう思う。
しかし、
「君の言う通りにする」
まるで悪い気がしないのも、はじめとしては事実だった。