棚ぼた、捨てるのやめた
夜。風丘町を見おろすようにそびえる白夜山の林の中、吉川家では、家主・明彦の仕事の帰りを出迎えた後、愛美と、先刻気絶から回復した田中はじめが、広間にて遅い夕食を取り始めていた。
「はじめさん、明日はどうするんですか?」
「ちょっと待った、愛美」
まだ少し、恥じらいによる抵抗を感じつつ、力技であごと舌を動かすはじめ。
「俺の方が君を呼び捨てで、君の方が俺をさん付けは変だと思うぞ」
昨日から気になっていたことを告げ、はじめは愛美を見つめる。
「君も、俺のことを呼び捨ててくれてかまわない」
「いいえ。女は男を立てるものです」
「そりゃあまた……俺を含めた男たちが、泣いて喜びたくなる貴重なご意見だね」
「せっかく出会えた、一目で憧れることのできた人です。それくらいは当然です」
「……それなんだけど。差し支えなければ、俺に一目惚れした要因を聞きたい」
「内緒です」
静かに微笑んで、愛美。
「ただ、これだけは言えます。人生、性に合わないことをしていられるほど長くないと思います。だから、直球勝負でいきたいんです」
「……そんなものか」
分かったような、分からないような気分だったが、あえてそれ以上は問うまい、とはじめは、話題を変えることにした。
「とりあえず、俺は明日も山の中に行ってみるけど、愛美は?」
「……それなんですけど。済みません、私、明日は道場に行かないと……」
「道場? 剣道の?」
「はい。明日は道場に行く日なんです。済みません、バック探しをお手伝いしたいのですけど、剣道だけは、どうしてもサボりたくなくて……」
哀しそうな顔をし、頭を下げる愛美。
「いや、見知らぬ仲なのに泊めてもらってるだけでも、申し訳無いくらいなんだ。そんなこと、気にしないでほしい」
それよりも、とはじめは、
「よかったら、ちょっと道場見学をさせてもらえないかな……?」
目をしばたかせ、きょとんとする愛美。
「それは構わないと思いますけど……どうしてですか?」
「んー……どうして、か」
途方に暮れるように、はじめ。
「やみくもに探すより、何か手掛かりが掴めるんじゃないかと思っただけなんだけどね」
「手掛かり?」
ああ、と頷き、しばし押し黙る。
「こうなったら言うけど、無くしたスポーツバックの中身は、剣道具一式なんだ」
「え……」
愛美の目が、驚きに見開かれる。
「はじめさん、剣道を嗜んでるんですか?」
「ん……まあ、いや……」
「それならそうと、どうしてはやく言ってくださらなかったんです」
愛美の顔が、非常に残念そうな、不満そうな表情を形成する。
「昨日からでも、乱取り稽古ができたかも知れなかったのに」
「言わなきゃよかった」
これからはずっと愛美の練習相手をしてもらうと言われているようで、はじめはワカメ型の涙をハラハラと流した。
「これからはずっと私の練習相手をしてくださいね」
「つーか今しっかりと言ってるし」
「で、見学ですけど。私としては、一向に構いませんよ。いえむしろ、一緒にいられて嬉しいくらいです。道場の方々も、特に気にしないと思いますし」
新たな練習相手を確保できたと受け取った愛美の顔は、輝いて見えた。
「そうか、ありがとう。何か分かればいいんだけどね」
もとより大した期待がある訳ではない。少しでも別の角度から探す手掛かりが奇跡的にでも入れらないかと思っての、ワラにもすがるような意味合いの願いだった。
「それじゃあ明日、一緒に行きましょう。道場まで、けっこう距離ありますけど」
もっともこんな山奥からじゃあ、近い施設なんてほとんどないですけどね、と、愛美は微笑みながら言った。
「ん……剣道?」
先刻、意識を失う直前。もはや傷害罪で訴えられても文句の言えないような男が、自分に向けて振るってきた武器は、確か竹刀ではなかったか。
「あの柳沢っての、もしかして君と同じ道場生だったりしないか」
「はい、当たりです。やっぱり分かりますか?」
「そりゃあ、君と知り合いで竹刀なんか振り回してくればね……」
はじめは少し、考え込んだ。
「俺が行くと……また、問題にならないかな?」
「なると思います」
あっさりと愛美ははじめの疑問を肯定して見せた。
「孝……柳沢さんは、私のことを気にしていますから」
「まあ、そうだろうけど」
でなければ襲われた理由がつかない。そこまで考えて、フと何げない疑問が浮かぶ。
「あいつ、かなり美形だったけど。あいつじゃ恋人になれなかったのかい」
まあ、性格に問題があったからだろう、とはじめは思う。愛美からも、それに類似した台詞が聞けると思っていた。「性格に問題があって恋人にはできなかった」と。
だが、愛美の口から聞けた台詞は別のものだった。
「……柳沢さんでもいい、と言ってほしいんですか?」
愛美は、あからさまに悲しそうな顔をした。その顔を見て、はじめは心臓が一瞬、鋭い痛みを帯びる。
「いや。だけど、何か訳ありみたいだったから」
とりあえず、無難と思える方向へと話をずらしに掛かる。表情がわざとらしくなっていないか、はじめは心配だった。
「……はい。昔、ちょっとありました」
愛美の瞳が、遠くを見るように細まる。悲しみを象った表情に、変化はなかったけれど。
「でも、今ははじめさんです」
過去から現実に戻ってきた目で、愛美ははじめを正面から見据える。
「私が、はじめさん以外の誰かを好きでも構わない、そんな風な言われ方は……寂しいです」
「ごめん」
はじめは、素直に謝った。
「君のストレートな表現を、まだうまく受け止められないんだ。現実離れしてるから……」
「現実離れ?」
「旅先で倒れて、それを綺麗な女の子に介抱してもらって、その子に一目惚れしてもらえる……そうそう信じられることじゃないよ」
「でも、事実ですから」
愛美は、不安そうに顔の位置を落とし、はじめの顔を上目使いでのぞき込む。
つーか綺麗な女の子呼ばわりのとこスルーなんだ、と思いはしたが口に出しては何も言わなかった。
「……もしかして、ご迷惑ですか?」
愛美の様子が、昨日や一昨日と違う。自分が軟弱な態度を示した時、阿修羅のごとく男らしくないと罵り、矯正するよう迫ってくる剛の面が、今は鳴りを潜めている。
もし今、冗談でも迷惑だなどと口走ったら、泣きながら納得し、自分のことを諦めてしまいそうな――そんな、はかなさをはじめは感じた。
変わってる娘だ、とは思った。すごく可愛い、綺麗な顔をしている、とも。
だが、嫌われたくない、自分から離れていってほしくないと思ったのは、今この瞬間が初めてだった。
「とんでもない。嬉しいよ、すごく」
自然と、そのような言葉がはじめの口を割って出ていた。
「君のような可愛い子に好かれて、嫌な男なんていないよ」
「……よかったです」
その顔に笑みが戻って、はじめはようやく一息つける思いだった。だが、そこで思う。そんなことを気にしてしまう自分は、やはり。
「さ、食事にしましょう。あまり喋っていると、冷めてしまいますから」
やはり自分の方も、急速に愛美のことを気になり出しているということなのか、と。
「……どうかしましたか? 美味しくないとか……」
「い、いや、美味しいよ。愛美は強くて可憐なだけじゃなく、料理もうまいんだな」
会話で中断された食事を再開し出した愛美の顔を見つつ、はじめは顔が少し熱くなっていくのを自覚した。
その視線に気づき、自分を見つめ返してくる愛美に、はじめは慌てた。
頬をかすかに朱に染めて、顔は目をそらすように茶碗に向ける。手はまごつかせたあげくに箸を握り、ごまかすようにご飯を口へ放る。はじめ、十七歳の春だった。