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柳沢孝治

 桜の花びらが、道路のそこかしこに落ちている。近くに桜の木はなかったが、風で運ばれてきているのだろう。別段、他の町と変わらない町並みの中、はじめはやや斜め上、空が晴れているのを見上げていた。


 その隣で、しばらく無言で付き添っていた愛美が声を掛ける。


「気を落とさないで下さいね」


「……ああ」


 愛美の方を見るでなく、上の空で返事をするはじめ。


 日が明けて、翌朝。どこを探しても、山の中にスポーツバックはなかった。


 人通りの極端に少ない、山道での落とし物である。拾われたという線はかなり希薄だったが、可能性がまったくないという訳でもない。その愛美の意見に賭け、ふもとの風丘町交番に出向いてみたが、警官から返った答えは、はじめの後ろ向きな予想を裏切るものではなかった。


「済まないな、吉川さん。まだしばらく……」


 はじめが、隣の少女に声を掛けた途端、スポーツバックの見つからぬはじめに向けられていた柔和で労りに満ちた視線が、鋭く非難に満ちたそれに取って代わった。


「愛美、です」


 う、と言葉に詰まるはじめ。知り合って一日しか経たない異性を、姓ではなく名で、しかも呼び捨てで呼ぶのには、どうしても抵抗があったのだ。


 であるから、そこらへんの非難はなるたけ聞き流すことにする。


「まだしばらく、見つけるのには時間が掛かりそうだ」


「………」


「だから、悪いけど好意に甘えさせてもらうよ。この町の案内とか……よろしく頼む」


「………」


「ところで、朝出してくれたキンピラ、おいしかったなあ。料理、上手だよね」


「………」


 そっぽを向いて、今や足すら止めている。意地でも名で呼ばぬ限り返事をする気がないらしかった。


 必然的に、はじめも足を止める。自分から目を背け瞳をつむる少女に、はじめは頭を掻いて、意を決する。


「ね、愛美……さん」


「メ・グ・ミ」


「め……」


 とても恥ずかしかった。口が巌のように固まり、思うように開閉しない。


「め、ぐ、ぐ……グアッ」


 アゴに変な力が掛かり、グキリと嫌な音が鳴る。


「……私を名前で呼ぶのが、そんっなに嫌ですか」


 その涙ぐましい努力に報いられたのは、若輩OLがオヤジ世代から寒いギャグを聞かされた時の態度に匹敵しうる、冷たい視線と口調だった。


「い、イアあおえああう(い、嫌なのではなく)……」


 愛美本人に対して、やはり気恥ずかしさがある。通行人の視線も背中に感じる気がする。


 早めに切り上げなければもっと恥ずかしい気がするが、しかしアゴが変になっててまともに喋ることもできない。


 さてどうしたものか。


 そんな八方塞がりになっていたはじめに、救済が訪れた。自らの努力でなく、第三者の手によって。


「あれ? メグちゃんじゃない」


 本人たちは大変真剣な、はたから見たら滑稽なやり取りの真っ最中に、声を掛けてはじめを救ったのは、年の頃があまり二人と変わらなそうな、一人の青年だった。


 癖のある短髪に、切れ長の目。スッキリとした鼻立ちに均整の取れた四肢。かなりの美形さんである。


「どうしたの、こんなところで」


「前にも申し上げましたけど」


 その美男子への、愛美の対応を見た時、はじめは一瞬身震いしてしまった。


 どれだけ自分におちゃめ(酷い仕打ち)を働いた時でも、愛美の顔にはどこか穏やかなものが同居していたことを、はじめはこの時初めて知った。


 妥協を一切許さない、永久凍土にそびえ立つ氷山がごとき冷たい拒絶――


「柳沢さんとは、名前で呼び合う筋合いは断ち切った筈です」


 物の気の類いがまことこの世に現存しようとも、それすら裸足で逃げ出そうかというような恐ろしく冷たい表情で、愛美は青年を一瞥していた。


 昨日今日の、行き過ぎとすら思える愛美の感状表現を見たはじめなど、あまりのギャップに何も言えなくなってしまったが、愛美から柳沢と呼ばれた青年のほうは、話しかけた時同様、飄々としていた。


「そうだったね。で、吉川さんは、ここで何してるの?」


「いえ、この方が、私の名前を覚えてくださらないものですから、発音練習を」


 発音練習とは、こうも穴があったら入りたくなるほど羞恥を背負わねばならぬものなのかとはじめは思わずにいられない。


 時々、駅前でやってるサラリーマンが偉大に思えた。


「名前……?」


 飄々とした表情が一変、険しいものになり、青年ははじめの方を睨み据えた。


「ねえ、君」


 愛美から柳沢と呼ばれた青年は、切れ長の瞳を鋭く吊り上げ、怒りの感情も露にはじめを睨みつけた。


「吉川さんから、何て呼んでほしいと言われたの?」


「いあ……あああああええ(いや……だから名前で)……」


 瞬間。周囲に響いた轟音は、立て続けてみっつ。


 ひとつ、柳沢がはじめを竹刀で殴りつけた音。ふたつ、それで吹っ飛んだはじめが地面に叩きつけられた音。みっつ、そうして地面に叩きつけられ、勢い余ってもんどり打って転がったはじめが、他所宅のブロック壁にぶつかった音。


「何しやがるんだと当然の突っ込みをさせてもらうぞ。……あ、アゴ治った」


「名前で……名前で、だって!?」


 七割の驚愕と二割の怒り、一割の悲しみを持って十割とする複雑な表情の柳沢が、愛美の方を勢いよく振り向く。


「いや、よく俺の言葉が分かったな。……つーかその前に、俺の方を向けこの暴漢」


「どういうことなの、メグちゃん!?」


 瞬間。周囲に響いた轟音は、立て続けてみっつ。


 ひとつ、愛美が柳沢を竹刀で殴りつけた音。ふたつ、それで吹っ飛んだ柳沢が地面に叩きつけられた音。みっつ、そうして地面に叩きつけられ、勢い余ってもんどり打って転がった柳沢が、他所宅のブロック壁にぶつかった音。


「名前で呼ばないで欲しいと、申し上げた筈です」


 表情を十割の悲しみに染めて、柳沢は叫んだ。


「どうして僕はダメで、こいつはいいんだい!?」


 瞬間。周囲に響いた轟音は、立て続けてみっつ。


 ひとつ、(中略)ぶつかった音。


「田中はじめさん、です。こいつ、ではありません」


「どうでもいいがお前ら、竹刀なんてどこから出した」


「メグ……吉川さん! どうしてだ!? どうして僕はダメで、こいつ……じゃない、えーと、田中君? はいいんだ!?」


「聞けよ、人の話」


「決まっています。一目で惚れた方ですから」


 頬をかすかに朱に染めて、胸に右手を添える。首は左斜め下四十五度に、お下げはなだらかに背中の方へ。愛美、十五歳の春だった。


 その言葉を愛美から聞いた後、信じられないものを見るような顔の柳沢が、はじめに振り返った。


 それからしばし、痛みを感じるような緊張した沈黙が続く。


 先程から思いっきり無視されていたはじめも、一目惚れ宣言されては照れ臭さが先立ち文句も言えない。まして、柳沢からのはっきりと敵愾心に満ちた視線で睨まれては、細かい(?)突っ込みなどしている余裕はなかった。


 そんな、気まずい沈黙を破ったのは、柳沢だった。


「得物を抜け、田中くん」


「……はぁ?」


「勝負をしろと言っているんだ」


「得物を持っているように見えるか?」


「この期に及んで逃げようというのか!?」


「会話をしろ、会話を!」


「そちらが抜かずともこちらからいくぞ!」


「ちょっと待て、貴様!」


 竹刀を上段に振りかぶり、滑るようにはじめに接近する柳沢。


「はじめさん、これを!」


 愛美は、自分が持っていた竹刀をはじめに投げ渡す。


 はじめは一瞬、あんなどこから出したのかも分からぬような竹刀を受け取ってしまったが最後、自分も抜け出せない何かに突入してしまうのではないかという得体の知れない危機感を抱いたが、柳沢が持って迫りくる手前、受け取り拒否をしている暇はなかった。


 弧を描いて飛んで来た竹刀を受け取ると、はじめは柄を握り直し柳沢に向き直る。


 瞬間。柳沢がはじめの立ち位置を駆け抜けた。


 そして、立ち位置が左右逆となり、背中を向け合う二人の間に、春風が吹き抜ける。


 実際には短くとも、緊迫した沈黙が永遠とも思える時間、過ぎた。


 そして――


「は、はじめさん!?」


 身体がぐらつき、ゆっくりと倒れて前のめりに倒れようとするはじめを、愛美は間一髪のタイミングで支える。見れば、その額に生々しい竹刀の跡が刻まれていた。


 痛ましい思いではじめを見ていた愛美が、表情を厳しいものに変えてキッと孝治を睨む。


「体調の不完全な相手に不意打ちで打ちのめして、それであなたは満足ですか」


「……不完全?」


「このはじめさんは昨日、私の帰宅路の途中で行き倒れていた人です。そんな人に竹刀を振るい、倒して……それで、あなたは誰に向かって何を誇ろうというのです?」


 その鋭く吊り上がった愛美の瞳は、まるで視線で人を突き刺せたらと言わんばかりであった。柳沢はそれに気圧されたのか、一言も反論しようとしない。


「私が、自らに課した価値基準のひとつに、惰弱は悪というのがあることは前にお話した通りです。はじめさんも殿方であるからには、戦うなとは言いませんし敗れたことに言い訳してほしくもありません」


 ですが、と愛美は続ける。


「嫉妬の末に逆上し、突然襲い掛かってきた相手に倒されたことを責めはしません。逆に、同じことをはじめさんがあなたに行ったなら、それをこそ私は責めるでしょう」


 柳沢は無言だった。何かを考えるような、そんな仕草で。愛美の腕の中で昏睡するはじめを、見つめながら。


「はじめさんとは、いずれ再戦していただきます」


 愛美は、はじめのことをまるで我がことのようにきっぱりと言い放った。


「再戦……?」


「惰弱なままで引き下がられては、はじめさんを愛し続ける私の根拠が失われてしまいますから」


 その言い草に、本人に意識があったなら、激しく抗議するか、あるいは呆れて物も言えないかのどちらかであったろう。


「無論、仕掛けたのは柳沢さんの方からなのだから、異存はありませんね?」


 はじめに意識を向けていた孝治が、愛美に意識を切り替え直す。もともと、愛美が目当てでこの二人の会話に入ってきたのであるから。


「……ああ、無論。僕も、暴走してしまったようだ。君の心を掴める人間は、今後ぜったい現れないと思っていたから」


「まだ、私のことを諦めてないんですか」


 孝治に対し、冷たい敵愾心しか示さなかった愛美が、一瞬だけ寂しげな表情を見せた。


「つれないね。分かってるだろ?」


「これから先、私の心があなたに……いえ。この町の、私を知っている誰かに寄り添うことはもうありません。これ以上、同じことを言わせないでください」


「では、僕も今までと同じ、イヤだ、という答えを返そう」


 柳沢孝治、中性的な麗貌を持つ青年が、強固な意志を示して愛美の警告をはねのけた。


「もし本当にイヤなら、はっきり言ってくれればいい。ぼくの全てが嫌いだと」


「………」


 孝治の言葉に、無言を持って答える愛美。


「でもとにかく、冷静さを失い、……えーと、田中君? に襲い掛かったことは認めるよ。そしてそれが正当な決闘ではなかったこともね。ただ……」


 孝治は言う。その田中はじめなる人物はいかなる氏素姓の者なのか、と。


「いえ、詳しい話は、まだ何も……」


「そのために、田中君が一目惚れの人。……なるほどね」


 柳沢は頷く。冷やかすでなく、茶化すでなく。ただ、目の前の現象を静粛に事実として受け止める無表情で。


 愛美も、柳沢の発言にかみつくことなく無言で孝治を見つめ返していた。


「再戦の件も、了承するよ。僕としても、子どもの頃から抱き続けた想いを昨日今日現れた男にさらわれてはたまらない」


「……物おじしないおっしゃりようですね。ストーカーだと訴えたら、どうする気です?」


 寂しさ、冷たさ、敵愾心。およそ柳沢に負の感情しか向けなかった愛美が、今、少しではあるが微笑みかけた。


 かわらず、寂しさを含んだものではあったが。


「ぼくが捕まるだけのことだね」


「……とりあえず、用件はそこまでです。私たちは、帰ります。はじめさんを介抱しなくてはいけませんから……」


 腕の中で、気絶中のはじめを見て愛美は言う。


 それを理由に、そこから逃げたい、というのを、悟られないようにであったが。


「……それで思い出したんだけど、二人でここまで何しにきたんだい? 最初、それを聞こうとしてたんだった」


 愛美は、はじめが行き倒れた時に持ち物のスポーツバックがなくなってしまったこと、それが山道を調べても見つからなかったこと、よって誰かに拾われ警察に届けられていないか確認しにきたこと、包み隠さず柳沢に教えた。


「スポーツバック?」


「はい。なんでも、はじめさんの大切な物らしくて……」


「……そうか」


 それ以上は柳沢は言わず、黙って二人を見つめる。愛美も、それ以上なにかを語る必要を失い、軽く頭を下げてはじめを背負い、自分の家がある白夜山に向けて歩きだした。


「手伝おうか? 気絶させたのは僕の責任だし」


「いえ……自分が好きになった人くらい、一人で運びます」


「……それは逞しい」


 愛美のはじめへの表現に、柳沢は寂しさが顔に出ないようにするのが大変だった。


「それでは」


 愛美は一礼し、はじめを背負って山の方へと歩き出した。柳沢はその二人の後ろ姿を見送る。


「体調が不完全……ね」


 そんな二人が完全に見えなくなった時、柳沢は誰にともなく呟いた。


「クッ……」


 柳沢は、左肩を手で押さえ付ける。愛美の手前、涼しい顔はしていたが、そこには激しい痛みが間断無く襲っている。先刻、はじめから受けた打撃だった。


(もう少し、身体をそらすのが遅かったら……)


 はじめの竹刀は間違いなく、柳沢の肩にではなく喉に吸い込まれていただろう。


「再戦……望むところだ」


 それにしても、と柳沢は思う。


 あの、田中はじめと名乗る男、どこかで見たことがあるような気がした。だが、さてそれはどこでであったろうか。


 だがその疑問も、愛美のことが頭によぎった瞬間に忘れてしまった。




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