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お泊まりですね

「ごちそうさま、おいしかったよ」


 ご飯にみそ汁、アスパラとキュウリとコーンのサラダ、それに冷や奴と焼きサンマといった料理を平らげた後、はじめはその手料理の供給者に告げた。


「でも、いきなりたくさん食べて大丈夫でしたか?」


 愛美が、心無し不安げにはじめの顔をのぞき込む。


「大丈夫。病人じゃなし、ご飯を体が受け付けないなんてことはないさ」


「なら、いいですけど」


「さて……今度こそ、片づけをさせてもらわないとな」


「あ、ダメです」


 立ち上がりかけたはじめを、愛美が止める。


「お客様は座っているものです」


「いや、俺は……」


「お茶を入れますから、田中さんはテレビでも見ててください」


「いや、しかし」


「気持ちだけでうれしいですから」


 そういうと、愛美は盆に食器をのせて台所へ向かってしまう。


(なんだかな)


 見ず知らずの自分が、二食をいただき医者まで呼んでもらった。まあ医者は嫌がったのに無理やり、だったが。さてこの恩はどう返したものか。


(……現金じゃあなぁ)


 即物的で、あまり気が進まない。


 さらに言えば、手持ちが豊富という訳でもない。いやむしろ寒い。その寒さときた日には、北海道どころか北極の気候に比肩するのではないかと思えるほどだ。でなければどうして、行き倒れたりなどするだろう。


 そこまで考えて、はじめは意識が戻ってから今まで、自分の持ち物を確認していないことに気がついた。


 ズボンのポケットにサイフは、


(うん、ある)


 手に下げていたスポーツバックは、


(……少なくともここにはない)


 八畳の部屋を見回し、確認する。


「吉川さ~ん」


「はい?」


 ちょうど、小盆に湯呑みを乗せて戻ってきた愛美の方を見るはじめ。


「俺を拾った時、スポーツバックが近くに転がってなかったか?」


「いいえ、何も……田中さん、もってたんですか?」


「本当か……」


 はじめの顔が青ざめる。


「もしかしたら、田中さんの倒れてたそばにあるかも……私、冷静に辺りを見回した訳ではなかったから……」


「そうかっ、ならまだ希望はある。どこに倒れていたか、教えてくれ」


「山道だから、ちょっと説明しにくいんです。よろしければ、私がご案内しますけど」


「助かる」


「じゃあ、さっそく行きましょう」


 テーブルに小盆を置いて、愛美。はじめが一つうなずいて立ち上がり、二人は玄関へと向かった。






「ないですね……」


 赤焼けた夕暮れ色の空の端が、青黒い夜色に染まり出したころ、愛美が呟く。


「どこだ……どこいった」


 赤焼けに染まった山道の中で、はじめは途方に暮れた。


「ところで田中さん、スポーツバックの中身は何だったんですか?」


「……スポーツ用品」


「スポーツ用品?」


 愛美は目を丸くする。


「おサイフとかは?」


「……サイフはちゃんと持ってる」


 愛美の方を見ず、周囲に目を配るはじめ。


「じゃあ、代わりを買い直すとかは……」


「代わりの物なんてない!」


激情の籠もったはじめの返事に、愛美は驚く。


「あれの代わりなんて、きっとない……」


 はじめは、やりきれない表情で山道脇の草を掻き分ける。


「済みません」


 事情は知らなかったが、それがはじめに取って大切なものであることは分かった。


「……いや、俺の方こそ怒鳴ったりしてゴメン」


 少なくとも、倒れていた自分を介抱してくれた相手にしていい行為ではない筈だった。


「いえ、私の方こそ無神経でした」


 あまりに思い詰めた顔をする愛美に、自分の心が狭かったせいであるにも関わらずはじめは少し悪戯心が釜首をもたげた。


「いいよ。君に神経がないことはもう知ってる」


「本当にゴメ……」


 山の中にいい音が響き渡った。


「田中さん。次にデリカシーのないこと言ったら、平手打ちですからね」


「知らなかったよ。平手打ちが渾身のキックよりも酷いことだったなんてね」


「でも、これでひとつお利口さんになりましたね田中さん」


「マジでキレッぞこのアマぁ」


 愛美の右手がスッと持ち上がった。


「さ、バックバック」


「じゃあ、私は向こうの方を調べてきます。田中さんはあっちの方を」


「うん、ありがとう繊細で優しい吉川さん」


 はじめはまたひとつ、自分の中の大切な何かが失われ、変わりに大人への階段を昇ったような気がすごくした。






「……じゃあ、俺はそろそろ行くよ」


 先刻食事をいただいた、吉川家の八畳間にある柱時計。それが九回鳴った後、はじめは愛美においとまの声を掛けた。


「本当に行くんですか?」


 愛美の顔には、心配そうな表情が浮かんでいる。


「ああ。大丈夫、心もとないったって、あと数カ月の宿代はある」


 嘘だった。


「でも……」


「心配ない、ここまで旅してきたんだ」


 お陰でサイフが寂しいのだが。


「……でも」


「本当に大丈夫」


 ……な訳はないのだが、はじめとしてはそう言うしかなかった。


「だって、ちゃんとお金のある人は、空腹で倒れないと思うんです」


 事実なので言い返せなかった。


「あそこの近辺を探すなら、うちが一番つごういいと思うんです」


 その通りだった。


「わざわざ、町のホテルから往復するの、大変ですよ、きっと」


 それも、その通りだろう。だがしかし。


「これ以上の世話になるのは、心苦しい」


 神妙な顔をして、はじめは言った。


「そうですか? 私から早く逃げたい、なんて、情けない理由じゃないかって、ちょっぴり心配なんですけど」


「そんなことは天地神名に誓ってまったく全然これっぽちも断じて絶対間違いなくない」


「田中さん、捜し物が見つかるまで、私の家でお泊まりですね」


「どうしてそうなる!?」


「みっともない人、嫌いです」


 その日の朝ご飯のメニューを答えるような、ごく自然で穏やかに微笑む愛美。


「ですから田中さんには、私のことを何の変哲もない乙女だと認識できるくらい強くなるまで、うちにいてもらいます」


「……ちょっと待て」


 はじめは困惑した。まあ乙女というのには(生命が惜しいので)突っ込まないとして、他の部分である。


 少女の理屈は絶対おかしい。理論的にも、道徳的にも。怖いのは、愛美が真顔で言っていることである。何らかの思惑あって、はじめを呼び止めておきたいのだろうか。


「吉川さん。見るに、少なくとも君はまだ学生だ。そうだな?」


「ええ。来月から、高校生です」


「少なくとも、山の中とはいえこんな一軒家の家主には見えない。そうだな?」


「ええ、ここの家主は父ですけど」


「では少なくとも、客人を宿泊させられるかどうかは、君に決定権はない。違うか?」


「それなら大丈夫です」


 にっこりと愛美は微笑む。


「父は物分かりのいい人ですから」


「……いいか、吉川さん」


 辛抱強く、何かに耐えるかのような顔で、はじめは言葉を続けた。


「どこの世界に、得体の知れない行きずりの男の宿泊を、認めるような高校生の娘の父親がいると思う?」


「現に、ここに。この家に、私の父が」


 話が通じないとはしめは思った。


「世話になったね、吉川さん。このお礼は、いつか必ず」


「田中さん、先も似たようなこと言ってましたよ」


「君に、話が通じないことが分かったからね」


「話が通じない? 私が!?」


 右手をわずかに、何かを求めるようにこちらに差し出し、あたらさまにショックを受けたという顔をして、後ろに二、三歩よろめく愛美。


「酷いです……!」


「しかし今さら繊細ぶるかね実際」


「何か言いました?」


「いや何も」


「とにかく、私が独善というのは、納得できません! こうなったら意地でも、私の父に会ってもらいます!」


「いや、誰も独善とまでは言ってないけど」


 握りこぶしをプルプル震わせて力説する愛美に、困惑ぎみに応えるはじめ。


「そして、聞いてもらいます。田中さんを泊めていいかどうかという問いに対する、父の返答を! そうすれば、私が独善かどうか分かります」


「だから俺は独善とまでは……いや、それはいいや。それで、返事が『否』だった場合の、俺の立場は?」


 たとえ宿泊が許可されずとも、別にこの日の宿とかはいい。ダメなら、サイフひとつに身ひとつで、町まで下りて公園か何かで野宿するだけのことだ(山の中はさすがに遠慮したい)。


 しかし問題は、愛美の父が「こんな時間に娘ひとりの家に入り込んでるとはいい度胸やないか」とか言い出し、場の収拾がつかない方に流れた時である。


 このような時に、男が思い描く相手の父親像というものは、えてしてスジ入りの強面と相場が決まっている。はじめも例外ではなく、それは決して楽しい未来の想像図にはつながらなかった。


「んー……ないですね」


「ちっ待てコラ」


「父に限って、返事が否、なんてこと、絶対ないです」


「あ、そういうこと……」


 立場なんてないと言っているのかと思ったはじめ。


「しかしよく言い切れるな」


「それは、長年付き添った自分の父ですから」


「ま、いいけどな……」


 はじめは、頭を掻いてため息をつく。確かに話を聞かないとは言い過ぎたかも知れない。はじめはもう一度だけ、愛美を信じようとして、はたとあることに気づいた。


「いや、そういう問題じゃない。ひとつ屋根の下に、若い男女が寝泊まりする。これはいけない、ふしだらというものだ」


「どうしたんですか、そんないきなり真面目ぶって」


「……君は、何かとてつもなく俺を誤解しているように思えてならない」


「それは気のせいというものです」


「そうだろうか? ……いや、論点はそこじゃなかった。いいか吉川さん、君は俺を助けてくれたが、俺が君にとって恩を仇で返さない人間であるという保証は、少なくとも現時点において君の中にはない筈だ」


「……はあ」


 何か言いたそうな愛美であったが、とりあえずはじめの言葉を促す。


「それを君は、たった一日付き合っただけの俺を泊めるという。……恩人に向かって失礼と、あえて踏まえた上で言うが……ちょっと不用心なんじゃないか?」


「保証なら、ありますよ」


 全てを言い終えたはじめに、愛美は「物証じゃないですけど」と穏やかに微笑む。


「スポーツ用品を無くした田中さん、買い直したらと言った私に、すごく怒りました」


 そこで言葉をきる愛美。はじめとしては、先を促すしかない。


「私を騙してどうこうしようという人なら、内心がどうでも、怒ったりはしなかったと思います」


「……それで?」


「それだけです」


 あ、あともうひとつ、と愛美。


「襲われても、相手が田中さんならへっちゃらへーで対抗できます」


 無言で八畳間の隅に移動し、背中を丸めて畳の上に『の』の字を書きはじめる、田中さん家のはじめ君。


「嘘です」


「……歯に絹かぶせない人だな君は」


 部屋隅から戻ってくるはじめに、愛美は微笑む。


「面と向かって褒められると、照れてしまいます」


 言葉どおり、微笑みながら頬を朱に染めて照れる愛美。一発ぶん殴ってもきっとバチは当たるまい、と思わないでもないはじめだったが、報復が怖いので止めておいた。


 だてに大切なものを二つもなくし、代わりに大人の階段を上ってはいないのである。


「だが、それもこれも、君のお父さんが帰ってこないと話が始まらないな」


「ええ。でも、それなら田中さん、父に会ってくださるんですね?」


「……そこまで言ってくれるなら、会うだけは……」


 愛美は、自分の瞳が星のように輝いてしまっているに違いないと少し恥ずかしかっているのかも知れない。


 しかしはじめから言わせれば、今の愛美の瞳は、獲物を見つけた時の野獣のそれと大差あるまいと感じた。


「やりました! 決まりです」


 手を叩き、微笑が満面の笑みに取って代わる愛美。そのはしゃぎよう、喜ぶ顔を見てはじめは不意を突かれ、今までの愛美のお痛への怒りを忘れてしまうほど、


(か、可愛い)


 ――と、思ってしまった。


 ちなみに、苛めではなくお痛である。僅かに残ったプライドに掛けて。


「そうと決まればこれからはあまり苛めないであげますから、安心してください」


 その僅かなプライドも無残に踏みにじられてしまった。


「田中さん、冗談ですから部屋の隅っこから戻ってきてください」


「いいんだいいんだ俺なんか……ちくしょう……本当は俺は強い筈なんだ……スポーツをやってた筈なんだ……均整の取れた、素晴らしい身体の筈なんだ……」


「私の右足が、ウジウジした男を蹴飛ばせと光って唸って轟き叫ぼうとしてるんですが」


「まあとりあえず、お父さんには出来る限りよろしく言ってほしい。お願いするよ」


 泣きたくなる顔を無理やり笑顔に引きつらせて、部屋の隅っこからダッシュで、はじめ。


「はい、まかせてください。父へのおねだりは、お手の物です」


 どうしてこの女から『男らしさ』を追及されねばならぬのか、理不尽に思えてならないはじめ。


「あの……それで、田中さん?」


 急に恥ずかしそうに、顔を心なしうつむかせてのぞき込むように問いかける愛美。


「な……何かな?」


 背中に薄ら寒いものを感じつつ、返事をしない訳にもいかないはじめ。


「あの……田中さんのこと、名前で呼んでいいですか?」


「名前? なんだ、そんなことか。いいよ、はじめで。呼び捨てでいい」


「じゃあ。……え、えっと、はじめ、……さん」


 そこまで言って、「キャッ、恥ずかしい」と両頬を両手で押さえ、身体を捻らせはじめから視線をずらす愛美。


 分裂症かこの女。


「……どうしてでしょう。今、はじめさんがすっごく失礼なことを考えた気がします」


「それは気のせいというものさぁ」


 ごまかす際に少し言葉がうわずってしまった。


「まあいいですけど。あの、それで。……は、はじめさん?」


「なに?」


「私のこと、……愛美って、呼んでくれます?」


 一分間、広間には時計の秒針の進む音だけが響いた。


「……な、何とか言ってください。恥ずかしいじゃないですか……」


「お、俺だって、なあっ」


 初対面の少女から、否、異性からそんなことを言われたのは、今この時この瞬間まで、記憶の限りでは初めてだった。


「できれば、遠慮させてほしいんだが……」


「どうしてですかっ?」


 急に勢い込んで、身を乗り出し悲しそうに、愛美。


「どうしてってっ……あのなあ、ちょっとよく考えてみてくれ。俺たちは今日会ったばかりの初対面だぞ? それで名前で呼び合うってのは、変だろう!?」


「変でもいいじゃないですか、本人たちが納得してればっ」


 叫ぶ寸前の大声のはじめに、愛美も負けじと迫力のある声で聞き返す。


「はじめさんには、私を名前で呼んでほしいんです!」


「……っ」


 絶句してしまうはじめ。


「あのさあ、君……」


「なんですか?」


「……あ、いや……」


 続く言葉を、ぎりぎりになって飲み込むはじめ。


「えっと、普段、周囲から変わってると言われているだろう」


「ど、どうしてそれを!?」


「分かるよ、それくらい……」


 だが、それは悪意を込めてではあるまい。


 何故なら、そんな変人であったからこそ。


 この世知辛い昨今に、見も知らぬ自分を助け、食事を作り、あまつさえ泊まっていけとすら言ってくれているのだろうから。


 はじめは、もう少しのところで、言おうとした言葉を飲み込めたことに安堵した。


“俺を騙して、何か企んでるんじゃないだろうな”という、心の狭い言葉を。




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