運命的な出会い、というもの
春の訪れを告げるそよ風が、少女の顔を優しく撫でる。少女はゆれるお下げを後ろに払い、目を細めながら、自らを撫でるその風を満喫した。
少女の足が、桜の花びらで桃色に染まった山道の中を進んで行く。
春は、新しい一年の始まりの刻。寒冷が去り、温暖が訪れる季節。
少女はこの春、あと数日で新たな生活を迎えることになっている。
自らが、あえて選んだ受験戦争の道。義務教育に別れを告げ、その果てに掴んだ、普通の高校生としての生活を。
長く辛かった受験の日々からの解放感と、無事に志望校に受かった高揚感とで満たされた心。だがそれと同時に、過去の記憶による寂寥感も同時に胸に飛来し、その表情は複雑なものになっていた。
少女にとって、この年の春は特別な季節。
周囲の桜並木と春風、そしてその風に舞う桜の花びらが織り成す幻想的な風景の中、少女は、そんな寂寥感を拭う何か特別なことでも起こってくれないか、という期待を抱いた。
例えば、素敵な出会い。
素敵な、男性と出会いたい。そして燃えるような恋をしたい。
それも、劇的な出会いがしたい。普通に友達から紹介されてとか、クラスや部活で一緒になったから、というのでは、恋愛できないと思っている。少なくとも、少女自身は。
では例えば、どんな出会いがいいのか。
それは例えば、はじめて通う学校の登校中に、ぶつかりあって知り合ったり。
それは例えば、暴漢に襲われそうになっているところを、助けてもらったり。
それは例えば、あそこの人のように道に倒れていて、それを自分が介護してあげたり。
そんな夢想を思い描いて少女は、不意に思考に混入してきた違和感と対峙した。
――あそこの人のように?
自分の視界に映った光景が、夢想の世界に行っていた少女に違和感をもたらし、意識を現実に引き戻す。
白昼夢でもなければ幻覚でもない。歴とした現実として、少女の眼前に一人の青年が桜の花びらに生き埋めとなりかけ、山の道端でうつ伏せに倒れていた。
「も……もしもし、もしもしどうなさいました!?」
慌てて駆け寄ると、少女は倒れている相手を仰向けにして揺さぶった。拍子に、青年の頭に降りかかっていた桜の花びらが地面に舞い落ちる。自らの意志で桜を払うことがない相手に、遠い過去を思い出した少女であったが、今はそれどころではない。
相手がうっすらとまぶたを開けて、自分のほうを見ていることを確認すると、少女は相手の上半身を持ち上げてその顔をのぞき込む。
樹木のごとき長身に、力感と繊細さを同居させた不思議な青年。顔立ちは、研ぎ澄ました刃物のように鋭く整った、精悍なもの。少女の心臓は、その青年に見つめられて、一回大きく動悸した。
そんな、ときめきに胸弾ませた少女の耳に、苦しげな、とぎれとぎれの声が入ってくる。青年が、薄目を開けて少女の方を見、口を開こうとしていた。
「め……」
「め? ……愛美!? 愛美ですか!?」
「めんたいこ」
「……ふざけてます?」
「めし」
「は?」
少女は一瞬、相手の伝える言葉の意味を取り損ねた。
「……ご飯、ですか?」
「……めし……」
それだけ言うと、青年はがっくりとうなだれた。
「ああっ!? もしもし、もしもし、しっかりしてくださーい!」
だが、青年がすでに自分の言葉が届かない状態になっていることは容易に知れた。
気絶した青年と、それを支える少女が一人。
この日少女は、運命的な出会いというものは、実際に起こると実に対処に困るものであるということを知った。
「ありがとう。おいしかったよ」
長ネギの卵雑炊とナスの漬物、そしてご要望にお答えして出されためんたいこをきれいに片付けた後、青年はおさげ髪の少女に微笑んだ。
お礼を言われた少女は、顔をほころばせて「おそまつさまでした」と返し、机の上に置かれた、空の土鍋を持って立ち上がる。
昔の木造住宅を彷彿とさせる、古い造りの家屋。今日の都心ではまず見ることのかなわない広さを誇った、畳式の広間での風景であった。そこには日本刀も飾られており、純和風な雰囲気がある。
「あ、片付けるなら俺が」
青年にすれば、見ず知らずの、決して軽くはなかったであろう自分を、家まで運び、介護し、食事まで作ってくれた相手に、片付けまでさせては厚かましいというものであった。 青年はそう考えたが、
「いいえ、座っていてください」
立ち上がった青年を、少女は柔らかく制する。
「身体を休めていてください。食べたばかりですから、まだ完全ではないはずですよ」
「いや、こう見えてもスポーツをしていた身体らしいからね」
そうして土鍋を受け取ろうとする青年だったが、言ってる側から身体がふらついていた。少女は、相手の「らしい」という不確定な言い方に疑問を抱きつつも、相手の身体への気遣いが先にたった。
「ほら、無理なさらないで。もうすぐ、お医者様もいらっしゃいますから」
「……医者?」
少女に座らされた青年が、医者という言葉に眉をひそめた。
「はい。もしかしたら、空腹だけで倒れたんじゃないかもって思いまして」
ここは山の中なので、連絡してもすぐには来れないんですけどね、というのが少女の弁であった。
「待ってくれ。医者は困る」
それを聞いた青年が、険しい表情を浮かべた。
「……どうしてですか?」
少女としては、そう聞かざるを得ない。警察を避けるというのなら、考えたくはないがまだ理由が想像できる。だが、医者を避けるのはどういう理由からであろう。
「いや、その……だな」
青年は頭を掻いて、視線を部屋の中にさ迷わせる。何事かを思案しているようだった。
「えっと……そう、苦手なんだ」
「……はい?」
目を丸くする少女。
「苦手なんだよ、医者って。あの……訳の分からない、何で出来てるかも知れない薬を、飲まされたり注射されたりするの……なんか、生理的に受け付けないんだ」
自分を見ず、あさっての方を向く青年を、しばし見つめて少女は微笑んだ。
「子供みたいですよ、それじゃあ」
医者と聞いて困惑している青年を、少女は穏やかに諭した。
「そんな理由じゃ、ダメです。やっぱり、お医者様にしっかりと見ていただきましょう」
「本当に勘弁してくれ。頼む」
両手を合わせ、少女を拝む青年。
「ダメです。……えっと」
自分を見つめながら少女が言い淀むのを見て、青年は思ったところを告げた。
「謎の美青年Aでいいよ」
「ちゃんと見てもらわないとダメです謎の美青年Aさん。何しろ倒れていたんですからね謎の美青年Aさんは。分かりましたか謎の美青年Aさん?」
「俺が悪かった」
突っ込みも呆れもしてくれず、真っ向から自分がどれだけ恥ずかしいことをのたまったかを突き付けてくる少女に、青年は頭を下げ降参の意を示した。
しばらくためらっていたが、やがて重い口を開いた。
「田中。田中はじめって言うんだ」
「平凡ですね」
「……非難されてる気がするのは気のせい?」
「だって、間を置いたりしたから、期待しちゃったじゃないですか」
もっと突拍子もない名前が飛び出すものだと思っていた、という訳である。
「じゃあ、どんな名前だと思ったんだい」
「謎の美青年Aさんとか」
「俺が悪うございました。そろそろ勘弁してつかあさい」
青年は土下座した。
「でも、日系三世さんか何かで、英語と日本語の交ざった名前くらいは期待してたのに」
「それは俺のせいじゃない……」
「とにかく。お医者様に見てもらうのは絶対です。いいですね?」
「いいくない」
変な日本語で否定し、青年は断固として首を横に振った。
「世話になったのは感謝してるけど、どうしても医者に見せるというなら、逃げる」
少女はしばし、開いた口が塞がらなくなった。
「それじゃあ本当に子供じゃないですか」
「子供でいい。俺は今、医者とはあえ……、会いたくないんだ」
田中はじめと名乗った青年は、プイと横を向いてしまう。
「だって、町で倒れてたら、どのみち病院に保護されてたと思いますよ?」
そんなにイヤなら、そもそも倒れたりするような真似をしなければいい、と、少女は言外で言っていた。
青年は耳が痛かった。
「だから、それについては感謝してるって……」
「じゃあ感謝していただけるついでに、お医者様に見てもらいましょうね」
はじめは無言で立ち上がった。表情に、それ以上の水掛け論を繰り返すつもりがないという意志を浮かべて。
「世話になったね。いつになるかは分からないけど、このお礼はいつか必ずする」
「ダメです」
しかし、少女がはじめの前に立ちはだかった。
「こうなった以上、最後まで面倒を見ます。さあ、お医者様がいらっしゃるまで、横になって安静にしていましょう。今、空いてる部屋まで案内します」
「そこをどいてくれ」
「ダメです」
しばし無言で、火花を散らして視線をぶつけ合う二人。
「頼むから。女の子に手を上げるような真似はしたくない」
「意気地がなさ過ぎですよ、田中さん」
少々脅かすため、顔をしかめて相手を睨んだはじめだったが、少女の方はそれ以上に毅然とした態度で睨み返してきた。
「お医者様なんて、ちょっと体調のことを聞かれたり、小道具で身体を調べられるだけです。それを怖がるなんて、男らしくありません」
「君に何がっ……」
叫びかけてから、はじめはバツが悪そうに他所を向く。そして、一向にラチがあかないこの状況にピリオドを打とうと決意した。
「……助けてもらった恩人に手荒くするのは忍びないが……」
その瞳に危険な色がはらみ出し、身構え、臨戦態勢を整え出すはじめ。少女はその様子を、眉をひそめて眺めていた。