ニケと夫の出会い
【夫視点】
「それでだねアル、その時にあの俺様陛下は昔から――」
リュシオン――腐れ縁の幼なじみに飲みに付き合わされてもう大分時間が経つ、と思いアルトゥーロが外を見れば夕暮れの赤だった空は紫紺、そして濃紺へと移り変わっていた。
酒が入るとただでさえ口数が多いのがさらに饒舌になるリュシオンは先程から聞いてもいない昔話を披露していて、アルトゥーロは適当に相槌を打ちながら時折酒を口にしていた。
元々あまり酒に強い方ではなかったアルトゥーロがこうして付き合いで飲めるくらいになったのは、最初の上司の――妻の父の影響が大きかった。
事あるごとに口実を作っては部下に食事や酒を振舞っていた上司は決して裕福な貴族ではなかったが、それでも安い給料で働く部下に惜しむことなく奢っていた。
そんな上司の家に招かれたことのある部下は多い。
けれどアルトゥーロは実家が名門伯爵家であることから周囲に遠慮されており、言わば格下である上司の家に招かれるというのは貴族のマナーに反するということで正式に招かれたことは妻との結婚後しかない。
けれど一度だけ、結婚前に上司の家を訪れたことがあった。
確か珍しく部下全員を集めた宴会か何かがあって、アルトゥーロを含めた家格の高い貴族出身者もその宴会には出ていた。
慰労か、似たような名目でその場には普段あまり接することのない高位の武官が居合わせることになっていたからこのような場にわざわざ出てきたのだ、と管を巻くどこぞの貴族の出の同僚を適当にいなしていたアルトゥーロは、本来ならばそのまま帰宅するはずだった。
それが出来なかったのは、余計な気を回してくれたらしい高位の武官達が、わざわざその席にアルトゥーロの父を引っ張り出してきたためだ。
お互いが顔を合わせることなど予期しておらず、とっとと帰ろうとしていたアルトゥーロは折角親子が揃ったのだからと散々引きとめられ、結局最後までその場に残る羽目になってしまった。
だからといって疎遠な父との間に取り立てて会話もなく、どうにか会話を繋げようとする周囲がむしろわずらわしく思えたくらいだ。
そんな苦行をしているような時間から解放されたのは月が空の中心を通り過ぎた頃で、ようやく宴がお開きになった。
ぞろぞろとその場から千鳥足で引き上げて行く武官や兵士達――中には酔いがさめるまでと確実に明日の朝方までここで屍となっている者もいる――に混じってその場を後にしようとしたところで、アルトゥーロは他ならぬ上司に引きとめられた。
「ひっく、アルトゥーロ~、お前も飲んでるか~?」
「……セラピア隊長、もう宴は終わりました」
「分かってるって~、お前も酒の力でちっとは羽目外したらどうだ~?」
「隊長……」
普段は何と言うか、少し気が大きくなるだけの酔い方をする上司も今日ばかりは酒を飲みすぎたのか足元がおぼつかないようだった。
こういう時はまだ意識や足元のはっきりしている同僚や部下が相手を自宅まで送り届けるのが暗黙の了解となっているが、どうしてか今日に限っては上司の同僚や部下が揃って帰ってしまっているか、屍となっているかのどちらかとなっていた。
そうなってくると、この上司を家に送り届けるのはアルトゥーロの役目ということになってくる。
普段なら身分がどうの家格がどうのと口うるさい他の貴族出身者も周囲にはおらず、アルトゥーロは特に思うところもなく上司を家まで送り届けることにした。
馬車を手配し上司と共にそこに乗り込むと、酔っている上司から家の場所を聞き出して御者にそこへ行くように告げる。
家人である御者は貴族であるアルトゥーロが下町と呼ばれる庶民の住む地区にほど近いそこへ行くことに難色を示したが、何かを言うことはなく頷いて手綱を握った。
馬車の中に立ちこめる酒の匂いに、これを嫌う母とは馬車を使い分けていて良かった、なんてアルトゥーロが思っているうちに馬車は暗い夜道を走っていく。
これ以上に日が暮れてしまっては屋敷に帰るのも一苦労になるからだろう。
街灯も貴族の住む区画以外にはあまり設置されていない。これから向かう地区にはほとんどないと思っていいいだろう。
やがて馬車は停まり、御者から到着したということが告げられる。
「セラピア隊長、ご自宅です」
「悪いな、アルトゥーロ」
「いえ」
少しは酔いが覚めたのか、先ほどよりはしっかりした足取りで上司が馬車から降りるのを手伝っていると、馬車に気付いたのか上司の家の中が騒がしくなるのが分かった。
戸口付近の窓から灯りが漏れたかと思うと、カタンとドアが開く。
「父様……?もう、こんなに飲むなんて……」
「おぅ、ニケか」
「足元もふら付いて……デニス兄様、ちょっと来て下さいな」
上司を出迎えたのはまだ若い娘で、親しげなやり取りから上司の娘だと窺えた。
ニケ、と愛称なのかまるで犬猫に付けるような短い名で呼ばれたその娘は上司の姿に少し困ったような顔をして、家の中に呼びかける。
しばらくして出てきたのはアルトゥーロも何度か見たことのある上司の息子で、彼もまた上司の姿に顔をしかめた。
「ニケ、ひょいひょい出迎えんなって言ってんだろうが……って親父かよ。しかも酔っぱらってっし……運んだらいいんだな?」
「えぇ。台所に冷たい水があるから酔い醒ましに……」
「ほっといたら醒めるだろ」
「兄様、」
「へいへい」
ため息をつくと彼は上司の肩を支えつつ、一度だけこちらに頭を下げてから上司を連れて家の中に消えた。
それを見送ってから娘がこちらを向いて口を開く。
上司の娘ならば貴族の令嬢、ということになるが、侍女を通すということはなく話しかけてきた。
「わざわざ父を送ってくださり本当に申し訳ありません、ありがとうございました」
「いや……」
「貧相なところではありますがどうぞ中へ……そちらの方も」
「……もう夜になる、気遣いなくどうぞお休み下さい」
「そうですか……本当にありがとうございました」
「お気になさらず」
躾の行き届いた娘なのか――こう言っては失礼かもしれないが、大雑把なところのある上司の娘とは思えないくらい丁寧な応対だった。
御者も最初こそ頭を下げるだけだった上司の息子に少し不満そうだったが、彼女の丁寧な対応に少しは溜飲が下がったようだ。
家の中に招かれたが、もう夜の帳が完全に降りそうな時間帯になっている。アルトゥーロ自身も屋敷に戻った方がいい時間帯だし、相手にとっても迷惑になるだろう。
そう判断して断れば、申し訳なさそうな顔で頷かれるものだから少し心が痛む。
気にしないようにと言ってから馬車に乗り込むと、彼女が家の中に入ることなく馬車を見送ろうとしているのが目に入った。
年ごろの娘を長く暗い外に出しているのもよろしくはないと御者に合図して急いで馬車を出すよう指示しながらも、もう一度戸口の方を窺う。
貴族の娘らしからぬ動きやすそうな格好をしているが、それは品位を損ねるほどではなく、むしろ清潔そうな印象を与えていた。
髪は垂らさずに後ろで纏められていて、結い方から未婚だと分かる。
ヴィオレット――アルトゥーロの幼なじみの少女のような華やかさはないが、ある種の魅力があると称していいだろう。
彼女を表すいい形容というか、言葉が見つからないうちに馬車が動き出す。
何故か後ろ髪を引かれるような思いで上司の家を後にしつつ、アルトゥーロは馬車の中でしばし考え込む。
煌びやかな宝石やドレスが似合うような雰囲気ではない。それらより似合うのは――
「あぁ……『家庭的』か」
考えて、ようやく自然と言葉が零れ落ちた。
自身に縁遠い類の言葉であるがためにすぐには出てこなかったが、一度口にするとそれはしっくりときた。
彼女は家庭的だった。
心の内でそう繰り返して、奇妙な満足感を覚えながらアルトゥーロは家路に着いたのだった。
――それがただ一度だけ、上司の家を訪れた時のことだ。
柔らかな灯りがもれる、あの温かな場所を。
「だからねアル、あの俺様もそろそろ痛い目を――」
「…………」
かつて訪れた柔らかな雰囲気をたたえた家のことを思い出しながら、アルトゥーロは杯を重ねた。
少し鈍った神経の中で酒が喉を灼く感覚だけが、妙に現実的だった。
End.
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『ニケと夫の出会い』でした。
珍しく夫が喋っております(笑
夫視点は初めてだったのですが、いかがでしたでしょうか?
感想をいただけると嬉しいです。