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もしものはなし②

 陽も落ちて辺りが宵闇に包まれた時分、小さな屋敷の前に一台の馬車が止まる。

 装飾もない馬車は商人らが使うようなものだが、御者や付き従う者たちの視線や足取りには油断も隙もない、よく見れば不思議な一行だった。

 馬車から降りた長身の男に門の陰に潜むように控えていた兵士は、その姿を認めると剣から手を離して敬礼の姿勢を取る。


「おう、お疲れさん」


 足を止めねぎらいの言葉をかけると、男――屋敷の主は、一月ぶりの帰宅に肩の力を抜いた。

 装り気はないが、きちんと掃除された玄関先に、小窓からは暖かな橙色の光がこぼれている。表のざわめきに気づいたのだろう、手をかけるよりも前に深緑に塗られた扉が開く。年頃にしては地味だが、清潔感のある装いの若い娘の顔が暗がりの中でもほころぶのが分かった。


「……お帰りなさいませ旦那様」

「あぁ。留守中ばあさんはどうだった」

「最近は暖かくなってきましたので、お体も楽になったとおっしゃています」


 はやく中に、と一歩脇に退いて娘は男を促した。戦の後処理とはいえ、不在の間心労をかけただろう養い親の様子が心配だった。この一年ほどの間は世話役として娘――ニケがついていてくれたとはいえ、齢を重ねた養い親はいつ風邪をこじらせて儚くなってもおかしくはないのだから。

 まだ肌寒い夜気とはほど遠い、暖められた屋敷に足を踏み入れ、迷うことなく居間に進めばしわくちゃの顔で養母が笑う。


「おかえりサイード。今日はごちそうだよ」

「――ただいまばあさん。そりゃ楽しみだ」


 少年の頃から変わらないやり取りに、サイードも笑った。


 食卓に並べられたのは確かにご馳走で、鶏の丸焼きに、芋とチーズを小麦の生地で包み焼きにしたもの、酒に合いそうな珍味の類まで、手の込んだ品揃えだった。どれもサイードの好物なのは言うまでもない。城で饗されるような豪勢なものよりも、湯気の立ちのぼる素朴な味の方が、舌に合うのだから。

 たんとおあがりと目尻の皺を深める養母に頷いて、グラスに注がれた蒸留酒を口に含む。灼けるような感覚と燻した香りが鼻に抜ける。舌で液体を転がしてから喉の奥へと流し込めば、腹まで熱くなる。ひとしきりその感覚を味わったところで、切り分けられた肉に齧りつく。皮まで香ばしく焼かれた鶏に、少し濃いめに味付けされたソースがまたよく酒に合った。部下の中でも有数の酒豪だった男の娘なだけはあって、よく心得たものだった。


「今日も美味い飯だ。お前も冷めないうちに食うといい」

「そうよニケさん。美味しいものは美味しいうちに食べなきゃ」


 給仕のためにと立ち回っていたニケに声をかければ、お言葉に甘えてと末席に腰を下ろす。高齢の養母とさして変わらぬ量を取り分けるのを見て、もっと食えと笑いながら、サイードは目を細める。


 ――時たま、もし自分に娘がいたならばニケのような娘だろうか、と思うことがあった。


 ただそんな夢想はすぐにサイード自身によって否定される。

 つい昨日帰ったばかりの、こことは違う広い広い屋敷ですれ違った、妻と、彼女によく似た息子のことを思えば、たとえ娘がいたとしても今のようにはならなかっただろう。

 これからまたしばらくは帰らないだろう伯爵家の屋敷を思い出して、ため息がこぼれ落ちそうになるのを押しとどめ、サイードは酒を煽る。

 そして先日疲れた旧友がやるしかないと嘆息していた行事について、ニケに教えてやろうと口を開いた。


「――あぁ、一月後に近衛を中心に御前試合をすることになってな。ニケの兄弟で出るやつがいるようなら言え、席くらいは手配できる」

「まぁ……ありがとうございます旦那さま。ただ私の兄弟には近衛にいるのは一人だけですし、選ばれるかどうかも分かりませんわ」


 ニケは驚いた後に苦笑するが、それでも彼女のたくさんいる兄弟のうち一人くらいは出場を許されそうだとサイードは見ていた。

 なにせ今回の御前試合は貴族どもの要望で急に開催が決まったこともあって、まだ戦地から引き上げが終わっていない精鋭の兵士たちも多い。わざわざ近辺の砦から兵力を呼んだところで物資不足から脱したばかりの都では民の反感を呼ぶだけだろう。となれば、都に残っている兵士たちの中から出場者が選ばれることになる。

 記憶が正しければ、二番目と三番目の兄はもう戦地から戻ってきていたはずだ。弟も少なくとも一人は従軍していたはずだが、そちらは年齢的に厳しいだろう。


「サイードは出ないのかい」


 手巾で口を拭いながら尋ねる養母に、否、と首を振る。


「俺も年だし、こういうのは若いもんに譲るさ」

「凱旋は観れなかったから、もしサイードが出るなら一目でも観たかったんだけどねぇ。たまには着飾って立派な様子を見たくって」


 にこにこと笑う養母に、そういえば控えめなものとはいえ着飾って都に凱旋した時は、折しも寒さも厳しい折で、体調を崩していた養母はとても寒中を待つわけにもいかずに家で過ごしていたのだということを思い出した。

 昔から何かとサイードが盛装するのを楽しみにしていたから、最近その機会に恵まれないのを口惜しく思っていたのだろう。


「おいおい、楽な格好の俺はもうくたびれたおっさんか?」

「おっさんっていうよりは、昔のやんちゃな子どものままみたいなんだもの」


 茶化してみれば、いつまでたっても子ども扱いするかのような返事に、口をつぐむしかない。そんなやり取りに笑いながら、ニケが空いたグラスに蒸留酒を注いでくれる。

 乾いた唇を酒で湿らせて、どうしたものかと思案する。

 元々、対外的には養母の存在を知らせていないこともあって、これまでも何かしらの式典の折りに養母を招くことはあれども、それは高官の親族が居並ぶ席ではなく、あくまで武官の家族や一般の民衆がいるような席で、密かに護衛の者たちをつけてのことだ。

 今回の御前試合でも、養母に席を用意するとしたら、出場する武官の家族たちのための席あたりになるだろう。ならばついでにニケもそこに招いてしまえばいい。

 その思いつきは案外悪くないように思えて、あとは護衛を回せるかどうか確認すればいいと心に留め、パリッと焼かれた肉を頬張る。


 家に帰って温かくて美味い飯を作ってくれるやつがいるというのは、荒んだ戦場を駆け抜けなければならない兵士にとって大事なことだ。妻でも恋人でも、兄弟姉妹でも友人でもいい。帰る場所があって待つ人がいる奴はそれだけで生きようとする。雑草を食み泥水をすすり、矜持をへし折られても生きようとする。

 それが吉と出る時もあれば凶と出る時もあり、サイードにとっては――どうだったのだろうか。考える前に動いていた遠くて近い日の記憶を浮かび上がる前に沈めて、小さな窓から見える空に目をやれば、今宵の月は一際黄金の色濃く、星屑をかすませるほどに輝いていた。


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