もしものはなし①
リハビリがてら書いていたもしもニケが夫とすんなり結婚しないまま世の中がバタバタしたら…?なお話です。
もふもふ成分が少ない…
小分けに投稿します。
特に冷え込んだ朝に、霜の降りた庭を見下ろしてニケはため息をついた。新芽が駄目になるほどではないが、発芽が遅くなる種もあるだろう。決して広くはない庭とはいえ、まだ春と言い切る時分に根を張る草花も少なく、緑よりも霜をまとった土色の方が多い。 ただでさえ戦禍の傷も癒えない折に、市場に並ぶ食糧の値も決して安くはない。少しでも家計の足しになればと始めた家庭菜園の先行きは暗そうだった。
太陽が霜を溶かすまでは様子を見守るしかないだろうと、もう一度ため息をこぼしてからニケは肩にかけたショールがずり落ちそうになるのを手で押さえる。
――今日は旦那様が城から戻られる日なのだから、掃除もいつもより念入りに、料理もいつもより手の込んだものにしなければ。
昼前には市場に行って、奮発して鶏をまるまる一羽買おう。塩と香草で下味をつけて、じっくり焼いた鶏の丸焼きが晩餐の卓上に並ぶのを想像して、他の献立を考える。
「ニケさん」
「おはようございます、おばあさま」
名前を呼ばれて振り返れば、そこには背の曲がり始めた老婆がひとり。この家の女主人に朝の挨拶をして、ニケは朝ご飯にしますね、と微笑んだ。
王宮にほど近い、騎士階級の屋敷が多い一角。屋敷の主の身分にはまるでそぐわない、こじんまりとした屋敷がニケの奉公先だった。
アフマルナール邸。常勝将軍と名高い国の英雄が、若かりし頃住んでいた屋敷に今住むのは、かの人の育ての親である老婆。そして身売り寸前のところをかの人にすくい上げられたニケのみだった。
王弟殿下を筆頭とする急進派の台頭もあってか、西の隣国と交えた先の戦争は当初喧伝されていたような短期決戦とはならず、じわじわと王都にも暗い影を落としていた。
軍に属していたニケの父や兄弟も次々と戦線へ赴いたが、一方で城から支給される給金は月日が流れるうちにじりじりと目減りしていった。
貴族の端くれとはいえ、碌な蓄えも、頼みとする領地からの収入などもない家計は戦火以上に火の車になった。近所の住人たち、父や兄の同僚らも幼い弟たちを抱えたニケらを気遣ってはくれたが、彼らもまた次々に戦地へ旅立ち、あるいは帰りを待つ側となっていく。家財を売っても得られるのは数日分どうにか過ごせるだけの金子で、季節が一巡りする頃、ついにセラピア家の財産は底をついた。
――悪名高い金貸しが、息子の後妻にならないかという話をニケに持ってきたのはそんな時だった。
近所には同じような境遇の娘たちが大勢いたが、その中でニケを名指ししたのは末端とはいえ貴族だったことと、生家の所有していた屋敷の立地が悪くなかったためだろうというのは容易く予想できた。きっとあれこれ難癖をつけるか、言いくるめるかして屋敷と土地を巻き上げるつもりだったのだろう。
父や兄たちさえいれば、最初のうちに蹴っただろう話を――あわや頷く寸前までいったのは、時勢のせいとしかいいようがない。
針仕事もなく、家計をきりつめて少しでも腹にたまる食事を作ってやることしかできなかったニケには、幼い弟たちや甥姪が腹を空かせているのを黙ってこらえ、味のしなくなった
固い干し肉を噛み続けることに胸を痛めることしかできなかった。
相手にと挙げられた、金貸しの息子はニケの兄よりもむしろ父に近いくらいの年齢で、ニケの前に四人の妻を迎え、いずれも適当な理由をつけて離縁したのだという。母や弟らには必死で止められ、戦地に旅立った家族の帰りを待つべきだと言われたが、そんな時間の余裕がないことはニケでさえ分かっていた。
いよいよ後戻りができないところまで来た時、ニケの前に現れたのが将軍の部下と名乗る人だった。
父とも一兵卒の頃からの仲であったのだという、将軍の直属の部下であるその人は一家の事情を知るやいなや将軍に報告し、将軍もすぐに兵士たちの残された家族に仕事を回すよう要請を出してくれた。英雄の要請とあっては城も捨て置けなかったのか、細々とではあるが女子どもへの賃仕事が軍の方から流れてくるようになった。
そうしてようやく暮らしていけるようになった頃、再び戦地へと戻る恩人に、せめてもの礼をと訪れた先で持ちかけられたのが住み込みでの奉公話だ。十日に一度は実家に戻っていいという条件の良さもあり、一も二もなく頷いたのが、およそ一年ほど前。
心労のせいか床に伏しがちな老婦人の身の回りの世話を、というのがまさか将軍その人からの依頼だとは思わなかったが、穏やかで茶目っ気のある女主人に仕えるのは戦中とは思えぬほど穏やかな時間だった。合間に実家から回してもらった針仕事などもこなし、先月終戦の報せと、親兄弟の無事を知ることもできた。苦しい日々だったが、これからはきっと先のことを楽しみに考えることもできるだろう。
――それもすべては、旦那様のおかげだった。
一年の間に、ほんの短い時間ではあったが幾度となく女主人の顔を見に来た将軍からは、直にねぎらいの言葉をかけられ、将軍様では堅苦しいからと、旦那様と呼ぶことを許されている。
かつて部下であったニケの父のことも覚えているぞと笑った旦那様に、ニケは一生お仕えする覚悟を決めていた。
戦の始まる前には、ニケの縁談もそろそろ考えなければいけないと父が渋い顔をしていたが、具体的な話がまとまることはなかったし、そうこうしているうちにニケも俗に言う適齢期というやつをいささか過ぎてしまっている。何より持参金も用意できそうにないし、それは父がニケの相手にと考えていただろう若い兵士たちも同じことだろう。
旦那様がお許しくださる限り、おばあさまと旦那様のお世話をさせていただこう。
そう思えば毎日の仕事にも張り合いが出るというもので、太陽が空の真上にさしかかる頃には掃除も終わり、寝具に敷く真白い布が風に揺れていた。
「おばあさま、市場で鶏を買ってきますね。暖炉には火を入れておきますが、寒いようなら毛皮も出していますから」
「はいはい。あの子がせっかく帰ってきてくれる日だもの、大人しくしてますとも」
ころころと笑う女主人にニケも笑って、籠と、朝食ついでに作っておいた軽食の包みを手に母屋を出る。門扉の陰の、目立たないところで警護の任についている兵士がニケに気づいて目礼を寄越す。
すぐそこの市場なのですぐに戻りますと行き先を告げ、手にしていた包みをお昼にどうぞ、と差し出した。
「いつもながらすいません……ありがたく頂戴します。『旦那様』の帰りは予定通り夕方になりそうだと、知らせが来ていました」
「そうですか。なら晩の食事の支度を急がなくてはいけませんね。いってきます」
「お気を付けて」
屋敷から一番近い市場までは大通りを一区画ほど歩けばよく、鶏一羽と少々の買い物ならばニケ一人でも十分人手は足りる。それに日中出歩く分には警邏の兵士たちも多いことから、破落戸に絡まれる心配もない。
すれ違う人々も、数ヶ月前に比べれば随分と明るい表情で、中には花を手にしている人もいる。顔見知りと挨拶を交わしつつ、賑やかな市場の一角へ足を踏み入れた。買い物をする店はだいたい決まっているので、足取りに迷いはない。
「こんにちはお嬢さん、葡萄酒でもお探しかい?」
「こんにちは。今日は蒸留酒でいいのがないかと思って。そんなに量はなくていいんだけれど」
まず足を向けたのは酒屋で、つんと香る酒気にくらりとしつつ店主に問いかける。飄々とした店主は棚に並んだ小さな樽を見比べてはいくつかを指さした。
「一昨日北から仕入れたのがあるぜ。おすすめはこのあたりだが、普段はどこのを飲んでるんだ?」
「リエッタ産と、ソルトラント産かしら」
「渋い趣味だ。リエッタは切らしてるが、ソルトラントはいいのが入った。5年物だがいい味だ」
ならそれを小瓶で一つ、と注文して店主に銀貨を渡す。以前ならこれで銅貨のお釣りが寄越されたが、まだ嗜好品類の値は高止まりを続けているようだ。
酒屋を出てからも香草や果物をいくつか買って、最後にようやく肉を扱う店に足を向ける。幸い今朝絞めたのだという鶏を買うことができ、ずっしりとした籠を下げての帰路になった。 蒸留酒を小瓶で買ったのは正解だったと思いながら屋敷に戻り、女主人に挨拶をすれば後はひたすら台所での包丁しごとだ。
羽と内臓の処理されている鶏に、下味をつけていくところから始めなければ。
「……よし」
敬愛する旦那様のため、ニケは腕によりをかけて食事の支度に取りかかるのだった。