カマルが大人になった夢を見るニケ
冬の、まだまだ太陽も低い時分には内陸にある都も冷え込んでいる。霜も降りれば、外に汲みおいた水に氷が張ることも珍しくない。
外の寒さは伯爵家の屋敷の中にも忍び込んできており、生家にいた時よりはるかに暖かくなったとはいえニケにとってはつらい季節がやってきていた。
ようやくニケの熱もあって冷たさを感じることのなくなった寝具の中でうとうとと微睡みながら、ニケはほぅ、と息をついた。
暦が一回りする時節のため、城で行われる式典の警備の関係で夫はここの数日近衛宿舎に泊まることが続いており屋敷には従卒や使用人が身の回りのものを取りに戻るだけだ。
(アルトゥーロ様がいらっしゃると温かいから、余計独り寝がつらいのかしら)
微睡みの中ぼんやりした頭でそんなことを考えながらニケは目を閉じる。
肌触りのいい織物とニケの熱とがあいまった暖かさに包まれていれば、ほどなくニケの意識はするりと夜の底へ吸い込まれていった。
ふわり、と光を反射して銀が舞う。
毛足の長い尾は太く、そして長い。ニケが見たことのある中では狐の尾に近いのかもしれないが、また違う形の尾はひょこひょこと左右に絶え間なく揺れていた。
「――さま」
尾の先から視線を上げていけば滑らかな筋肉に包まれた四肢を備えた体と、尾と同じ色の少し長い髪を持った少年がこちらに向かって微笑んでいる。陽の光を浴びてきらきらと輝く瞳に、ニケは少年が最愛の我が子だということに気付いて手を振った。
カマル、と名を呼べば手に草の束を持った子どもはあっという間に距離を詰めてニケの目の前までやってきた。
「かかさま」
大きな三角の耳はぴょこりと立って、先の方が光に透けて冬の白雪のようだ。
まだ成長途中の、若木のようなという形容がよく似合う体はきっと俊敏に粘り強く動き回るのだろうことが見て取れた。同じ年頃の獣人の子らと庭を駆けていてもカマルはいつだって最後まで元気に走り回っているのだから。追いつけないほどの速さでなくとも、辛抱強く相手に喰らいついていくことができる。生き残りやすい質かもしれないと、義父だって笑っていた。
ふわふわと思考がまとまらない中で、ニケはそっと手を伸ばしてカマルが差し出した草の束を受け取った。風邪をひいているのか匂いは分からないが、特徴的な葉の形はニケが好んでポプリにしている香草で、カマルがニケのために採ってきてくれたことは分かった。
ありがとうカマル。今度は一緒に採りに行きたいわ。
「たくさん生えてきたから、俺が摘んで束にして持ってくる」
あら、優しいのね。
「だってかかさま、今は行けないから。ちーを連れて行ったら持てない、から」
おかしそうにカマルが笑う。
ニケから視線を逸らしたカマルは、近くにあった籠の中をそろそろと覗き込んで肩を竦めて見せた。義父にそっくりなその仕草につい笑ってしまいながら、ニケも籠の中を見る。
カマルの毛のような純白の色をした布に包まれて、ニケと同じ緑の目をした赤ん坊がけらけらと笑っていた。
「かかさまがちーを抱いて、俺がちーとかかさまを庭まで抱き上げて行ったら帰りが困る」
まだゆっくりしてる時期なんでしょうと誇らしげに胸を張ってみせるカマルに、ニケはぽかんと口をあけてしまう。
座っているニケが立ったとしても、背丈はカマルの方が高いだろうか。まだまだ細くとも筋肉のついた腕にかかれば、ニケを抱き上げてしまうことなど容易いのだろうか。
カマルに抱っこされるだなんて、出逢った頃の二人をくるりとひっくり返したようだ。
その光景を思い浮かべてみても、今一つしっくりくることはなくて、どこか奇妙な感じがした。
けれど。
「……もう少ししたら、連れて行ってくれるかしら」
「ん!」
ニケの知る、誇らしげな頷きにふふ、と唇から吐息が零れていく。
小さかったカマルの腕に抱かれて庭を行くなんて、夢みたいね。
――とても、いい夢だ。
ひやりと夜着越しでも肌を突き刺すような冷たさに、ニケは重い瞼を上げた。
燭台の揺れるあかりとニケとの間に、黒い影がある。
警護の手厚い母屋の寝所に、断りもなく入ってこれる人間など、夫以外にはいやしない。
「……アルトゥーロさま……?」
お帰りですか、と続けようとした言葉の前に、ニケの頬に熱い指先が触れる。
唇を閉ざしたニケの目が、ようやく闇に慣れて間近にある夫の顔かたちが分かるようになった頃にニケの耳を夫の声が震わせた。
「――あと十日もすれば、祝賀の儀も終わる。一日か二日は、休みを取ることになっている。まだ寒いがどこかへ行こう」
「……はい」
よく話の流れが読み込めないままに、ニケはこくりと頷いた。上体を起こそうとした動きは夫の手に制され、まだ温もりの残る寝具の中に包まれる。
同じく夜着を纏った夫が体をニケの隣に滑り込ませ、首元に顔をうずめた。
「……どこか行きたいところがあるのなら、手配させるが」
「い、え……特に行きたいところは……まだ冬の終わりも見えない時分ですから、外に赴くよりも屋敷でゆっくり休養を取られる方がよろしいのではないでしょうか。このところずっと詰めておられましたし……」
まだ回らない頭のせいか、ニケの声は時折震えてか細くなる。
今は何時ごろなのか分からないが、朝は遠いだろう。
夫の肌からは湯の後に使う香油の匂いがして、ニケの頭はますますくらりとした。
そんなことには気付いていないのだろう夫はニケの肩に頭を委ねたまま息を吐く。
「――連れて行ってと、言っていただろう」
「はぁ……」
「……夢でも見ていたのか」
夫の言葉に思い至ることがないまま、ニケは落ちそうになる瞼を必死で押し上げながら思考を巡らせる。
夢。
(ゆめ……)
夢と言われてはっきり思い浮かぶものも正直なところないのだが、今夜はとてもいい夢に恵まれていたような気がする。
明確なものはないが、今肌に触れる毛織物のようにふわふわとした夢心地だった。
「いいゆめでしたが……ふわふわの……」
「ニケ?……あぁ、無理に起こして……すまなかったな」
こめかみに柔らかいものが触れる。
この感触とはまた違っていたなと考えているうちに、ニケの瞼は落ちてしまっていた。