アンケート番外編①
拍手にて連載中の番外編、1~3ページをまとめたものです。
続きは拍手ページにて。
吐いた息が白くけぶる。
指先に息を吹きかけてはすり合わせ、かじかむ指で先日編み上げたばかりのショールを羽織ってニケは暖炉に小さなやかんをかける。
ニケの他に数人が寝起きするこの狭い部屋には竈こそないものの、小さいながらも暖炉が設けられている。下働きの下女達の部屋にはないが、位こそ低いとはいえ貴族や騎士階級の子女が大半を占める女官の部屋にはこうしたところがいくつかあって、こうして起きてすぐに熱い紅茶が飲めるのはありがたかった。
同じ部屋の友人はまだ寝ているのか他に物音はせず、時折ぱちぱちと薪のはぜる音が部屋に響いていた。
やかんに汲み置いてある水を鉢から移した時に残り少なくなっていたから今日にでも新しいものを運びいれて貰うように頼まなければ、と心にとめ置いたところで沸いたお湯で紅茶を淹れる。本当は予めポットとカップも温めておいた方がいいのだが、自分しか飲まないのだからとニケはそれを省略した。
城から支給されている砂糖――庶民の間では贅沢品ではある――を控え目にスプーンひと匙ほど入れて、ニケはカップに口をつける。白い地に深い緑で蔦模様が描かれたそれはニケが女官として得た初めての収入で買い求めたものだ。友人には地味すぎないか、と眉をしかめられたがニケはこれを気にいっていて、冷え込んできたここ最近は毎朝このカップで紅茶を飲んでいる。
一服した後でニケが身支度を始めた頃に、友人が起きて暖炉の前の椅子に腰かけた。その時にはニケはもう髪を結い上げ始めていて、友人は肩をすくませた。
「あいかわらず早起きね、ニケは」
「家にいた時からこれくらいには起きていたから」
「私なんて未だに慣れないわよ……ま、寝坊なんて真似はしないけど」
貧しい男爵家出身のニケと同じような出身の彼女は父親が騎士階級で、兄が下級文官として城の書庫に勤めているらしかった。父親と兄の収入だけでも生活には困らないのだが、結婚の際の箔をつけるために城勤めを始めた彼女に女官の仕事は合っていたらしく、ニケとの付き合いは二年になろうとしていた。
お互いそう高位の家の出ではないことや、玉の輿を望んでいないこと、月々少しではあるが家族に給金の一部を送っていることなど、共通点の多かった二人はたくさんの女官の同僚の中でも仲が良く、表に立つのが苦にならない彼女を裏でニケが支えるなどしてよく働いていた。
「今日は演習訓練も近いからニケの職場騒がしそうだし気をつけなさいよ? あんまり言いたくはないけど普段はそっちに行かないような野郎共も押し掛けるんだから」
「えぇ。アリエーヌも気をつけてね」
「私の方はうちの兄さんみたいななよなよしい野郎共ばっかりだから大丈夫よ」
にっこりと笑う友人――アリエーヌにニケも笑って、結い上げた髪に深い緑のビロードに銀糸で刺繍を施したリボンを結び付けた。この二年ですっかり手慣れた化粧をゆっくりと施していくニケを見ながらアリエーヌは顎に手を当ててニケの顔をとっくりと見つめる。
「もっと鮮やかな色とか使ってみたらどうなの?」
「美人でもないんだから、私にはこれくらいでいいのよ」
地味な色合いの多いニケの化粧道具を見ては首を傾げて納得がいかないといった様子のアリエーヌに早く支度した方がいいわ、と言った後でニケは鏡を見た。その中にはいつも通りの地味な装いの自分がいる。
「……今日も頑張らないと」
朝食を取った後、彼女の職場である文書を作成する文官の働く区画へ行くアリエーヌとは途中で分かれて、ニケは自分の職場――軍を司る文官や武官が入り混じる区画へ足を踏み入れた。
まだ早い時間とはいえちらほらと剣を腰に下げた見回りの武官や騎士、文官に礼をして女官の控室に行くと、まだ幼い女官見習いの少女が今にも泣き出しそうな様子で震えている。
「どうしたのですか?」
「ニケ様……その、鍛練場の方に用事ついでで人を呼びに行ってくれと頼まれたのですが……その、怖くて」
俯いた少女に、ニケは涙の理由を察して頷いた。
今日はアリエーヌが言っていたように軍の方で演習訓練が近いのもあって、普段はこの区画に足を踏み入れないような武官や兵士――大抵の場合彼等は厳つい外見――が行き交っている。まだ見習いを始めて間もない少女にしてみれば、貴族の子弟が多い近衛以外の兵士にはまだ慣れないのだろう。いずれは慣れなければならないこととはいえ、今日ばかりは仕方ない、と判断したニケは少女を安心させるために笑みを浮かべた。
「そうですか、今日は私が外に行く用事をしますから、あなたは他の子について内の仕事をこなしてくださいね」
「も、申し訳ありませんニケ様……」
「何か分からないことがあれば他の子に聞いてくださいね」
うなだれる少女にそう言い含め、ニケは彼女に託された用事の内容を詳しく聞くと足早に訓練場の方へと向かった。
訓練場は部屋からそう離れていないのだが、何分時間帯もあって通路は武官でごった返している。大柄な彼等の間を縫って訓練場にまで行くのは骨が折れるだろうと判断したニケは下働きの者が多く使う通路の方へと滑り込んだ。案の定表よりも人通りは疎らで、ニケは思っていたよりも早く訓練場近くまで辿り着くことが出来た。
大柄な男達がごった返す訓練場の入り口付近で、ニケは顔見知りの従卒を見つけて声をかける。
「クリストフ」
「え……あ、ニケ様! おはようございます」
「おはよう」
声をかけられ振り向いてニケに頭を下げた従卒、クリストフは末端とはいえ近衛に所属しているニケの次兄付きの従卒で、お互い上の言いつけで職場を行き来することもあり何度となく言葉をかわしていた。時間帯や日取りを考えて侍女のニケがこの場にいることに理由があるのを察したらしいクリストフは首を傾げて何か御用ですか、と聞いてくる。
察しのいいクリストフにニケは兄が彼のような部下を持っていることを喜びつつ首を縦に振った。
「軍務大臣がお聞きしたいことがあるそうで、近衛第一隊のネグロペルラ隊長をお呼びなのですが、呼んできていただけるでしょうか? 召集状はこちらにあります」
「す、すぐにお呼びして参りますのでお待ちくださいっ」
ニケが見習いの少女から預かった召集状――というには走り書きに近い羊皮紙をクリストフに差し出すと、クリストフはろくに確認もしないまま慌てて踵を返した。慌ただしいその様子を少し微笑ましく思いつつ、ニケは邪魔にならないように入り口の端の方に身を寄せる。
父だけでなく兄弟の多くが軍属ということもあってか頻繁に顔見知りの兵士や騎士がニケの前を通り、その度に驚いた顔をしては何かれと言葉をかけてくれるのがありがたくて、ニケは頭を下げた。多くは兄弟の同僚である彼等が、クリストフが来るまでニケの側にいて見慣れない兵士達がからかい半分で声をかけようとするのに睨みをきかせてくれたのもニケにとっては助かった。箱入り娘というわけではないが、大勢の前であまり強く断ることが相手の矜持を傷付けることもあるのをニケは知っていた。
そうしてクリストフを待っているうちに、兵士達だけでなく騎士や武官達までもがざわめく気配にニケは視線を訓練場の奥の方へとやる。
自然と割れていく人混みの先にいたのは、頬を紅潮させたクリストフと、彼に先導される黒い隊長服――精鋭近衛の隊長のみに許された装束を纏った、背の高い艶やかな黒髪が印象的な武官の姿だった。
ネグロペルラ隊長、とどこからともなく人垣の中から声が漏れる。軍属の者にとっては憧れに近い場所にいる男がそこにいるのだから、その先導を務めているクリストフだけでなく居合わせた兵士や騎士、武官達の憧憬の眼差しも無理はなかった。
今では近衛の隊長にまで上り詰めた彼が駆け出しの頃は自分の父の部下だったというのが未だに信じられない、とニケは内心で溜息をつきつつ、こちらに向かってくる彼のために礼を取った。
クリストフに促されニケから五、六歩離れたところで足を止めたネグロペルラ隊長に、ニケはすっと頭を下げた。そしてそのまま応答が許されるのを待つ。そうして待っていると、形式通りにクリストフが隊長に声をかける。
「ネグロペルラ隊長、軍務大臣がお呼びとのことです」
「分かった……私はこのまま行く、隊員の指揮は副隊長に」
「了解しました」
本当に危急の用件ならばニケや見習いの女官ではなく、文官か武官が鍛練場まで走って来ることが分かっており、他に大勢の目もあるために形式張ったやり取りになっているせいで、ニケは周囲から注がれる視線に身を固くしていた。たとえ視線の向かう先が自分ではなく堂々と召集状に目を通している隊長だとしても、それに近い位置にいるニケも見られている気になるのだ。
もし見習いの少女がこの状況に置かれていれば、遠くへ気をやってしまっていたかもしれない。そう考えればニケが代わりに来たのは正しい選択だったと言えるだろう。
それでも欲を言うのならこの状況から早く解放されたい、と不謹慎ながらも考えたニケの祈りを神は聞き届けたのか、隊長は手短にクリストフに指示を出すと副官に後を任せニケに頭を上げるよう促した。
「案内を」
「かしこまりました」
頭を上げてニケはくるりと踵を返し、つい先程来た道ではなく正式な通路を通って元いた場所――ニケが配属された職場である軍部へと帰るべく、足を踏み出した。
伏せ目がちであるにもかかわらず向けられる視線、正確に言うならば背後を歩く黒装束の武人に向けられる視線に、クリストフのように先導を務められることを素直に喜べたなら、とニケは内心で溜息をつくのだった。
鍛練場を抜けてしばらくすると流石に武官の姿も目に見えて少なくなり、二人に向けられる視線は格段に減った。途端にいつもの落ち着きを取り戻した自分の未熟さを痛感しつつ、珍しく他に人影がない回廊を歩いていると、後ろから声がかかった。
「……あなたを見るのは久しぶりだな、ニケ嬢」
誰、と聞くまでもなくニケ以外に一人しかいないこの場所だ。
ニケは足を止めて振り向こうとしたがそのままで、と振り向く前に声がかかり、女官としての礼儀に反していることを心苦しく思いながらもゆっくりとした歩みのまま口を開いた。
「はい。隊長が昇進されてからは同じ区画の中でも鍛錬場とは反対の場所を担当させていただいておりましたので、こうしてお顔を拝見するのは久しぶりになります」
「……以前はあちらの方でも顔を見かけていたが」
「はい。ただ女官の方で最近その、配置変更がありまして……今は見習いの者達の指導に回っております」
口には出さないが、隊長――国でも指折りの伯爵家の跡取りであり、実力でもって精鋭である近衛の隊長にまで上り詰め、国王陛下の覚えもめでたい上に容姿まで整った未婚の隊長が出入りする区画ともなれば、目敏い女官達の間で配属争いが起こるのだ。
そうでなくとも近衛の隊員が出入りする区画は結婚相手や恋人を見つけたい女官からの人気が高いのに、隊長という何拍子も揃った男が頻繁に顔を出す区画ともなればそれはもう口には出せないような壮絶な争いが繰り広げられていた。ニケ自身は人気のない他の区画を希望していたために巻き込まれることはなかったのだが、普段澄ました顔の同僚達があれこれと策を練り配属を狙っている光景はなかなか恐ろしいものがあった。
ともかく、隊長の昇進と女官の配置変更が起こった結果、ニケは今まで比較的多めに顔を合わせていた隊長とほとんど出くわすことがなくなっていたのだ。
口を濁したニケにそうか、と頷いた隊長にニケはどうしたらいいのか分からず頭を抱える。
寡黙な質の人であるはずが、ニケがかつての自分の上司の一人娘ということもあってか、ニケがやっかみを受けない範囲で声をかけてくれることに否を唱えるつもりはない。ニケもよく知った名前の人達の話が中心で、家を出ているニケにとってはそんな話も嬉しいものだ。
だが、それでもニケから話しかけるということはいつまでたっても慣れないし、慣れるものでもないとニケは考えていた。
別に玉の輿を狙って城で働いているわけでもなく、与えられた仕事を淡々とこなしている自分は隊長を見れば秋波を送るような同僚達に比べればこうして話しかけやすいのもあるのかもしれない、とニケは思うのだが、自分には過分すぎる気遣いには度々委縮してしまうのだった。
それにニケ嬢、という呼び名にも慣れないものを感じていた。貴族といえども端くれに過ぎないニケが育ったのは下町に近いところで、ニケに対する呼びかけもそんな丁寧なものではなかった。あって『ニケさん』や『ニケちゃん』といったものだ。流石にそこまで砕けた呼び名を城で使う訳にはいかないのだろうし、『ニケ殿』というのも一介の女官であるニケには丁寧すぎるだろう。
それでも二人しかいないのだから、わざわざ名前を呼ばなくても通じるのでは、と思ってしまうのだ。『ニケ嬢』という呼び名が彼なりの誠意だと思うと止めて欲しいとも言えずに今に至っているわけなのだが。
ニケが気まずさを感じているうちに二人は目的地に着き、扉の前の警護兵が扉を開けたところでニケは端に寄って頭を下げた。
「では私はこれで」
「あぁ……御苦労」
一度頷いて扉の向こうへと消えた隊長に礼をし、扉が閉まり切る音を聞いてからニケは体を起こす。顔見知りの警護兵からの労いを受けた後で、ニケは控えの部屋に戻るべく足を進めるのだった。




