《天国の遊戯》
いつか私自身が見た「夢」の出来事を小説に。人が生き続けるのはどこか、まだ世界の何かに満足しきれていないからだと思います。
天空に広がっている真っ白なフィールド。ちょうど正方形で広さは学校の体育館よりは少し狭い。例えるなら、一本の大きな柱が立っていて、ここはその頂上だった。眼下にあるものは雲ばかりで、緩やかに流れている。時節切れ目から覗く青い部分は海だ。
フィールドに存在しているものは九十九のヒト。年齢幅は、還暦を迎えているものからまだ成人に満たないものと幅広い。四角の四隅にあるエレベーターは一人用のもので――海上から雲より高いここまで、ただ真っ直ぐ伸びている――それを使い彼らはやってきた。
世界一の幸福者になるために。
大会というよりも試練に近いものに、九十九のヒトが挑もうとしている。文字通り世界一になれるものは一人だけの試練だ。
ただ、彼らの中には、他を蹴落とし実害を与えてまで世界一になろうとするものはいない。……これから現れるとも限らないが。それぞれが個人で挑み自分を向上させる(しあわせにする)ために、参加しているものが彼らだった。それには試練の内容が大きく関わっているからだ。
北のエレベーターが開き、一人現れた。まだ十くらいの少年だ。
参加者が揃った。
どうやってタイミングを計ったのか定かではない。少年がフィールドに立ったとき四隅のエレベーターが柱の中へ消えた。これで参加者は増えることもなく、減ることもない。
エレベーターの消失とすれ違うかのようにフィールドの中央からスピーカーが現れた。新品の時よりも清潔なのではないかと見えるそれは、四メートルほどの高さで止まった。
「皆様、よく集まってくれました」
天空に、邪なものさえ浄化してしまうのではないかと思われる、清廉な声が響いた。男のものか女のものか、不思議と分からない。音は両性を超越していた。
「始めに謝罪しなくてはならないことがあります」
天空に声が響く間も、百となったヒトは静かだ。もとより彼らはここに来たときからずっと声をたてずに静かにしていた。
「途中までお昇りだった、東・西・南のエレベーターをご利用の方々。誠に申し訳ございません。参加者が規定数に達しました。また地上でお待ちの方々も、今回は恐縮ですがお引き取りお願いいたします」
エレベーターが利用できなくなった時点で志願者に選択の余地などなかった。だが憤りを感じているものはいない。なぜなら天空に響く声には本物の慈悲が表れており、また聞くものもそうとしか感じられなかった。その声の前に憤りという感情が存在できる訳がなかった。
「次回もいつ開催するかは未定です。ですがよろしければ、ご存知になられた際によろしくお願いしたいと心より思っています」
参加できなかった志願者には、こうして締められるのが常だ。
声は参加者へと向けられた。
「参加者の皆様。改めてお礼申し上げます。こちら《天国の遊戯(Heaven's game)》に参加していただきありがとうございます」
「ルールの説明をさせていただきます」
柱の一部が変形し始めた。
「これから皆様には世界各地を巡っていただくことになります。ルートはスタート時にお配りいたしますが、誰一人同じように巡ることがないルートとなっております」
「ルートに沿って進むことで、皆様は必ず試練と衝突するでしょう」
「それらを超えるには、皆様の《心》が必要です。
他を信じ敬う《信仰》
欲望に支配されず自らを抑える《節制》
正しい道理を貫き通す《正義》
未来を信じ明るく見通す《希望》
世の中の摂理を見極める《分別》
他の不条理に屈しない《忍耐》
そして不条理すらもあわれむ深い《慈悲》
これらの《心》がなくてはなりません」
「もちろん、世界を巡るためには、知識も運動能力も必要となります」
「ですが、先ほどの七つがあれば幸福者となる器は十分にあります」
「世界を巡り再びこちらへお戻りください」
「期間は問いません。ちなみに前回のルートを巡り、ここへ戻られた幸福者の方は五年かけられました」
「今回は前回より長いルートを設定しましたので五年以上は必要になるかと思われます」
「皆様の《心》を用いて健闘してください」
その言葉が終わる頃には、端の見えない階段が一つ出現していた。天空から下界まで結ぶ階段は、手すりもなければ補強されているようなものもない。遠くから見れば一本の柱から斜めに線が入っているようにしか見えない。それを恐れるヒトはここにいない。
「では始めます」
どこから現れたのか、ルートが記された紙が百のヒトの足下にあった。ほとんど無意識だったのだろうが、全員が同時に拾った。
「皆様――幸福者となりましょう」
《天国の遊戯》が始まった。
生存率は九九パーセント。《天国の遊戯》は世界一の幸福者になるためにあるが、だからと言って危険はない。地上に降り立った人々は、主に他者と関わった。それが試練だ。
どんなヒトと関わるかは、その地域にいる《天国の遊戯》の使者が指示することになっている。子供と関わることもある。無職者と関わることもある。犯罪者と関わることもある。そして多くの人と関わるのだ。
どんな風に関わるかは個人の自由だ。しかし関わりを投げ出すことだけは絶対に許されない。それだけを厳守する。それを様々な土地で繰り返し続けなくてはならない。一つ一つの試練達成条件は、関わった個人と心を通わせることだった。
参加者は人々の付き合いを通じて、心を通わせるために他者を信じた。他者から甘い誘惑があっても自分を抑えた。悪人には正しい道を教え、不条理になじられても屈せず貫き通した。自分のしていることを正しいと信じ、幸せになれると未来を信じた。複雑な関わりがあっても正しさを見極めた。何人も等しく愛した。参加者は他者に《心》を与え、心を通わせることを続けたのだ。
他者と心を通わせるということは、自分も同じものを得るということだった。参加者は関わった人の分だけ信頼を得た。欲望に耐えたことは本人の意志を強くさせた。正しい道を教えることは、自分自身が正しさをより理解することだった。幸せだと信じる未来は他者と共に幸せを感じられるものだった。正しく見極めようとする行為そのものが他者の共感を呼んだ。そして人々を愛し続けたものは誰からも愛されるものとなったのだ。
心を通わせ続けながら、参加者は自分が《天国の遊戯》に参加している理由も正しいと思っていた。故に、もう一度スタート地点へ戻ることをやめることはなかった。そうすることが参加者の大きな目標ともなっていたから。
下から見上げる。見えるものは端の見えない階段だ。今いるのは二人。これは今までの《天国の遊戯》ではかなり珍しい。青年と中年の男性だった。ここに、二人は十年かけて来た。九十八のヒトはここに来るつもりはあっても彼らよりは遅かった。体力的にというより、彼らは心を通わせることが上手であったのだろう。
青年が声をかけた。
――あなたと俺。どちらかが一番ですね。
その声は十年前にこの頂上で聞いた声の質に近くなっていた。
――そうみたいだ。お互い頑張ろう。
答える声もその質と似ている。
交わした言葉はそれだけだった。彼らもまた同じことをしてきただけに心は通じていたからだ。あとは自分たちの目標を完遂するだけ。向上心だけを持って二人は走り出した。
果ての見えない頂上は見えないだけで、確実にある。走り続け、そしてたどり着いたのは一人だった。青年はまだ遠く後ろのほうにいる。中年男性が頂上に一人いた。
四角の中央にはまだスピーカーがあった。
「おめでとうございます」
男性はその声に耳を傾ける。
「もうあなたは世界一の幸福者ですね」
声はそれでやんだ。
世界一幸せになれる。そう聞いてこの試練に参加した。己の《心》を試した。
……しかし憤りはなかった。
言葉の通りだったから。
男性が歩き出した。フィールドの端に立つ。
世界を巡り信頼も正義も愛も得た。美徳の全てを得てしまった。この世界で得られる感動も喜びも十分に得てしまった。最大の目標となっていることも完遂した。……あとこの世界には何がある?
――あぁ、この世界はもう満足だ。
端に立った者はそこから飛び降りた。世界から消えた。生存率は九十九パーセント。
青年が頂上へと立つ。
――一番になれなかったな。
「あなたは次回参加しますか?」
――まだ満足できないし、次もやってみようかな。
十年前少年だった、青年はその思いを抱いて地上へ戻った。
地上に戻って振り返ると、階段も柱もなくなっていた。天界の遊び(Heaven's game)は、次はいつ行われるのだろう……。
自殺する必要があるのかどうかについて、私自身に深い考えがあるわけではありません。ただ、書いてみたくなりました。