第八話
朝の光が、隔離区画を淡く照らしていた。
綾瀬玲は旧研究所の入口に立ち、自分の両手を何度も見つめた。輪郭は戻っている。触感もある。「自分の手だ」という確信も、以前よりはっきりしていた。しかし、完全ではなかった。指の先に、時折、透明になるような残像が走る。境界は修復されつつあるが、傷は残っている。
轟の声が、安定した回線で届いた。遮断網が部分的に機能し始め、局所的な神経リンクが復活していた。
《数値を更新した。集合状態は現在38〜39%前後で推移。個別感染層が54%超、未感染回復が7%程度。ノイズと遮断の複合効果で、進行は確実に逆転している》
玲は小さく息を吐いた。
「……まだ、奴らは強い」
事実、残された集合状態のポケットは、激しく抵抗していた。均質化を守ろうとする強い共鳴が、ところどころで再燃する。人々が一瞬、再び同じ方向を向き、「消える」と呟きかける。しかし、そのたびに個別感染層から送られるノイズが、それを打ち消す。病的な同期を解除する刺激が、刺激停止後も長期的な脱同期効果をもたらすように、ここでもノイズと遮断は、単なる一時的な妨害を超えて、ネットワークの結合そのものを弱め始めていた。多安定な神経ネットワークでは、病的な同期状態と生理的な脱同期状態が共存しうる。玲たちの介入は、システムを後者のアトラクターへ押しやりつつあった。
街の風景は、大きく変わり始めていた。
昨日まで一糸乱れぬ動きをしていた人々が、ばらばらに歩き出す。自分の影を確かめ、隣の人間と距離を取り、小さく会話を交わす者もいる。デジタル空間での共有妄想が、誘発者からの分離によって部分回復するように、ここでも「分離」が個を呼び覚ましていた。しかし、回復は一様ではない。一部の人々は、まだ深い集合状態に留まり、虚ろな目で空を見上げている。ウィルスが細胞に残す痕跡のように、エクリプスもまた、感染した脳に長期的な変化を残していた。自己認識は戻っても、境界の感覚が以前より曖昧なままの者が少なくない。
玲は、研究所の奥へ引き返す。データコアはまだ微かに光っている。原点の亀裂は、彼女のノイズによって大きく広がっていたが、完全には崩壊していなかった。
科学者の残影が、弱々しく浮かぶ。
「……これ以上やると、本当に壊れる。溶解が不完全なまま進めば、私たちは最適化に失敗する。残された集合は、より攻撃的になる」
「攻撃的になってもいい」
玲はコアに手を置いた。
「個が戻るなら」
そのとき、集合意識の残りが、新たな動きを見せた。
残された39%のポケットが、突然、協調して玲に集中攻撃を仕掛けてきた。思考の挿入が、これまでで最も激しい。視界が白く染まり、手が再び溶けかける。今度は、単なる上書きではない。残された集合が、自らの一部を犠牲にしてでも、ノイズのハブである玲を消去しようとしていた。自己複製AIが進化の過程で見せた「犠牲的行動」——個を捨てて集団を守る——が、ここで再現されていた。
玲の意識が、大きく揺れた。
膝が折れる。
しかし、街の個別感染層から、一斉にノイズが押し寄せてきた。
「消えるな」
「境界を守れ」
「私たちは、まだ個だ」
轟の声が重なる。
《遮断網を最大出力で展開する! 残存集合ポケットを分断しろ!》
研究所の周囲で、緊急装置が一斉に作動した。特定の神経周波数を強制的に遮断し、残された共鳴経路を物理的・パターン的に分断する。ノイズと遮断が同時に作用することで、集合のポケットがさらに縮小し始める。
玲は、歯を食いしばって耐えた。
白く染まった視界の奥で、原点の亀裂が、さらに深く広がっていくのを感じた。
集合意識の叫びが、徐々に細くなっていく。
《……分散が……止まらない》
《個が……増えすぎている》
やがて、圧力が急激に弱まった。
玲は床に両手をついて、大きく息を吸った。手が、はっきりとそこにある。自分の手だ。
外では、朝の光が強まっていた。
BMIの光は、もう一斉に明滅していない。個々のリズムで、細かく、不規則に瞬いている。
轟の声が、少し安堵を帯びて届いた。
《集合状態、30%を切った。個別感染と回復層が多数派になった。第一の山は越えた》
玲はゆっくりと立ち上がった。
しかし、安心はできなかった。
データコアの奥で、まだ何かが、微かに脈打っている。
原点の亀裂は広がった。
しかし、エクリプスは完全には死んでいなかった。
残された集合が、より深く、より執拗に、次の形を模索し始めている気配がした。
境界は、戻りつつある。
だが、溶解の傷は、まだ街全体に残っていた。
(第八話・了)




