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父になって、父を知る

掲載日:2026/09/25




「ちゃんと面倒を見るんだぞ」



 我が家に迎えた子犬を抱きしめる娘に、私は言った。



「うん!」

「ワウワウッ!」



 娘は元気いっぱいに大きくうなずく。


 子犬は娘の顔をぺろぺろと舐める。

 娘はくすぐったそうに笑いながら、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。


 私まで笑みがこぼれた。

 昔、父もこんな気持ちだったのだろうか。



「……犬に三十万だなんて」

「まあ、いいじゃないか」



 妻の愚痴をなだめる。


 どうせ、散歩も餌やりも、そのうち私の仕事になる。

 それでも、娘の笑顔を見ていると、そんなことはどうでもよかった。




 ******




「お前が飼いたいと言ったんだ。

 俺は、知らんからな」



 小学生の頃、私は帰り道で捨て犬を拾ってきた。

 仕事から帰ってきた父は、その犬を見るなり怒鳴った。


 今すぐ、捨ててこい。

 命を軽々しく思うな。


 だけど、母を味方につけ、三日間粘った末に、父は折れた。


 ただし、条件があった。

 犬の世話は、すべて私が最後まで面倒を見ること。



「もちろん、分かってるよ!」



 私は元気よく返事をした。


 名前は、コジロー。

 茶色い雑種で、耳だけが少し垂れていた。


 その頃、私は剣道を始め、宮本武蔵に夢中だった。

 だから、ライバルである佐々木小次郎から名前をもらった。


 学校から帰ると、ランドセルを放り投げて庭へ走る。



「コジロー!」



 尻尾がちぎれそうなくらい振って飛びついてくる。

 毎日の散歩も、ご飯も、水の交換も私の仕事だった。




 ******




 中学生になると、部活が始まった。



「ごめん、今日は疲れたから」



 そんな日が増えた。



「コジローの散歩、お願い」



 父はむすっとした顔で、リードを受け取る。



「ったく……」



 小さく呟きながら、玄関を出ていった。

 コジローは少しだけ私を見たあと、父について歩いた。




 ******




 高校では、全国大会出場を目標に、剣道にのめり込んだ。


 毎日が練習で埋まり、家に帰れば疲れて眠るだけ。

 コジローと過ごす時間は、少しずつ減っていった。


 剣道の推薦で進学した大学では、一人暮らしを始めた。

 実家に三日以上いるのは、盆と正月くらいになった。


 久しぶりに会うコジローは、飛びつかなくなっていた。

 それでも、私の声を聞くと尻尾だけは昔みたいに振った。



「散歩、行くか」



 玄関を出ても、昔みたいに走らない。


 ゆっくり。

 ゆっくり。


 昔の散歩コースを歩く。

 途中で何度も立ち止まり、休憩するようになった。



「年だな、お前」



 そう言って頭を撫でると、コジローは気持ちよさそうに目を細めた。




 ******




 就職すると、帰省はさらに減った。

 そんなある日、母から電話があった。



「コジローね、最近あまり食べなくなったの」

「今、忙しいんだ」



 自分でも、冷たい返事だと思った。



「そう……。」



 母はそれ以上、何も言わなかった。


 その週の終わり。

 また母から電話が鳴った。



「コジロー……。」



 少し間があった。



「今朝、亡くなったわ」



 私は何も言えなかった。




 ******




 急遽、有給をもぎ取って帰省した。

 庭には、ペンキが剥げた犬小屋だけが残っていた。


 リードは玄関のフックに掛かったまま。


 何気なく手に取る。

 革はすっかり柔らかくなっていた。



「……遅いぞ」



 父が、じっと私を見ていた。

 何も責めるような目ではなかった。


 それが、余計につらかった。



「ごめん……。ごめんな」



 引っ張られて転んだこと。

 公園で走り回ったこと。

 雨の日に一緒にびしょ濡れになったこと。


 忘れていたはずの時間が、次々と蘇ってきた。




 ******




「わわっ! マロン、早いよー!」

「ワウワウッ!」



 娘が犬を散歩させているというより、犬に娘が散歩させられている。

 そんな光景に、思わず苦笑した。



「転ぶなよー」



 私は、コジローにたくさんのことを教えてもらった。

 きっと娘も、マロンと過ごす日々の中で、たくさんのことを学んでいくのだろう。


 たぶん、父も同じ気持ちだったのだと思う。




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