「無能と呼ばれた聖女、辺境で最強の加護に目覚める」
無能。それが貴様への評価だ、アリシア
王城の謁見の間に、婚約者アルベルトの声が響いた。周囲を固める貴族たちの視線が、跪く私に突き刺さる。
「浄化の加護を賜りながら、十八年間ただの一度も発動させたことがない。聖女候補どころか、貴族としての価値すらない」
隣に立つ妹のミレイユが、勝ち誇った顔で私を見下ろした。彼女の掌には、淡い光の粒が纏わりついている。幼い頃から「聖女の再来」と讃えられてきた妹と、加護を宿しながら一度も力を示せなかった私。
幼い頃、一度だけ母に「なぜ私だけ加護が反応しないのでしょう」と尋ねたことがある。母は困ったように微笑んで、「そのうち分かるわ」とだけ答えた。それが慰めだったのか、単なる言い訳だったのか、私には最後まで分からなかった。以来、期待することをやめ、心を波立たせないよう、静かに過ごすことだけを覚えた。
「今日をもって婚約を破棄する。ミレイユこそが真の聖女に相応しい」
私はゆっくりと顔を上げ、静かに答えた。
「かしこまりました」
声は震えなかった。もう驚くことにも、傷つくことにも慣れていた。それだけを告げると、私は静かに謁見の間を後にした。振り返らなかった。
その日のうちに、最低限の荷物だけを持たされ、私は王都を追われた。行き先は、大陸最北の魔獣領と接する辺境――〈氷牙の砦〉。国境防衛を一手に担う辺境伯家の当主、レイヴンが治める土地だった。
「加護なしの令嬢がなぜここに」
砦に足を踏み入れた私を出迎えたのは、鋭い眼光を持つ若き当主だった。噂には聞いていた。魔獣の群れを単騎で退けるという、辺境の英雄。
「行く当てがありません。ここで、雑用でも構いませんので働かせていただけないでしょうか」
「王都からの厄介払いか。……いいだろう。ちょうど、砦の管理に人手が足りていない」
同情ではなく、実利からの判断だった。それが、かえって私の心を軽くした。誰も私に多くを期待しない。それだけで、随分と息がしやすかった。
案内された部屋は質素だったが、窓からは雄大な山並みが見渡せた。荷物を解きながら、私はふと、これまでの人生で初めて、誰の視線も気にせずに深く息を吐けたことに気づいた。ここには、私を「無能」と呼ぶ者は誰もいない。それだけのことが、これほど心を軽くするとは思わなかった。
砦での日々は、思っていたよりもずっと穏やかに始まった。与えられた仕事は帳簿の整理と物資の管理。机に向かい、数字と向き合っている間だけは、誰かと比べられることもなく、静かな時間が流れた。
三日目の朝、私が徹夜で整理した帳簿を確認したレイヴンが、珍しく驚いた顔をした。
「三年分の帳簿の乱れを、一晩で見抜いたのか」
「たまたま、目についただけです」
「たまたまで見抜けるものではないと思うが」
そう言うと、彼は少しだけ表情を緩めた。無口で武骨な男だったが、私の仕事を認める言葉だけは、惜しまなかった。物資の配分に頭を悩ませていた時も、真っ先に意見を求められるのは、いつも私だった。
「お前がいなければ、この砦の帳簿はとうに破綻していただろうな」
「大袈裟です」
「大袈裟ではない。兵士たちも皆、お前の仕事ぶりに感謝している」
そう言われて振り返ると、廊下の向こうで数人の兵士が、こちらに向かって軽く会釈をしてくれた。誰かに感謝され、必要とされる。それがどれほど得難いことか、私はこの砦に来て、初めて実感していた。
「お前は、無能なんかじゃない。ただ、正しく見られてこなかっただけだ」
初めてそう言われた夜、私は自室で声を殺して泣いた。誰かに真っ直ぐ認められることが、これほど胸を温かくするとは知らなかった。
それからのレイヴンは、驚くほど気にかけてくれるようになった。食事の席では、真っ先に私の好みの皿を取り分けてくれる。夜遅くまで書類仕事をしていると、いつの間にか温かい茶を差し入れてくれる。
「根を詰めすぎるな。お前は、もう十分に頑張っている」
「心配性ですね、団長は」
「お前に関してだけは、な」
素っ気ない口調の裏に、隠しきれない優しさがいつも滲んでいた。雨の日には濡れないようにと外套を差し出し、寒い夜には気づかれないよう暖炉に薪を足しておく。かつて実家では、誰かに気にかけられることすらなかった。ここでの日々は、少しずつだが確実に、私の中の凍りついていた何かを溶かしていった。
砦で働く侍女のノラも、そんな私を温かく見守ってくれる一人だった。
「団長がああして誰かを気にかける姿、初めて見ましたよ。アリシア様が来られてから、砦の空気がすっかり和らぎました」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟ではありません。以前は執務室にこもりきりで、誰も近づけないような雰囲気でしたから」
ノラはそう言って、悪戯っぽく笑った。彼女の言葉を真に受けたわけではなかったが、少しだけ嬉しい気持ちになったのは事実だった。
ある朝、私が厨房を手伝っていると、レイヴンがふらりと顔を出した。
「珍しいですね、こんな時間に」
「お前が朝から働き詰めだと聞いてな。少しは休め」
「これくらい、平気です」
「平気かどうかは俺が決める」
そう言うと、彼は私の手からそっと籠を取り上げ、代わりに椅子に座らせた。その強引さに戸惑いながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。誰かにこんな風に大切にされる日が来るとは、王都にいた頃は想像すらしていなかった。
「団長は、いつもこうなのですか」
「いつもではない。……お前に対してだけだ」
不意打ちのようなその一言に、頬が熱くなるのを感じた。レイヴンはそれ以上何も言わず、代わりに厨房の窓から差し込む朝日を眺めていた。その横顔を見つめながら、私はこの穏やかな時間が、これから先もずっと続いてほしいと、初めて心から願った。
休みの日には、砦の裏庭で剣の型を教えてくれることもあった。加護が発動しない私に、せめて身を守る術をと考えてくれたのだろう。
「力任せに振るうな。丁寧に、流れに乗せるように」
「難しいです」
「最初は皆そうだ。焦らなくていい」
不器用な手つきで剣を構える私の背後から、レイヴンがそっと手を添える。触れた指先の熱に、私は思わず息を詰めた。
「そんなに緊張するな」
「……あなたが、近すぎるからです」
その一言に、今度はレイヴンが黙り込んだ。二人の間に流れる沈黙は、気まずさではなく、どこか甘やかな温度を帯びていた。
「……お前は、時々そうやって俺を困らせる」
「困らせるつもりは、ありません」
「分かっている。だからこそ、困る」
そう言って苦笑する彼の表情を、私は初めて見た気がした。普段は厳めしい顔つきの多い人だったから、その柔らかな笑みに、思わず見惚れてしまった。
稽古が終わると、レイヴンは決まって井戸端まで水を汲みに付き合ってくれた。特に用事があるわけでもないのに、なんとなく隣を歩く時間が、いつの間にか二人の習慣になっていた。
「王都にいた頃は、こういう時間はあったのか」
「いいえ。誰かと並んで歩くことすら、あまりありませんでした」
「そうか」
短くそう言うと、レイヴンは何も聞かずに、ただ隣を歩き続けてくれた。何かを説明する必要も、取り繕う必要もない。ただ黙って隣にいてくれる、その安心感を、私はこの砦で初めて知った。以来、剣の稽古は、私にとって一日の中で一番心待ちにする時間になっていった。
半月が過ぎた頃、砦の北――〈瘴獄の森〉から、大規模な魔獣の群れが押し寄せた。斥候の報せによれば、群れの中心には、通常の魔獣とは一線を画す個体がいるという。角を持つ巨大な影――魔王の眷属、〈黒竜〉だった。
レイヴンをはじめとする砦の兵士たちが出撃した夜、私は留守を預かるはずだった。だが、遠くから響く咆哮と悲鳴じみた報せを聞くうちに、居ても立ってもいられなくなった。
「私も、行きます」
「お前が? 加護も発動しないお前が、何をする」
制止しようとするレイヴンの言葉を遮り、私は倉庫にしまわれていた古い杖を手に取った。祖母の形見だと聞かされていた、白い聖石の嵌まった杖。触れた瞬間、それはかすかな光を帯びた。
戦場に駆けつけた私の目の前で、黒竜の吐く瘴気の息吹が、味方の兵士を飲み込もうとしていた。考えるより先に、体が動いた。
「――守って」
叫んだ瞬間、私を中心に純白の光の膜が広がった。瘴気は膜に触れた端から浄化され、白い光の粒となって夜空に溶けていく。兵士たちが息を呑む中、私自身も驚いていた。十八年間、ただの一度も発動しなかった加護が、今この瞬間、確かに応えていた。
「これが、貴様の加護か……」
黒竜が低く唸り、鋭い爪を私に向けて振り下ろす。避ける間もない距離だった。だが、爪は私の体に触れる寸前で、見えない壁に阻まれたように弾かれた。
「なぜだ……なぜ、当たらない……!」
黒竜が苛立たしげに咆哮し、今度は口から巨大な瘴気の奔流を放った。私はその場を動かず、ただ杖を握りしめた。奔流が私を飲み込んだかに見えた瞬間、光の膜がそれを内側から浄化し尽くした。
「私の加護は、守ることに極振りしていたようです。攻撃を弾き、瘴気を祓う。それが、力が反応しないと誤解されてきた理由だったのかもしれません」
背後から駆けつけたレイヴンが、剣を構えながら私の隣に並んだ。
「一人で行かせはしない。だが――お前がそれほどの力を隠していたとはな」
「隠していたわけでは、ありません。私自身も、今初めて知りました」
そう答えた瞬間、杖を握る手に、じんわりとした熱が伝わった。誰かに認められ、大切にされる中で、凍りついていた心が少しずつ溶けていった――その積み重ねが、今、力となって溢れ出しているのだと分かった。
「まだだ……!」
黒竜が、瘴気そのものを凝縮させた一撃を放とうとした、その瞬間だった。私の中で、何かがもう一段階、目を覚ました。
脳裏に浮かんだのは、これまでの日々だった。誰にも期待されず、感情を殺して生きてきた王都での時間。そして、この砦で少しずつ積み重ねてきた、名前を呼ばれる温かさ、隣に座ってくれる安心感、不器用ながらも確かな優しさ。誰かに大切にされることを知った今の私は、もう昔の私ではなかった。
「私は、もう独りじゃない」
そう口にした瞬間、光の膜が、これまでとは比較にならないほどの輝きを帯びた。杖の聖石が眩いほどの光を放ち、周囲の空気そのものが浄化されていくのが分かった。兵士たちが思わず目を細めるほどの輝きの中、私は静かに杖を構えた。
「あらゆる攻撃は、私には届きません」
黒竜が放った渾身の一撃は、膜に触れた瞬間、跡形もなく浄化された。竜の巨体がよろめき、膝をつく。レイヴンが素早く踏み込み、致命の一撃を叩き込んだ。咆哮を上げながら、黒竜はその場に崩れ落ちた。
静寂が、戦場に満ちた。誰もが、目の前で起きたことを信じられずにいた。
「――アリシア」
レイヴンが、私の名を呼んだ。傷だらけの手で、私の手をそっと取る。
「もう、隠さなくていい。これからは、俺がお前の力を見ていく」
その一言に、これまで積もり積もった何かが、静かに崩れていくのを感じた。
戦いの後、砦に戻った私を、兵士たちが温かく迎えてくれた。誰も彼もが「アリシア様のおかげだ」と口々に言い、これまで感じたことのない居場所の温かさに、胸がいっぱいになった。侍女のノラも、涙ぐみながら私の手を握ってくれた。
「ご無事で本当に良かった……! 皆、アリシア様のことを心配していたんですよ」
その言葉に、鼻の奥がつんと熱くなった。誰かに心配される、誰かに待たれる。そんな当たり前のことが、これほど胸に沁みるとは思わなかった。
その夜、レイヴンは自ら私の部屋に温かい葡萄酒を運んできてくれた。
「よくやった。だが、二度と無茶をするな」
「あなたを一人で行かせるわけにはいきませんでした」
「……そうか」
レイヴンは、目を伏せたまま、しばらく黙り込んだ。彼のような立場の人間にとって、誰かを案じる気持ちを素直に口にするのは、簡単なことではないのだろう。それでも、不器用な沈黙の中に滲む想いを、私はもう十分に感じ取れるようになっていた。
しばらくの沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。
「戦場でお前が消し飛ぶ光景が、一瞬だけ頭をよぎった。生きた心地がしなかった」
「……心配、かけてしまいましたね」
「心配などという言葉では、足りないくらいだ」
そう言うと、レイヴンは少しだけ乱暴に、それでいて優しく私の頭を撫でた。その大きな手のひらの温もりに、私は静かに目を閉じた。
「あなたがそこまで心配してくださるとは、思いませんでした」
「お前は、自分がどれほど大切にされているか、まだ分かっていないようだな」
窓の外では、月明かりが静かに砦を照らしていた。ぬるくなった葡萄酒を飲み干しながら、私たちはしばらく言葉少なに、ただ隣に座っていた。何も語らずとも、心が通じ合っているような、そんな穏やかな時間だった。誰かにこれほど大切に想われる感覚を、生まれて初めて知った夜だった。
この出来事は瞬く間に王都へ伝わった。辺境の元令嬢が、魔王の眷属をたった一人で退けたという噂は、社交界を駆け巡った。王家主催の夜会に招かれた私は、久しぶりにアルベルトとミレイユに顔を合わせることになった。
「な、なぜお前がここに……」
青ざめた顔のアルベルトに、私は静かに答えた。
「魔獣討伐の功績により、王家より直々にお招きいただきました」
周囲の貴族たちがざわめく。かつて私を嘲笑っていた顔ぶれが、今は戸惑いと興味の入り混じった視線を向けていた。中には、以前は目も合わせなかったような貴族が、揉み手をしながら近づいてこようとする者もいた。だが、その手のひらを返したような態度に、心が動くことはなかった。
隣に立つレイヴンが、さりげなく私の背に手を添えてくれる。その温もりに、緊張がすっと解けていくのを感じた。
「疲れたなら、すぐに戻ろう」
「いいえ、大丈夫です。あなたが隣にいてくださるので」
そう答えると、レイヴンは少しだけ照れたように視線を逸らした。武骨な彼のそうした一面を見るたび、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「調べたところ、ミレイユ嬢が長年にわたり、禁じられた魔道具でアリシア嬢の加護を吸い上げていたことが判明しました」
王家の魔導調査官が、静かにそう告げた。会場が水を打ったように静まり返る。ミレイユの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「そ、そんな……私はただ、お姉様より優れていたくて……」
「言い訳は、調査機関で聞きましょう」
連行されていく妹の背中を見送りながら、私の胸に湧いたのは、勝ち誇る喜びではなく、静かな安堵だけだった。幼い頃、二人で庭を駆け回っていた記憶が、ふと脳裏をよぎる。あの頃はまだ、こんな結末になるとは思ってもいなかった。
隣に立つレイヴンが、そっと私の肩に手を置いた。
「大丈夫か」
「はい。……不思議と、心は凪いでいます」
「そうか。なら、それでいい」
多くを語らず、ただ隣にいてくれる。その静かな寄り添い方に、私はどれほど救われていたか分からなかった。誰かに何かを求められることなく、ただありのままの自分を受け入れてもらえる。それがどれほど得難いことか、この砦に来て初めて知った。
「アリシア、頼む。お前を正式に跡継ぎに戻したい」
青ざめた顔で歩み寄ってきた父に、私は静かに答えた。
「今さら、ですか」
「……お前に、詫びる資格すらないと分かっている。だが、王国のためにも、お前の力が必要なんだ」
「つまり、私のためではなく、家と国のためということですね」
父は答えなかった。それが答えだった。私はもう、怒りすら湧かなかった。
「私は、あの砦で十分に幸せです。戻るつもりはありません」
夜会が終わった庭園で、二人きりになると、レイヴンが静かに尋ねた。
「後悔は、ないか」
「ありません。あの家にいた頃より、ここでの方が、ずっと自分らしくいられます」
「なら、これからもここにいてくれ。俺の隣で」
思いがけない言葉に、私は顔を上げた。武骨で口数の少ない彼が、これほど真っ直ぐに想いを言葉にすることは、これまで一度もなかった。
「それは、求婚ですか」
「……そうだ。今さら、格好のつかない言い方だが」
「格好悪くなどありません。あなたらしくて、好きです」
夜風が二人の間を通り抜けた。遠くの楽団の音色が、かすかに届く。
「返事は、まだ聞いていないが」
「……はい。喜んで」
その言葉に、レイヴンは珍しく破顔した。武骨な彼のそんな表情を見るのは初めてで、私は思わず目を奪われた。
「これからは、俺がお前を守る。誰にも侮らせない」
「守られるだけではなく、私もあなたの隣で、この地を守ります」
レイヴンは小さく笑い、私の額に軽く口づけを落とした。不器用ながらも精一杯の愛情が、そこには確かにあった。
「アリシア。……今、幸せか」
「はい。これ以上ないほどに」
「なら良かった。俺はこれからも、お前がそう言い続けられるように尽くすつもりだ」
その言葉に、胸がいっぱいになった。誰かにここまで真っ直ぐな想いを向けられる日が来るとは、王都を追われたあの夜には、想像すらしていなかった。星々が輝く夜空の下、私たちはしばらく、ただ寄り添ったまま言葉少なに立ち尽くしていた。
砦へ戻ってからの日々は、これまで以上に穏やかで、そして甘いものになった。レイヴンは相変わらず口数少なかったが、ふとした瞬間に見せる優しさは、以前よりずっと素直になっていた。朝の食卓では、必ず私の隣に席を用意し、忙しい執務の合間を縫っては、書斎まで様子を見に来てくれる。
「無理はしていないか」
「あなたこそ、休んでいるのですか」
「お前のことになると、つい気になってしまってな」
そんな会話を交わすたび、頬が緩んでしまう自分がいた。かつて誰にも顧みられなかった私が、今はこんなにも大切にされている。それだけで、これまでの孤独が、少しずつ報われていくような気がした。
婚約発表の日、レイヴンは珍しく緊張した面持ちで、小さな箱を差し出した。
「王都の宝飾品には敵わないだろうが」
開けると、そこには氷牙の砦近くで採れるという淡い青色の宝石をあしらった指輪が収められていた。
「これは……」
「お前の瞳の色に似ていると思ってな。……気に入らなければ、作り直させる」
「いいえ。とても、綺麗です」
指にはめてもらうと、宝石が窓からの光を受けて柔らかく煌めいた。不器用な彼が、この指輪のためにどれほど時間をかけて職人に相談したのか、想像するだけで胸が温かくなった。
「ノラに聞いたのですか、私の瞳の色を職人に伝えるのに」
「……悪いか」
「いいえ。とても、嬉しいです」
素直に喜ぶ私を見て、レイヴンはほっとしたように息をついた。普段は感情をあまり表に出さない彼が、こんな些細なことでこれほど安堵する姿を見るのは、初めてだった。誰かのために悩み、誰かのために動いてくれる。そんな不器用な優しさの一つ一つが、私の心を確かに満たしていった。
結婚の儀は、砦に隣接する小さな礼拝堂で執り行われた。豪奢な王都の式とは違い、慎ましやかな式だったが、集まった兵士や領民たちの温かな祝福に包まれた式は、これ以上ないほど幸せなものだった。誓いの言葉を交わす瞬間、私の中の加護が再び淡い光を纏い、二人を優しく包み込んだ。
式の後、ノラをはじめとする砦の皆が、心づくしの祝宴を用意してくれていた。豪華とは言えない、けれど温かさに満ちた食卓を囲みながら、私は何度も込み上げる涙を堪えた。
「アリシア様、末長くお幸せに」
「団長を、よろしくお願いします」
口々に祝福の言葉をかけられるたび、これまでの十八年間で味わった孤独が、少しずつ溶けていくのを感じた。誰かに祝われる幸せを、私はこの砦で初めて知った。
ノラが目を潤ませながら、そっと耳打ちしてきた。
「アリシア様がここに来てくださって、本当に良かった。団長も、砦の皆も、すっかり変わりましたから」
「私こそ、皆さんに支えていただきました」
「これからも、末永くこの砦を見守ってくださいね」
そう言って笑うノラの顔を見ながら、私は改めて、この場所が自分にとってかけがえのない居場所になったのだと実感した。王都では決して得られなかった温かさが、この辺境の砦には確かにあった。
夜が更け、二人きりになった部屋で、レイヴンが静かに口を開いた。
「これからは、ずっとこうしていられるんだな」
「はい。もう、どこにも行きません」
「俺も、お前をどこにも行かせない」
そう言って、彼は私の手をそっと握った。武骨で不器用な彼の、精一杯の愛情の言葉だった。
それから幾つもの季節が巡った。砦には少しずつ平和が根付き、私の加護は国境防衛の要として、なくてはならないものになっていった。それでも、レイヴンの態度は変わらなかった。忙しい執務の合間を縫っては私の様子を見に来て、疲れた顔をしていればすぐに気づき、休むよう言ってくれる。
「相変わらず、心配性ですね」
「お前に関してだけは、な」
何度聞いても飽きない、いつもの台詞だった。かつて王都で「無能」と蔑まれ、誰からも見向きもされなかった娘が、今はこんなにも誰かに大切にされている。振り返れば、あの婚約破棄の夜がなければ、この温かな日々に辿り着くことはなかったのかもしれない。そう思うと、過去の辛さすら、今の幸せへと繋がる道のりだったように思えた。
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそだ。……アリシア、お前と出会えて良かった」
窓の外には、夕陽に染まる砦の空が広がっていた。かつて王都で無能と蔑まれ、誰にも見向きもされなかった娘は、もうどこにもいない。ここにいるのは、誰かに真っ直ぐ求められ、大切にされる一人の妻であり、この地を守る者としての誇りを持ったアリシアだった。無能と呼ばれ続けた令嬢は、ここでようやく、自分の名で、そして誰かに愛される者として、静かに、しかし確かな幸福の中に立っていた。
完




