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姉が産んだ子を育てたら、愛に溢れた毎日が舞い込んできました~娘は竜人族の長の『魂の番』で、私も一緒に竜人国へ連れ去られるようです~

作者: 黒木メイ
掲載日:2026/05/14

 ――いつか真実を告げよう。そう思っていた。ただ、それが今日になっただけのこと。


 そう自分に言い聞かせ、私は口を開いた。


「私は、あなたの本当の母親ではないの」


 娘は――今までずっと実の娘として育ててきたルナリエは、赤い目を大きく見開いた。


 ◇


 この世界には、三つの人種と国がある。獣人族が占める大国と、人間族が住む島国、そして竜人族が住む天空の国。

 住む場所も特性も全く違う種族だが、一つだけ共通するものがあった。それは彼らにとっての災厄――『魔物』だ。魔物は理性を持たぬ生き物、誰彼構わず襲う獣。しかも、いつどこに現れるかも知れない。

 故に、魔物が現れた際には種族を越え、互いに手を取り合い、魔物を討伐することになっている。竜人族は圧倒的な力を、人間族は類いまれなる頭脳を、どちらも平均的だが人口の多い獣人族は人海戦術を用いて。共通の敵が明確にいるからこそ、彼らは何百何千年以上もの間、友好関係を築き続けているのだ。




 人間の国には決して人が立ち入ってはならない『魔物の森』と呼ばれている場所がある。かつて、その森には『淀み』という魔物が誕生する場所があった。全勢力を以て森に住む魔物たちを駆逐し、淀みを封印してからは平和になったものの、その封印も永久的なものではない。いつ解けるか分からない場所に、非力な人間が近づいてはならないと今も禁止区域に指定されているのだ。


 ところが、そんな場所でひっそりと暮らしている人間がいた。

 森の奥深く、誰が建てたのか、こじんまりとした平屋がある。

 住んでいるのは、茶髪に茶目という平凡な色合いを持ち合わせている妙齢の女性シフォンと、黒髪に赤目という珍しい色味を持ったルナリエという少女。


 玄関の扉がキィィと音を立てて、開く。食卓に皿を並べていたシフォンはその音で振り向いた。


「お母さん」

「ルナリエ、お帰りなさい」


 ちょうど良いタイミングで帰ってきてくれた。と、シフォンは微笑んだ。

「あら、それは?」

 彼女の手に持っているとげとげした形の葉っぱに目がいく。


 ルナリエは「これ」と言って、その葉をシフォンに差し出した。

 シフォンは目を丸くし、次いで嬉しそうに口角を上げた。

「ありがとう。探してきてくれたのね」

「ん」とルナリエは頷く。その頬はうっすらと赤い。


 ルナリエが採ってきてくれた葉は切り傷によく効くものだ。受け取ったシフォンの人差し指には一本の線が走っている。朝方ちょっと切ってしまったのだ。

(これくらい放っておけばいいと思っていたのだけれど……)


 ルナリエの気遣いが嬉しくて、シフォンは早速その葉で傷薬を調合した。

 調合、といっても大したものではない。素人がこの小屋にあった本を読み、独学で作ったものだ。

 にもかかわらず、ひとたび傷薬を塗れば、小さな切り傷はすぐに塞がっていく。その様を見つめながらシフォンはぐっと唇を嚙んだ。


(やはり、これは……)


 今でこそ人里から離れた森で暮らしているが、シフォンは歴史ある侯爵家の次女だ。相応の教育も受けている。だから、()()()

(本来、こんな効果は出ないはずだわ。治癒魔法と同等レベルの薬なんて……極限状態に置かれ、魔法に目覚めた? そんなことはありえない。私の魔力はゼロなんだもの。となれば、可能性は一つしかない。……ルナリエ。あの子はきっと特別な子なのだわ)


 それはほぼ確信。

 ルナリエの周りでは時折、今のような不可思議なことが起きる。彼女は魔法を使える年にはまだ満たないにもかかわらず。

(ルナリエはこんな森で生涯を終えていい子ではない。でも、外に出したらまた命を狙われるかもしれない。……せめて私にも魔力があれば)


 シフォンが悔しさに苛まれていると、後ろからルナリエが声をかけてきた。

「傷……治った?」

「! え、ええ。ルナリエは手を洗ってきたの?」

「うん。ほら、キレイ」


 両手を掲げドヤ顔を浮かべる彼女に、シフォンはクスリと笑う。最近のルナリエは表情豊かだ。そこに成長を感じ、シフォンは目を細めた。


 ルナリエは不意に視線をテーブルの上へと向けた。並ぶ皿の数を見て、首を傾げる。


「今日、何かある?」


 シフォンは「ええ」と頷き返した。


「今日はルナリエの十歳の誕生日よ」

「……私、誕生日? 十歳?」

「そう。おめでとうルナリエ! ……ってどうしたの?」


 複雑そうな顔をしているルナリエ。その表情にシフォンは戸惑った。


 その時――外から激しい雨音と轟が聞こえた。


「え? さっきまで晴れていたのに⁉」


 シフォンは慌てて外に飛び出そうとした。外に干してある服を取り込まなければと思ったのだ。

 しかし、ルナリエに腕を掴まれ、止められる。


「ルナリエ?」


 振り向き、ルナリエの顔を見て息を呑んだ。彼女の赤い瞳が光っているように見えたのだ。

 足を止めたシフォンに代わり、ルナリエが外に向かって歩き出す。

 彼女が外に出た瞬間、滝のような雨がルナリエの体を襲った。

 我に返ったシフォンが傘を手にし、急いで彼女の後を追う。


 近づいて気づいた。

(雨が……ルナリエに触れたところから蒸発している?)


「ああ。ここにいたのか、俺の番」


 低く、お腹に響くような声。その声はこの激しい雨の中でもしっかり二人の耳に届いた。見上げるとそこには大きな黒竜がいた。

 シフォンは反射的に、黒竜から隠すようにルナリエを己の体で覆う。その瞬間、黒竜が吠えた。


「俺の番に触れるなっ!」


 氷の槍が上空に生まれ、シフォンの背に向かって放たれた。

 シフォンはルナリエを抱きしめる手に力を入れ、目を閉じる。けれど、予想した痛みは襲ってこなかった。


 代わりに、「どうしてっ」という悲壮感漂う声が聞こえてきた。


「お母さんに手を出したら、いくらジークでも許さない」


 初めて聞く、ルナリエの声色。怒りや殺気が混じった声。

 激しい雨が次第に弱まり、完全に止まる。黒竜は姿を人型に変え、地に降り立った。ルナリエに近づこうとしたが、彼女から睨まれ足を止めた。形のいい柳の眉を悲しげに下げている。


「お母さん、もう大丈夫だよ」


 ルナリエの優しい声と、腕を撫でる小さな手にシフォンは全身から力を抜いた。

 身体を離し、彼女の顔を、体を、全身を確認する。どこにも傷がないことを確かめ、ホッと息を吐いた。


「よかったわ」


 心の底から漏れた声はルナリエに届いたようで、「うん」と嬉しそうに微笑む。


「なっ! 番が笑っているだと⁉」

「ジークうるさい」


 ルナリエが呆れた顔で睨みつける。シフォンはその視線の先を辿った。

 そこにいたのは黒髪に水色の瞳が特徴な美丈夫。


(竜人族。それに、この特徴とジークという名前……)


 シフォンが知る限り、該当する人物は一人しかいない。生きる伝説。竜人族の長、ジークフリード。

 気になるのは、先ほどから彼がルナリエに言っている『番』という単語。それに、彼女の返答も……。

 わーわー騒いでいる(主にジークフリード)二人に声をかける。


「あ、あの……とにかく中へどうぞ」


 二人の居住空間に他者を招くことに、ルナリエは眉間に皺を寄せ不快感を示した。が、シフォンの濡れた姿を見て、仕方ないとでもいうようにため息を漏らす。そして、ジークフリードに向かって顎をしゃくった。


「さっさと入って。このままだとお母さんが風邪引いちゃう」

「あ、ああ!」


 嬉しそうな顔でルナリエの後を追うジークフリードの姿はまるで飼い主に従う犬のようだ。シフォンも彼らに続いて家の中へと入った。


「お母さんジークの相手は私がしておくから着替えてきて」

「でも……」

「大丈夫だから」とじっと見つめられ、シフォンは彼女の言葉に甘えることにした。


 部屋の中に入り、着ていた服を全て脱ぎ、タオルで全身を拭く。その間考えるのは二人のこと。


(竜人族や獣人族には『番』という者がいると聞いたことがあるわ。出会った瞬間に運命を感じる相手。あの二人もそうなのかしら? でも、それにしては何だか言動が変だった気が……まるで昔からの知り合いのような。でも、そんなはずはないわ。ルナリエが生まれた時からずっと一緒の私が二人の出会いを知らないはずがないもの。でも、『番』って言っていたし、どういうことなのかしら……)


 そんなことを悶々と考えていると、ノック音が鳴った。


「お母さん、大丈夫?」

「え、ええ」


 急いで服を着て部屋を出ると、ルナリエが心配そうな顔で立っていた。


「どうしたのそんな顔をして?」

「……心配した。人間は、すぐ死んじゃうから」


 不思議な言い回しをする彼女に瞬きを繰り返し、シフォンは柔らかく笑った。優しく抱き寄せる。心臓の音が聞こえるように。


「大丈夫よ。ね? いつも言っているでしょう。私は健康だけが取り柄なんだから」

「ん……」


 ルナリエはシフォンの胸に耳を当て、目を閉じている。その鼓動を確かめるように。彼女が不安定な時はいつもこうして安心させていた。

 ふと視線を感じ、シフォンは顔を上げる。こちらをじーっと見つめているジークフリードと目が合った。


「ル、ルナリエ。ジークフリード陛下を待たせるわけにはいかないわ。さ、席に着きましょう」

「……別にジークのことは気にしないでいい」

「そういうわけにはいかないわ」


 困ったようにシフォンが言うと、ルナリエは仕方なく体を離した。


「お母さんは座ってて、私が用意するから」

 そう言って、薬草茶を入れるルナリエ。


 程よい温度の薬草茶をシフォンの前に置き、ジークフリードの前にはぐつぐつ沸騰している茶を置いた。

(ちょ、ちょっとそれはさすがに……)

 シフォンは止めようとしたが、ジークフリードは嬉しそうな顔でカップを両手で握りしめている。そして、大切そうに飲み……声にならない絶叫を上げた。

 その後も、涙目でちびちび飲んでいるジークフリード。ルナリエはしれっとした顔で適温の薬草茶に口をつけていた。


 シフォンはハラハラした顔で二人を見つつ、自分の分に口をつける。ショウガが含まれた薬草茶のおかげでポカポカし始めた。

 シフォンは隣に座るルナリエを見やった。

「美味しいわ。ありがとうルナリエ」

「ん」とすまし顔で言いつつ、ルナリエの足は嬉しそうに微かに揺れている。


「……お母さん。食べていい?」


 ルナリエが示したのは目の前の料理。そういえば彼女の誕生日を祝っている途中だったと思い出す。

「えっと……」

 目の前のジークフリードを見れば、「番が望んでいるのだから良いに決まっているだろう」と睨まれた。


 ルナリエが食べ始め、自分はどうしたら……と迷ったシフォンは彼にも声をかけた。


「あの、実は今日は娘の十歳の誕生日なんです。これはそのお祝いの料理で。良かったら陛下もどうですか?」

「誕生日?」


 聞きなれない単語なのか、ジークフリードが首を傾げる。

(ああ。長寿故に、誕生日を祝うという概念がないのね)

 と思い至ったシフォンは彼に説明する。


「なるほど! これはルナリエのためのっ……にしてはあまりにも質素じゃないか?」

 テーブルの上の料理を眺め、眉間の皺を深くするジークフリード。シフォンの頬が朱で染まった。

「文句言うなら食べないでいい」と突き放すルナリエ。

「も、文句など! わ、私も食べるぞっ! うむ、上手い! なかなかイケるじゃないかっ!」

 そう言いながら片っ端から手をつけようとするジークフリード。ルナリエから今度は「食べすぎ!」と手を叩かれていた。

 シフォンは二人のやり取りを微笑ましく見守りながら時折、自分もつまんで食べた。


 テーブル上の皿が空になり、全てを片付けた後。ジークフリードは改めて、姿勢を正し、シフォンに向き合った。この小一時間で彼は己の番が、シフォンに全幅の信頼を置いていることを理解したのだ。


「番……ルナリエは私の『魂の番』だ」

 聞きなれないシフォンのため、『番』と『魂の番』の違いをジークフリードは説明する。


『番』は出会った瞬間に分かる運命の相手。ただ、その『番』はどちらかが死別したり、もっと相性の良い相手が現れれば、変わることもあるらしい。しかし、『魂の番』は違う。一度出会ってしまえばずっと繋がりを持つ。死後も、生まれ変わっても変わらない。それが『魂の番』。


「ルナリエはその『魂の番』なのですね」


「ああそうだ」と鷹揚に頷くジークフリード。


「今日、私は番の気配を察知し、この国にやってきた。まさか人間の国にいるとは思わず、見つけるまでに時間がかかってしまった。そのせいでルナリエをたった十年とはいえ、このような場所で暮らさせる羽目になってしま……いや、貴殿は貴殿なりに精一杯育ててきたのだろう。ルナリエの顔を見れば、彼女に不満がないことはわかる。だが! 番の私としてはこれ以上ここに彼女を置いておくことはできない。ルナリエにはもっと彼女に相応しい暮らしをしてもらいたい。だから、これからは私が責任を持って彼女の面倒をみよう。今まで、ご苦労だったな」


 労いの言葉をかけられたシフォンだが、ちっとも嬉しくはなかった。

 ルナリエの眉もピクリと上がり、微かに苛立っているのを感じる。テーブルの下、シフォンは彼女の手を握った。


「陛下……娘はまだ十歳です」

「ああ。それなら心配しなくても良い。体こそ十歳だが、その中身は我と同じせ……ぐはっ! い、いや、と、とにかく精神年齢はすでに成人を越えている。その証拠に魔力の開花も済んでいる。人にしてはかなり早い方だろう?」

「……はい。一般的に魔力の開花は早くとも十四を過ぎてからと言われていますから……」


『ほぼ確信』だった事柄が『確信』へと変わり、シフォンは青ざめつつも頷く。

 ジークフリードもうむうむと頷き、真顔で言葉を重ねた。


「今回、ルナリエは人として生まれた。それはつまり寿命が短いということだ。それに人間は脆い、何かあればすぐに死ぬ。私としてはできる限り早く、彼女を迎え入れ、一緒にいられる時間を少しでも長くしたいのだ。どうか、分かってはくれぬか?」


 情に訴えかける言葉。シフォンの気持ちがぐらりと傾く。

(そうね。竜人族に比べたら人間の生なんて瞬きの間。その貴重な時間をこれ以上私に割かせるわけにはいかないわよね。それに、きっとこれはいい機会なのだわ)


 ルナリエはやはり特別な子だった。ジークフリードの言う通り、こんな森ではなく、彼女に相応しい場所で暮らすべき。

 シフォンの覚悟は決まった。けれど――。


「いやよ」


 当の本人がはっきりと拒絶した。

 目を見開く二人。


「な、なぜだルナリエ」

「私はお母さんと一緒にいたいの」

「なに? 番よりも母親を取るというのか⁉」


 信じられないと咆哮を上げるジークフリード。だが、ルナリエは何でもない顔で「そうだ」と返した。

 絶句する彼と、表情を変えない娘の顔をシフォンは繰り返し見る。


「な、なぜだ? 我ら竜人族は親子の繋がりよりも、何よりも番を大事にする一族……」

「今の私は人間だわ」

「だがっ」


 ぐるるるっと喉を鳴らす。不意に殺気を向けられ、体が固まった。しかし、すぐさまシフォンは睨み返す。

(怯んではダメよ。ルナリエが嫌だと言っているんだもの。絶対に屈しない!)

 ジークフリードは信じられないものを見る目でシフォンを見つめた。


「おまえは……」

 彼の言葉をシフォンはわざと遮る。

「わ、私は娘の気持ちを尊重したいと思っております。……陛下はいかがですか? 番の気持ちよりも自分の気持ちを優先させるのですか?」


(返答によっては、たとえ陛下でもルナリエの相手とは認めないわ)

 と睨み返せば、ジークフリードはたじろぐ。


「そ、それは……私もルナリエの気持ちを大事にしたいとは思っている。だが……な、ならば、貴様も我が国に来ればいいのではないか?」

「貴様? 今、お母さんに貴様と言ったの?」

「い、いや、ま、間違えたのだ。すまない。その、ルナリエの母君」


 すっかり尻に敷かれているジークフリード(大男)と、完全に姉さん女房になっているルナリエ(少女)


(陛下にとってルナリエは本当に大事な人なのね。無理に連れ去ろうと思えばできるのにきちんとルナリエの気持ちに寄り添おうとしてくれている……少々強引さは否めないけれど)


 ジークフリードへの好感度が少しばかり上がった。

 彼はルナリエの顔色を窺いながらシフォンへともう一度乞う。


「母君も我が国にきてはくれないだろうか」


 シフォンは視線を揺らし、「いえ、私は……」と断ろうとした。

 だが、すかさず彼は言葉を重ねる。

「ルナリエの母君として、丁重に扱い、最高の暮らしを約束する。どうだろうか」

 前傾姿勢で言われ、シフォンはたじろいだ。

「無理やり同意を得ようとしないで」


 ルナリエに鋭い目で睨まれ、ジークフリードは口を閉ざした。けれど、彼の目は諦めずシフォンを見ている。


(ルナリエの様子を見るに、私次第で竜人国に行ってもいいと思っているみたいね。私が嫌だといえば、きっとこのままここで暮らすつもりで……その気持ちは嬉しい。でも……)


 私は一度強く瞼を閉じると、意を決して目を開いた。


「ルナリエ。あなたに言わないといけないことがあるの。私は――私は、あなたの本当の母親ではないの」


 娘は、今までずっと実の娘として育ててきたルナリエは赤い目を大きく見開いた。

 その反応に、胸がぎゅううううっと締め付けられる。


(ああルナリエ。ごめんなさい。今まで私なんかがあなたの母親面をしていて。けれど、私はあなたを本当の娘のように思って今まで……いえ、私の気持ちなんて関係ないわ。これでルナリエも私に拘る理由がなくなった。ルナリエにはルナリエの未来がある。さあ、言わなければ、私はあなたの母親として竜人国についていくことはできないと。あなたは陛下と共に新しい人生を送りなさいと……)


 走馬灯のようにルナリエが赤ん坊だった頃から今までの記憶が脳内に流れる。それを振り切るように頭を緩く振った。そして、気持ちを切り替え、口を開く。

 しかし、その前にルナリエが告げた。


「そんなこと、知っていたわ」

「……え」


 今度はシフォンが目を丸くする番だった。


(知っていた? どうして?)


 詳しい話を聞こうとしたその時、外が騒がしいことに気づいた。


(今度はいったい何なの⁉)


「あなたたちはここにいて!」


 ルナリエをジークフリードに任せ、シフォンは外に出た。


 そこにいたのは、騎士っぽい男性数名と、こんな森に似つかわしくない豪奢なドレスを着た女性とその女性を気遣う男性、ルナリエと同い年くらいの男の子だった。


 シフォンは目を白黒させる。何度か目をこすってみたが変わらない光景。


「な、なぜお姉様がここに……」

「シフォンっ! あなたこんなところにいたの⁉ というかまだ生きていたのね⁉」


「なぜ生きていたのか」と責めているかのような口調。実際、姉の心境はそうなのだろう。彼女の隣に立つ男性もシフォンを見て、驚いた表情を浮かべている。


(なんだか……やつれたような?)


 記憶の中にある彼の姿はもっと端麗だったのだが……と小首を傾げる。

「シフォンッ」と彼の唇が微かに動いたのを認めた。けれど、それを見てもシフォンの心は動かなかった。一度は婚約していた間柄だというのに……。

 シフォンは彼から視線を逸らし、ルナリエと同い年くらいの男の子に視線を向けた。彼は怯えているようで、父親の服を必死に握っていた。

(この子がルナリエの……)


 ぼんやりと男の子を見つめていると足音が近づいてきているのに気づいた。

 顔を上げた頃にはシフォンの目の前に藍色の髪に、緑色の瞳が特徴的な大柄の男性が立っていた。

 彼と同じ騎士服を着た男たちは姉家族を取り囲むようにして立っている。


 大柄な男性が恐る恐るといった感じでシフォンに尋ねる。

「あ、あの。もしやあなた様が陛下の番様で?」

「いえ、私ではなく……」

 それはありえないと首を振っていると、家の中からジークフリードが出てきた。


「カシアン」

「陛下!」

「なぜそいつらをここに連れて来た」


 駆け寄ろうとした大柄騎士はジークフリードに睨まれ、足を止める。そして、頭を下げた。


「申し訳ありません! ないとは思ったのですが、念のため彼が番という可能性も……ですが、その様子ですと本物の番様が見つかったのですね?」

「ああ」とジークフリードが頷き、家の中から出て来たルナリエへと視線を向けた。


「あの方が?」

「ああ。ルナリエだ」

「おお!」と騎士たちが喜びの声を上げた。その声に姉家族はびくりと体を寄せ合う。


「うるさい」とルナリエが呟いた。すぐさまジークフリードが騎士たちを睨みつける。その殺気に呑まれたかのように、皆が口を閉ざした。ただの人間である姉家族は真っ青な顔で抱き合い、震えていた。


 カシアンがルナリエに深々と頭を下げる。

「ルナリエ様。お久しぶりでございます。こうして再び相まみえる機会を得た幸運に感謝いたします」

 ルナリエは無表情に頷き返す。

 そして、ルナリエは歩き始めた。カシアンの隣を通り過ぎ、私の姉ロザリアの元へと。


 ルナリエは座り込んでいるロザリアを冷たく見下ろし、鼻で笑った。

 ――「コレが産みの親か」と。

 シフォンは目を見開き、息を呑んだ。一方、ロザリアは怒りからか顔を赤らめていた。


 戸惑いの声を上げたのは、ロザリアの夫フェルナンド。

「き、君の母親はシフォンだろう?」

 ロザリアが追従する。

「そ、そうよ。間違えないでちょうだい。私の子供はこの子一人だけよ」

 そう言って、息子を突き出すように両肩を掴む。力が強かったのか、男の子は顔を顰めた。


 ルナリエはさらに嘲笑う。

「ソレは私の双子の弟だろう。ふむ、こうして見ていると色合いこそ違うが、顔立ちはそっくりじゃないか」

「な、何を馬鹿なことを……」

「私が知らないとでも思っているのか? 私は覚えているぞ?」

「は?」と声を漏らしたのは誰か。


 ルナリエがロザリアの顔を覗き込み、笑みを浮かべる。それは幼子では到底できないような獰猛な笑み。

「ジークフリードの魂の番である私には、過去の人生の記憶が生まれた時から備わっていた。それがどういう意味かわかるか?」


 恐慌状態に陥っているロザリアの返答はない。仕方なくルナリエが答える。

「生まれた瞬間、いや貴様の腹の中にいた頃からの記憶も私にはある。ということだ」


 数秒かけて理解したのか、ロザリアの顔から血の気が引いていく。視線が泳ぎ始める。その様子を見ながらルナリエはクツクツと嗤った。


「私は全て覚えているぞ。貴様がお母さん……便宜上今はシフォンと呼ぶが、彼女の婚約者を寝取ったことを愉しそうに語っていたことも、妊娠を理由に自分の仕事を全て彼女に押し付け遊び惚けていたことも。自分にとって都合の悪いことは全てシフォンのせいにしていたことも。そして……私とその子供が生まれた時、黒髪赤目の私を見て、そこの男の子供ではないと理解したおまえがおまえの色味だけを持つその子供を手元に残し、私を処分しようとしたこともな! ……それを阻止し、私を連れ逃げ、自分の人生を犠牲にしてまで守ってくれたのがシフォンだったということも」


 ルナリエの言葉に皆が驚く中、シフォンだけは別の意味で動揺していた。

(そんな……ルナリエは最初から全て知っていたなんて……)

 手が震える。自分が実母ではないことはタイミングを見計らって言うつもりだった。しかし、実の母親から捨てられるどころか、殺されそうになったことだけは墓場まで持っていくつもりだったのだ。そんな残酷な真実をルナリエに知らせるつもりはなかった。それなのに、彼女は最初から知っていたのだ。

 いったいどんな気持ちだったのだろうか。ルナリエの気持ちを思うと、シフォンの胸は締め付けられた。


 ロザリアがシフォンに向かって吠える。

「うそよ! 全部でたらめだわ! 変なこと言わないでちょうだい! シフォンあんたね! あんたが、この娘に嘘を教えたんでしょう! 私を恨んで」

「「黙れ」」と一組の男女の声が重なった。

「ひぃっ! 冷たい! 熱いっ! 凍えるっ! 燃えるっ! 誰か助けてっ!」


 ロザリアの足はジークフリードによって氷漬けにされ、彼女の自慢の髪はルナリエによって燃やされていた。火の粉が飛び、ドレスに燃え移り始める。必死に助けを求めるロザリアだが、騎士たちはもちろん誰も手を貸さず、彼女の夫は息子を抱きしめ、ロザリアから遠ざけている。


「ルナリエ、コイツは極刑でいいだろう?」

「ジーク。すぐに殺すな。時間をかけて痛めつけてからだ……今までお母さんを傷つけてきた分もな」


 不穏な二人の会話にシフォンは我に返った。

「ルナリエ! やめなさい!」

「どうして?」と納得できない顔のルナリエ。


「殺してはダメよ」

「理由は? あんなゴミ。生きていてもしょうがない」

「それでも、ダメ。ルナリエがあんな人のために手を汚す必要はないわ。あなたの手はそんなことのためにあるんじゃないもの。ね?」

 お願いだからとルナリエの手を握る。彼女は自分の手とシフォンを見上げ、しばらくして頷いた。ロザリアをいたぶっていた火が消える。と、同時に氷も消えた。


 シフォンは深く息を吐きだすと、毅然とした態度で彼の正面に立った。


「フェルナンド」


 名を呼ばれたフェルナンドはギクリと体を強張らせる。

(相変わらず何を考えているのか分かりやすいわね)

 彼の顔にあるのは面倒だという色と、保身に走る色。見た目は多少変わったが、その性根は変わっていないらしい。昔からそうだった。事なかれ主義で、流れに身を任せるのが彼だ。けれど……とシフォンは見据える。

(それでも、彼は咄嗟に子供を身を挺して守ろうとしていた。姉よりもよっぽどマシだわ)


「お姉様がどういう人か……あなた知っていたでしょう?」


 フェルナンドは気まずげに視線を逸らす。


「目を逸らさない!」

「あ、ああ」

 ルナリエを叱る時のように言えば、驚いたように顔を戻す。


「知っていてお姉様を選んだのだから、最後まできちんと面倒をみて、責任を果たしなさい。夫として、公爵として」

「そ、それは……」

 どうにかならないかと助けを求めるような視線。それを遮るようにジークフリードが移動した。

「念のため、国王に私からも話をしておこう。どうせ番を見つけた報告をしなければならないからな」

 ジークフリードの言葉がトドメとなったのか、フェルナンドはガクリと頭を落とす。


 シフォンはちらりと茫然自失となっている姉を見た。ほぼ裸同然で自慢の髪の毛もチリチリになっている。見るも無残な姿。

(姉にとってはこんな姿を私の前に、他人の前に晒したというだけでも、死ぬ以上に残酷な罰となるでしょうね)

 彼女はそういう人だ。

(まあ、それとは別にきちんと己の罪は償ってもらわないといけないけれど……)


 ルナリエの弟、姉の息子は心細そうにフェルナンドの手を握っている。その姿をシフォンは何とも言えない気持ちで見つめる。

(自分の子供ではないと知ってもその手は離さないのね。それだけは……見直したわ)


 ジークフリードの命令で護衛たちが竜化し、姉家族を王城へと運ぶこととなった。後からジークフリードが国王に報告しに行ってくれるらしい。


 ひとまず、シフォンはルナリエの手を引き家の中へと入る。その後に、ジークフリードとカシアンが続いた。姉たちの登場でうやむやになるところだったが、本題は今からだ。


 シフォンが早速切り出す。

「先ほどの話の続きですが……私はルナリエの実の母ではありません。ですから、私はそちらの国には行けません」

「なら、私も行かない」

「ルナリエ……。私のことは気にしないでいいのよ。あなたはここで暮らすよりも」


「いや!」と首を横に振るルナリエ。ここまで彼女が主張するのは初めてのこと。シフォンは驚いた。

「お母さんが行かないなら私も行かない」

「ルナリエ……まだ、私のことをお母さんって呼んでくれるのね」

「当たり前。私のお母さんはシフォン。……シフォンが嫌なら仕方ないけど」

 ぐっと唇を嚙むルナリエを見て、シフォンは彼女の小さな体を抱きしめた。

「嫌なわけあるもんですか! 私だって心の中ではずっとあなたを自分の子供だと思って育ててきたのよ。お腹の中で育てた記憶も生んだ記憶もないけれど、赤ん坊のころから今まであなたを育ててきたのは私。そうよ、私はお姉様よりも十倍はあなたを育てているんだわ。愛情だって何百倍もある。私があなたの母親よ!」


 シフォンが断言すれば、ルナリエは頷き、まっすぐに彼女を見つめた。


「じゃあ、これからもずっと一緒にいて。私を捨てないで」


 ルビーのような赤い瞳にうっすらと張った膜。普段感情を露わにしない彼女が今日はたくさん新しい表情を見せてくれる。そのことがシフォンはとても嬉しく、同時に捨てないでという言葉を彼女に言わせてしまったことに罪悪感が募った。


「ええ、ええ。絶対に捨てないわ。捨てるもんですか!」


 そう言ってシフォンはルナリエを抱きしめる。小さな手が背に回る。


 竜人族にはない親子の絆を前に、ジークフリードは何とも言えない顔をしていた。その後ろに立っているカシアンは主がいつ怒りを露わにするのかとそわそわしている。

 しかし、すでにシフォンがルナリエの逆鱗となっていることを知っているジークフリードは大人しく、彼女らが離れるのを待ってから口を開いた。


「それで、母君は我が国にきてくれるのだろうか」


 静かな、けれど願い乞うような声色のジークフリード。

 カシアンがやや目を見開く中、親子二人は顔を見合わせ、口角を上げた。


「ル、ルナリエが笑った」


 頬を真っ赤にするジークフリード。


「ジーク」

「な、なんだ」

「お母さんと一緒に住める家を用意してくれるならそっちに行く」

「用意する!」

「お母さんもいい?」

「ええ、もちろん」

「では、さっそく我が国へ」と立ち上がるジークフリード。


 すかさずカシアンが冷静に水を差す。

「陛下、その前に国王陛下に報告をせねば」

 そんなのは後日でもいいと言おうとしたジークフリードだが、ルナリエの「ジーク。王宮には私も行く」という言葉にコロッと意見を変えた。


 善は急げと、竜化したジークフリードの背に乗り、ルナリエは王都へと飛び立った。それをシフォンとなぜか残ったカシアンが見送る。


「お二人が帰って来るまではしばらくかかるでしょう。その間に引越しの準備をされては?」

「え、ええ。そうですね」


 頷いてからシフォンは気づいた。

(だ、男性と二人きりになるのなんて何年ぶりかしら)

 意識した途端に身体が強張った。けれど、彼の騎士としてぶれない態度に次第にその緊張も解けていく。


 意外にもカシアンは話し上手で、さりげなく彼はシフォンが知りたいであろう情報を提供してくれた。

 たとえば、彼がジークフリードの幼馴染でもあり、実は近衛騎士隊長だということなど。

「すみません。そのような方に手伝ってもらったりなんかして……」

「いえ。番様……ルナリエ様の母君にはくれぐれも尽くすようにとジークフリード様にも仰せつかっておりますので」

「そう……ですか。あの、ですが、その……私自身はそのような身の上ではないので、できれば彼らの目がないところではもう少し砕けた態度で接していただけると助かります」


 あまりにも恭しくされるとこちらも気が抜けなくなる。それは嫌だ。と、シフォンは先手を打った。

 カシアンはジークフリードよりも頭が柔軟なようで、すんなりと「分かりました」と受け入れてくれた。言葉遣いこそまだ丁寧だが、堅苦しい態度はなくなってホッとする。


「そういえば、近衛騎士隊長が陛下の傍を離れても大丈夫なのですか?」

「はい。私は母君の護衛を命じられておりますので。……あの者が逆恨みしてこないとも限りませんから」

「ああ……」と納得した。

(あの者とはロザリアお姉様のことね。たしかに、ないとは言えないわ。お姉様なら城を抜け出し、ここまでやってきそう)


 シフォンは不穏な空気を変えるべく、別の話題を振る。

「できれば母君ではなくシフォンと呼んでいただけますか? 陛下の場合は娘の夫、義理の息子といずれなる予定ですので今のままでもいいと思うのですが、カシアン様は違うのでその……」

「そ、そうですね! では、シフォン様と」

「え、ええ。それでお願いいたします」

 ジークフリードが怒り狂っているところでも想像したのか、青ざめているカシアンにシフォンも顔を引きつらせながら頷く。


 カシアンがポツリと呟く。

「人間族というのは不思議だ」

 その呟きを拾ったシフォンは「何がです?」と尋ねた。


「竜人族は番以外に情を持ちません。それがたとえ血の繋がった親子であったとしてもです」

 シフォンはそういえばジークフリードもそんな話をしていたと頷き返す。

「ルナリエ様は今でこそ人間ですが、その前の生もその前もずっと竜人族でした。その記憶はルナリエ様の中にある。なのに、シフォン様に番に対するのと同じ、いえ、正直その……番以上の情を持っているように見えました」

「それは……」

 シフォンはなんと返せばいいか分からなかった。自分には人間族以外の記憶はない。共感しづらいのだ。


 何とか捻りだした答えを返す。

「いずれは……陛下が一番になるのだと思いますよ」

「そうですかね?」

「おそらく。人間族には親離れ、子離れをする時期というものがありますので……」

「そう、なのですか……」

 幾分か安心した様子で、でも納得できない部分もある……というような顔のカシアン。

「それにしてはやけにシフォン様に執着しているような……。しかも、それをジークフリード様が許しているというのも……やはり不思議だ。これは人間族特有の力? それとも、シフォン様が特別なのか……」

 ブツブツ喋っているカシアンを無視して、シフォンはひたすら手を動かし続けた。


「粗方終わってしまったわね。……まだ時間があるようだから、道中食べる用のお菓子でも作っておきましょうか。せっかくだからルナリエが好きな果実のジャムを使ったクッキーを……」


 素朴な味のクッキーだが、この森では豪華な甘味であり、ルナリエも喜んで食べていた。

 材料は揃っている。手際よくシフォンはクッキーを焼き始めた。


 香りに釣られてか、カシアンがソワソワし始める。

(あら、もしかしてカシアン様は甘いものが好きなのかしら)


「カシアン様、味見をしていただけますか?」

「え? え、ええ」


 出来上がったばかりのクッキーを前に戸惑っている様子のカシアン。シフォンは自分の勘が外れたのかと思ったが、彼の喉がゴクリと鳴ったことにより察する。

(ああ、そういえばジークフリード様も熱いのが苦手だったわね。もしかしたら、竜人族は皆そうなのかしら?)

 きっと、言い出せないのだろうとシフォンはクッキーを一つ摘まんだ。ふーふーと早く冷めるように息を吹きかけ、「あーん」とカシアンに差し出した。ルナリエにするように。


「え、あ」とカシアンの目が大きく見開き、微かに頬が赤く染まる。数回目を泳がせた後、シフォンの手が届くように屈み、口を開いた。その中にシフォンはクッキーを押し込む。その際、僅かにだが指先が彼の唇に触れた。ドキリと心臓が鳴る。

 カシアンの喉がゴクリと鳴った音でシフォンは我に返った。


「ん、……美味しいです」

「そ、それは良かったです」


 シフォンは胸元で指先を隠すように左手で覆い、顔を逸らした。顔が、指先が熱い。

(わ、私ったらなんてことをっ)

 婚約者だったフェルナンドにだってこのようなことはしたことがない。カシアンが初めてだ。


 気持ちが落ち着かない。それは彼も同じようで、無言だが互いに意識しているのを感じる。

(こ、こんな時どうしたらいいのかしらっ)

 元々異性に耐性がない上に、この十年ルナリエ以外の人間と接していなかったのだ。シフォンは完全にパニックに陥っていた。


「……ぉかあさーん!」


 ルナリエの声が聞こえた気がした。

 次いで、家の扉が壊れるんじゃないかという勢いで開かれる。


「お母さん! 何もされてない⁉」

「ルナリエ⁉ どうしたの? 私は無事よ。何も危ないことはなかったし、万が一何かあってもカシアン様がいてくださったから大丈夫よ」

「カシアン様⁉ いつのまにそんな呼び名にっ」


 ルナリエがぎろりとカシアンを睨む。そして、その唇の端についたクッキーのかすを見て、さらに目を吊り上げた。


「カシアン! まさか、私より先にお母さんが作ったクッキーを食べたの⁉」

「そ、それはっ」

「まさか……まさか! 『あーん』なんてしてもらっていないでしょうねええええ⁉」

 カシアンが激しく目を揺らす。しかも、その顔は赤い。嘘をつくのが苦手なカシアンは口を閉ざすしかなかった。その態度がルナリエの怒りのボルテージを上げる。


 限界に達する前にシフォンが動いた。

「ルナリエ。はい、あーん」

 とクッキーを差し出せば、反射的にルナリエの口がパカッと開く。

 もぐもぐと口を動かすルナリエ。


「急いで作ったから……味はどうかしら?」

「美味しいよ。お母さんのいつもの味」

 不安げなシフォンにルナリエはすぐに答える。


「良かったわ」と笑うシフォンにルナリエの怒りも和らいだ。

 すっかりカシアンのことは忘れ、シフォンが作ったクッキーに夢中になっている。


 カシアンは驚いた顔をし、シフォンと目が合うと僅かばかり頭を下げた。彼女はルナリエにばれないようにほほ笑む。

 その笑みにカシアンは見惚れた。すでに視線は逸れている。なのに、彼女から目が離せなかった。そんな自分に驚き、胸元を押さえる。心臓の動きもおかしい気がする。自分はいったいどうしたのだろうかと動揺するカシアン。ジークフリードと同じ時を生きながらも今まで『番』に出会ったことも、『魂の番』に出会ったこともなかった彼はその気持ちが何なのか理解できないでいたのだ。


 一方、シフォンはルナリエが幸せそうにクッキーを口にしているのを見ながら、人間の国を出ることへの不安と期待に胸を膨らませていた。

(空の国……どんなところなのかしら)

 竜人族が住む未知の国への移住。正直、不安は大きい。人間である彼女らを竜人族は受け入れてくれるのだろうか。自分はどんな扱いをされても甘んじて受け入れるつもりだ。なにせ、シフォンはルナリエのおまけ。けれど、ルナリエは違う。ジークフリードの『魂の番』だ。どうか、ルナリエに辛く当たるような輩は出てきませんようにと願う。


(もしもの時は……この手は非力ではあるけれど、それでも可能な限り守ってみせるわ)


 シフォンは気合を入れる。


 同じようなことをルナリエも心の中で考えていた。母が平和に暮らせるように竜人国に着いたらすぐにでも手を回そうと。その計画はすでにジークフリードにも共有している。


 そして、ジークフリードは浮かれていた。このようなお願いを番からされるのは前世も含めて初めてなのだ。そのおかげか、彼の中でもシフォンはすっかり保護対象となっていた。


「それでは、行こうか我が国……竜人の国へ!」


 完全な竜体ではなく翼だけ竜化した姿で、ジークフリードはルナリエを抱え、カシアンがシフォンを抱え飛び立つ。

 人間の国が遠ざかっていくのを見下ろしていたシフォンは、そっとルナリエへと視線をやった。


(落ち着いて考えたら、ルナリエ一人で竜人国へ行かせなくて良かったわ。ルナリエに前世の記憶があるとはいえ、人間として生きるのはこれが初めてだもの。分からないことがたくさんあるはず。――ルナリエはまだ十歳。陛下との間に子供を設けるのは先のことでしょうけど……二人の子供ならきっと可愛いでしょうね)


 想像して「ふふっ」と笑い声が漏れた。その吐息がカシアンの胸元に当たってしまったらしい。びくりと反応する体。

「あ、ごめんなさい」

「い、いえ……それより、息苦しくはないですか? 風魔法で周りの酸素濃度と風圧を調節はしていますが」

「問題は特にないですよ」

「それは良かったです」

「……ごめんなさい」


 シフォンの謝罪に、カシアンが「え?」と聞き返す。


「私が自分で魔法を使えれば良かったのでしょうが……お恥ずかしながら私の魔力はゼロなので……」

「ああ。いえ、大丈夫ですよ。これくらい片手間でできますから……って、ゼロ、なんですか?」

「はい。……信じられないのも無理はありません。魔力量が少ない人間族の中でも極めて異例なのですから、竜人族のカシアン様からしてみれば……私なんて欠陥品も同然でしょう」

「欠陥品⁉ とんでもない!」


 カシアンの反応にシフォンは「え?」と瞬きを繰り返す。しかし、彼はその続きを教えてはくれなかった。


「確か伝承では……いや、この記憶は古いものだから確かとは言えない。……シフォン様、この件については今一度調べ、改めてお伝えします」


 シフォンは戸惑いながらも頷き返した。


『番』というのは出会った瞬間に運命を感じる相手。それは言い換えれば相性が最高に良い相手ともいう。獣人族でいえばその最たるは匂い。好みの匂いがあり、それにぴたりと合うものが『番』だと認識されている。竜人族にとっては魔力がそれに当たる。相性の良い魔力、それだけではなくその身に貯めることができる魔力量も大事だ。この差が大きすぎると子供が作れない。そういった意味でも竜人族はまず『番』を見つけることすら難しいとされていた。

 しかし、そんな彼らにとって特別な存在がいる。もはや伝説ともなっている存在。それが、魔力を全く有さない者だ。その者となら誰でも番うことができ、確実に子供を作ることができる……と言われている。子孫繁栄が難しい竜人族からしたら喉から手が出るほど貴重な存在。


 ――もし、俺の記憶が正しいとすれば、大変なことになるぞ。


 カシアンの腕に無意識に力が入った。できることならこのまま国へは帰らずに、シフォンを連れて逃げてしまいたい。そんな心境だ。

 だが、ジークフリードへの忠誠心がそれを妨げた。


 せめて、とカシアンは己の魔力をシフォンの身に纏わせる。他の雄に彼女を奪われないようにと。それもまた、無意識の行動だった。

 もちろん、魔力感知などできないシフォンは気づかない。――自分が彼の『番』候補となっていることも、竜人国で異常にモテる未来が待っていることも。


 大昔の伝承など覚えていなかったルナリエは、後日そのことを知り、シフォンを連れ竜人国を飛び出そうとして一波乱を起こすのだが、それはまだ先のこと。

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