宮廷遺失物記録官は不要と言われましたが、届けられなかった手紙が1通ございます
届け先が、見つかった。
◇
「遺失物記録室は、来月をもって閉鎖する」
アルベール侯爵の声は、いつも通り事務的だった。
宮廷総務官として予算を預かる彼にとって、これは10ある削減項目の7番目に過ぎない。
「物を拾って棚に並べるだけの仕事に、専任の記録官は不要だ。今後は清掃係が兼務する」
リゼット・メルシアは、膝の上に置いた手を動かさなかった。
5年間、この部屋で落とし物を記録してきた。銀のカフスボタン、侍女の髪留め、書記官の羽根ペン、誰かが廊下に落とした恋文。宮廷という場所は、驚くほどものを落とす。
そのひとつひとつに通し番号を振り、拾得場所と日時を書き、持ち主を特定し、届ける。届けられないものは棚に並べ、台帳の備考欄に「推定紛失理由」を記す。
(——まあ、そうでしょうね)
5年間で、遺失物記録官という肩書きを聞いて「大事な仕事ですね」と言った人間は1人だけだった。
その1人は、酔っていた。
「引き継ぎは不要だ。台帳は書庫に移す」
「かしこまりました」
「……何か、言いたいことは?」
アルベール侯爵が一瞬だけ間を置いた。おそらく、泣くか、抗議するか、せめて不満のひとつくらい言うだろうと期待したのだろう。
「いいえ。ただ、棚に残っている届け先不明の遺失物が14件ございます。引き取り手がない場合の処分規定を、ご指示いただけますか」
「……処分は任せる」
「承知しました」
侯爵が出て行った後、リゼットは台帳を開いた。
通算2,347件。5年分の落とし物の記録。
最後のページの最終行に、今日の日付を書き入れた。
遺失物番号2348号
品名:遺失物記録官の職
拾得場所:宮廷総務室
推定紛失理由:予算削減
届け先:不明
ペンを置いて、小さく息を吐く。
(自分に通し番号を振ってどうする)
棚の一番奥の引き出しに手を伸ばした。そこには5年前から保管している封書が1通ある。差出人不明。宛先不明。中身は未開封のまま——台帳には「分類不能」と記してある。
14件の届け先不明品のうち、13件は規定通り処分できる。
この1通だけは、どうしても、できなかった。
封書を鞄の底にそっと入れた。
◇
「ふざけないでよ!」
遺失物記録室の前で、マリーが声を上げた。リゼットの唯一の仕事仲間である侍女は、台帳を書庫に運び出す木箱を睨みつけている。
「リゼットが5年間でどれだけの物を届けたか、あの侯爵は知ってるの?」
「2,347件です」
「そうよ、2,347件よ! それを『拾って並べるだけ』って!」
「マリー、声が大きいです」
「大きくて結構! だいたいね、あの侯爵だって去年カフスボタンを落としたとき、リゼットが届けたから会議に間に合ったんでしょう!」
「ええ。あの日の台帳には、推定紛失理由として『会議遅刻に伴う走行時の振動』と記録しました」
マリーが一瞬黙った。
「……あんた、そういうとこよ」
「何がですか」
「泣くか怒るかすればいいのに、台帳の話をする」
「台帳は事実しか書きませんから。泣くより正確です」
マリーが木箱の蓋を閉めながら、ため息をついた。
「ねえ、リゼット。あんたの備考欄、私は好きだったよ。誰も見てないと思って書いてたんだろうけど」
「規定上は推定紛失理由を記載する欄です。余計なことは書いていません」
「嘘おっしゃい。『推定紛失理由:娘の見舞い帰りの心労』なんて、規定のどこにも載ってないわよ」
リゼットは答えなかった。
12冊の台帳を木箱に詰め、書庫へ運んだ。
備考欄には、規定上は「紛失の推定原因」を書くことになっている。リゼットはそこに、もう少しだけ多くのことを書いていた。
たとえば——
遺失物番号1203号
品名:銀の懐中時計
拾得場所:東棟3階廊下
持ち主:財務局次長
備考:推定紛失理由——娘の見舞いから戻った直後。鎖の留め金が緩んでいた。修理を忘れるほど心配していたと思われる。返却時、本人の目の下に隈あり。
あるいは——
遺失物番号1847号
品名:白い手袋(左のみ)
拾得場所:中庭ベンチ下
持ち主:不明
備考:推定紛失理由——恋人と手を繋ぐために外したまま忘れた可能性が高い。手袋は新品同様だが、右手側のみ使用感あり。左手は守られていたのだろう。
物を落とす理由には、いつもその人の暮らしが映っている。
誰にも読まれないと分かっていても、それを書かずにはいられなかった。
(私の存在自体が遺失物みたいなものかもしれない。落とされて、誰にも拾われず、備考欄に「分類不能」とだけ書かれて棚に放置される——)
思いかけて、首を振った。自分に「推定紛失理由」を書いてどうする。
遺失物記録室の鍵を総務課に返し、リゼットは宮廷を去った。
◇
鞄の底の封書を、リゼットは5年間で何度手に取っただろう。
最初の年は毎月の棚卸しのたびに引き出しから出して、紙質を確認し、封蝋の状態を記録した。上質な羊皮紙。深い藍色の封蝋。差出人の紋章は入っていない。宛名もない。
2年目に、備考欄にこう追記した。
経年状態:良好。紙質から推定される差出人の身分は高位。封蝋の押し方に迷いがない。ただし紋章を使用していない点から、公務ではなく私信と思われる。
3年目の棚卸しで、廃棄候補リストを作ったとき、この封書だけ除外した。規定上、届け先不明品は3年で廃棄できる。理由は——書けなかった。「廃棄不可」とだけ書いた。
4年目に、封書の角が丸くなっていることに気づいた。自分が何度も手に取っているからだ。
(これは業務上の確認行為であって、個人的な関心ではない)
5年目——今朝。鞄の底に入れたとき、封蝋にそっと指で触れた。
割らなかった。中身を読めば、届け先が分かるかもしれない。でも、それは遺失物記録官の正規の手続きではない。未開封のまま保管し、届け先が名乗り出るのを待つのが規定だ。
規定を守っているだけだ。
——5年間、ずっと。
◇
混乱が始まったのは、3日後だった。
「ブローチがない!」
同盟国ザルーシアの外交使節に贈るはずだった宝石のブローチが、典礼局の保管室から消えた。正確には、保管室の予備鍵が行方不明になり、開錠に半日かかった上、中のブローチの所在も確認できない。
「記録は? 最後に触ったのは誰だ!」
アルベール侯爵が怒鳴ったが、遺失物記録室はすでに閉鎖されている。清掃係に兼務を命じてはいたが、台帳の書き方など教えていない。
廊下には、この3日間で誰にも拾われなかった落とし物が散乱していた。手袋、書類挟み、鍵束、誰かの日記帳、財務局の封蝋印、侍女長の読みかけの小説。以前なら翌朝にはリゼットが回収し、台帳に記録し、持ち主に届けていた物たちだ。
清掃係は落とし物を見つけると、とりあえず廊下の端に寄せた。3日目には廊下の端が落とし物で塞がり、通行に支障が出始めた。
「そんなに落とすものですかね、宮廷の人間は」
清掃係が呟いたが、答えられる者はいない。リゼットの台帳には5年間の月別統計があった。月平均39件。春の異動期は50件を超える。その数字を知っていたのは、リゼットと——もう1人だけだった。
「——あの記録官の台帳を持ってこい」
侯爵の命令で、書庫から台帳が運び出された。
緊急対策会議の席上、典礼局長が台帳をめくり、保管室の鍵に関する直近の記録を探した。見つかったのは、こうだ。
遺失物番号2301号
品名:典礼局保管室の予備鍵
拾得場所:大食堂入口付近
持ち主:典礼局長
備考:推定紛失理由——侍従長主催の昼食会後。侍従長は当日、二日酔いで注意散漫だった模様。なお侍従長による紛失関連事案は今月3件目。
会議室が凍った。
侍従長が真っ赤になった。典礼局長が咳払いした。
「……つ、つまり鍵は侍従長が」
「私は落としていない! この備考欄はなんだ! 『二日酔いで注意散漫』とは何事だ!」
「事実かどうかは別として、鍵の所在を辿る唯一の手がかりがこの台帳です」
アルベール侯爵がそっと台帳を閉じようとしたが、外務次官が手を伸ばした。
「待ってくれ。ザルーシアの使節は明後日到着する。ブローチの行方を辿れるなら——」
台帳をめくる手が止まらなくなった。
次に見つかった記録は、さらに詳細だった。
遺失物番号2315号
品名:典礼局保管室の予備鍵(2本目)
拾得場所:大食堂入口付近(前回と同一地点)
備考:拾得日の翌日に再度同一場所で発見。推定紛失理由——前回と同一。改善の見込みは低い。なお当該鍵で保管室を開けた形跡あり。保管室内の贈答品リストとの照合を推奨。
「……この記録官は、鍵の悪用まで予見していたのか」
外務次官が呟いた。
典礼局長が台帳のその行を指で辿り、震える声で付け加えた。
「見てください。この記録の日付は1か月前です。1か月前に、彼女はこの事態を警告していた」
「なぜ誰も読まなかったのだ」
「遺失物の台帳ですよ? 誰が読みますか」
会議室が、もう一度凍った。今度は笑えなかった。
読んでいた人間が1人いたことを、この時点ではまだ誰も知らなかった。
アルベール侯爵は何も言わなかった。言えなかった。
台帳の記録を辿ると、ブローチは侍従長が「一時的に借用」し、別の保管室に移していたことが判明した。本人に悪意はなかったが、記録がなければ永遠に見つからなかった。
ブローチは無事に回収され、外交使節への贈呈は間に合った。
だが問題はブローチだけではなかった。
記録室閉鎖から7日間で、宮廷内の遺失物に起因する事案が14件発生した。鍵の紛失3件、文書の取り違え4件、贈答品の所在不明2件、私物の盗難疑惑(実際はただの紛失)5件。
以前はリゼットが朝一番に巡回し、落とし物を回収し、持ち主を特定し、翌日中に返却していた。その一連の作業が消えた途端、宮廷は物の居場所が分からなくなった。
「たかが落とし物ではないか」とアルベール侯爵は言っていた。
7日目には言わなくなった。
「……この記録官は、今どこに?」
外務次官が聞いた。
「先週、辞めさせた」
アルベール侯爵の声は、今度は事務的ではなかった。
会議室の誰も、彼を慰めなかった。
◇
騒ぎの顛末を、リゼットは知らない。
実家の男爵邸で荷解きをしていた5日目の午後、来客があった。
「リゼット・メルシアさん——いや、メルシア記録官」
玄関に立っていたのは、宮廷書記官長セラス・ヴァルシュタインだった。
長身で、銀縁の眼鏡をかけた文官。外交文書と宮廷記録の統括を担う、文官の頂点に近い男。
リゼットとは直接の面識がほとんどない。書記官長が遺失物記録室を訪れたことは——1度だけある。4年前、赴任の挨拶回りで。あの日、リゼットは「ご用件がなければ、落とし物をされた際にお越しください」とだけ言って、彼を帰した。
「どのようなご用件でしょうか」
「これを返しに来た」
セラスが差し出したのは、リゼットの遺失物台帳だった。12冊のうちの1冊——いや、違う。
全12冊に、色の違う付箋が貼られている。月ごとに色分けされていた。
「……これは」
「私は4年間、毎月この台帳を閲覧していた」
リゼットは言葉を失った。
「外交文書を扱う上で、宮廷の人間関係を正確に把握することは不可欠だ。誰と誰が不仲か。誰が注意散漫な時期か。誰が最近、心労を抱えているか」
セラスが眼鏡の奥から真っ直ぐにリゼットを見た。
「あなたの備考欄は、どんな密偵の報告書より正確だった。侍従長の飲酒傾向、財務局次長の家族関係、典礼局の保管体制の脆弱さ。——私が過去4年間に書いた外交文書の3割は、あなたの備考欄が根拠になっている」
リゼットは自分の耳を疑った。
外交文書。宮廷書記官長が起案する、同盟の行方を左右する文書。その根拠が——遺失物台帳の備考欄。
「……閲覧記録がなかったのですが」
「書庫の閲覧規定は署名制ではない。私は毎月1日の朝、開庫と同時に行っていた」
「5年間、一度もお会いしたことがありません」
「会えば、台帳の存在が知られる。知られたくなかった。あの台帳が外交文書の起案に影響していると知られれば、あなたの記録に圧力がかかる。備考欄が忖度で歪められれば、意味がなくなる」
「……つまり、私を守るために」
「あなたの目を守るためだ。物を見て、人を見て、事実だけを書く。あの目が曇れば、私の仕事も曇る」
リゼットの手が小さく震えた。
4年間。毎月1日。48回。あの台帳を、読んでいた人がいた。
「マリーさんから聞いた」
セラスの表情が、わずかに歪んだ。
「あんた4年も台帳読んでて告白しなかったの、馬鹿なの——と、部下3名の前で怒鳴られた。反論の余地がなかった」
リゼットは思わず口元を押さえた。笑いを堪えているのか、泣きそうなのか、自分でも分からなかった。
「宮廷は今、混乱している」とセラスは続けた。「遺失物記録の不在がここまで影響するとは、アルベール侯爵も想定していなかった。記録室の復活を検討しているが——」
一拍、間を置いた。
「私は、復職の打診に来たのではない」
リゼットは鞄の底にある封書のことを、この瞬間、確信した。
5年間ずっと分類できなかったものの正体を。
「あなたの鞄に、分類不能の封書が1通あるはずだ」
「……なぜ、それを」
「差出人は私だ」
空気が変わった。
玄関の外で、風が木の葉を揺らす音がした。
「5年前、赴任の挨拶で遺失物記録室を訪れた日に、あの封書を棚に置いた。わざと。遺失物として」
「……それは」
「手紙だ。あなた宛ての」
リゼットの指が、鞄の留め金に触れた。
「なぜ——直接、渡してくださらなかったのですか」
「書けなかったからだ。宛名を」
セラスの声が、初めて低く揺れた。
「赴任初日に、あなたが落とし物を届けに来た。財務局次長の懐中時計だった。あなたは時計を渡すとき、こう言った。『鎖の留め金が緩んでいましたので、修理をお勧めします』——ただ、それだけ」
リゼットは覚えていなかった。5年前の、何百件もの届け物のひとつに過ぎない。
「次長の娘が入院していたことも、心労で物を落としやすくなっていることも、あなたは全部分かった上で、ただ『留め金が緩んでいました』とだけ言った。傷つけず、踏み込まず、けれど記録には全部残していた」
「……それは事実ですから。事実を書くのが仕事です」
「その日に手紙を書いた。だが宛名を書こうとして、手が止まった。私はあなたの名前を知らなかった。——遺失物記録官、としか」
リゼットは息を止めた。
「名前を調べることはできた。だが、それでは意味がなかった。あなたに届けてほしかったのだ。あなたが遺失物として拾い、通し番号を振り、備考欄に何かを書き、そして——届け先を探してくれることを」
「……だから、遺失物として」
「そうだ。あなたの仕事を通して、あなたに届く手紙にしたかった」
リゼットは長い間、黙っていた。
玄関先の小さな椅子に座ったまま、膝の上の鞄を見つめていた。5年間、毎月手に取った封書。紙質から相当の地位にある人物だと推定した。封の仕方が丁寧すぎると書いた。大切な内容が入っていると思った。
全部、当たっていた。
当たっていたのに、差出人だけが分からなかった。
「……あなたは、私の備考欄を信じていたんですね」
「信じていた。あなたが物を見る目は、一度も間違ったことがない。——ただひとつだけ」
セラスが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「差出人の推定だけ、外した」
リゼットの目から、涙が一筋落ちた。
「5年間、あの封書を分類不能と書いて、捨てなかった」
セラスが、静かに言い切った。
「毎月の棚卸しで手に取って、それでも廃棄しなかった。——あなたがそれを大切にしていたからだろう」
「……開封していません」
「知っている。封蝋が割れていないことは、台帳の記録で確認した。遺失物番号0003号」
セラスが、暗記していた文面を読み上げた。
「備考欄にはこう書いてあった。——『差出人不明。宛先不明。未開封。分類不能。ただし、紙質と封蝋の色から、書き手は相当の地位にある人物と推定される。封の仕方が丁寧すぎる。大切な内容が入っていると思われる。廃棄不可』」
リゼットは両手で顔を覆った。
「あなたの備考欄は、いつもそうだ。事実しか書いていないのに、全部の感情が見える」
「——5年分の落とし物は、全部届けました」
リゼットは手を下ろした。涙の跡が残る頬で、それでも声は震えなかった。
「届けられなかったのは、1通だけです」
鞄から封書を取り出した。5年分の棚卸しで何度も手に取った封書。角が少しだけ丸くなっている。封蝋は割れていない。
「遺失物番号0003号。本日をもって届け先判明。——受領のご署名をいただけますか」
セラスは封書を受け取らなかった。
代わりに、リゼットの手ごと包むように触れた。
「届け先はあなただと、さっき言ったはずだ」
リゼットの指の上で、封蝋が割れた。
5年間守り続けた藍色の封蝋が、小さな音を立てて砕けた。
中身は——1行だけだった。
あなたの備考欄を、ずっと読んでいたい。
リゼットはその1行を2度読んだ。3度目に、文字が涙で滲んだ。
「……これが、5年間、分類不能だった理由ですか」
「そうだ」
「宛名がないから届けられなかった。差出人が書いてないから返却もできなかった。中身を確認すれば分類できたのに、未開封のまま保管する規定を、私は5年間守っていました」
「知っている」
「あなたは、私がそうすると分かっていて」
「あなたが規定を破る人間でないことは、台帳の48か月分の記録から確信していた」
リゼットは笑った。泣きながら笑った。
「備考欄に書きます。遺失物番号0003号、推定紛失理由——差出人が宛名を書く勇気を5年間紛失していたため」
「……反論の余地がない」
セラスの手が、リゼットの手の上で封書をそっと閉じた。
◇
後日。
アルベール侯爵は遺失物記録室の復活を正式に決定した。
ただし、リゼットが戻ることはなかった。
書記官長セラス・ヴァルシュタインが、彼女を外交記録室の副官として引き抜いたからだ。提出された理由書にはこう書いてあった。
「宮廷で最も正確な人間観察の記録者を、遺失物の棚の前に座らせておくのは国家的損失である」
マリーはこれを読んで「私情しかないでしょう、あれ」と笑った。
リゼットは否定しなかった。
遺失物記録室には新しい記録官が着任した。台帳の書き方は、リゼットが残した引き継ぎ書に従っている。備考欄の使い方だけは、真似しようとして3日で挫折したらしい。新しい記録官の備考欄には「紛失」としか書いてない、とマリーが報告してきた。
「あの備考欄は、リゼットにしか書けないのよ。物を見てその人の暮らしが見える人間なんて、そうそういない」
リゼットは少し照れた。
照れたことを、セラスに見られた。
セラスは何も言わなかったが、翌日の外交文書の欄外に「副官の顔が赤い。推定理由:称賛への不慣れ」と小さく書いてあった。
リゼットはそれを消した。消したが、少し笑った。
なお、アルベール侯爵はあの緊急対策会議以降、落とし物をしなくなった。正確には、侍従長が落とし物をしなくなった。二日酔いをやめたからだ。
台帳に書かれるのが怖かったらしい。
(——推定理由:台帳の備考欄による社会的抑止効果。改善は持続する見込み)
リゼットの新しい執務室は、書記官長室の隣にある。
机の引き出しに、あの封書が入っている。開封済み。1行だけの手紙。
外交記録室の備品台帳は味気ない書式だ。日付と品名と数量の列が並ぶだけ。
だが備考欄は、ある。
リゼットは最初のページの1行目に、こう書いた。
遺失物番号0003号——届け先判明。受領済。
なお、届け先は記録官の隣の席でした。
推定紛失理由:5年前の書記官長に、宛名を書く勇気がなかったため。
改善の見込み:あり。
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少しでも、
「面白い!」
「続きが気になる!」
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