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宮廷遺失物記録官は不要と言われましたが、届けられなかった手紙が1通ございます

作者: 夢見叶
掲載日:2026/03/23

届け先が、見つかった。



「遺失物記録室は、来月をもって閉鎖する」


 アルベール侯爵の声は、いつも通り事務的だった。

 宮廷総務官として予算を預かる彼にとって、これは10ある削減項目の7番目に過ぎない。


「物を拾って棚に並べるだけの仕事に、専任の記録官は不要だ。今後は清掃係が兼務する」


 リゼット・メルシアは、膝の上に置いた手を動かさなかった。

 5年間、この部屋で落とし物を記録してきた。銀のカフスボタン、侍女の髪留め、書記官の羽根ペン、誰かが廊下に落とした恋文。宮廷という場所は、驚くほどものを落とす。

 そのひとつひとつに通し番号を振り、拾得場所と日時を書き、持ち主を特定し、届ける。届けられないものは棚に並べ、台帳の備考欄に「推定紛失理由」を記す。


(——まあ、そうでしょうね)


 5年間で、遺失物記録官という肩書きを聞いて「大事な仕事ですね」と言った人間は1人だけだった。

 その1人は、酔っていた。


「引き継ぎは不要だ。台帳は書庫に移す」

「かしこまりました」

「……何か、言いたいことは?」


 アルベール侯爵が一瞬だけ間を置いた。おそらく、泣くか、抗議するか、せめて不満のひとつくらい言うだろうと期待したのだろう。


「いいえ。ただ、棚に残っている届け先不明の遺失物が14件ございます。引き取り手がない場合の処分規定を、ご指示いただけますか」

「……処分は任せる」

「承知しました」


 侯爵が出て行った後、リゼットは台帳を開いた。

 通算2,347件。5年分の落とし物の記録。

 最後のページの最終行に、今日の日付を書き入れた。


  遺失物番号2348号

  品名:遺失物記録官の職

  拾得場所:宮廷総務室

  推定紛失理由:予算削減

  届け先:不明


 ペンを置いて、小さく息を吐く。


(自分に通し番号を振ってどうする)


 棚の一番奥の引き出しに手を伸ばした。そこには5年前から保管している封書が1通ある。差出人不明。宛先不明。中身は未開封のまま——台帳には「分類不能」と記してある。

 14件の届け先不明品のうち、13件は規定通り処分できる。

 この1通だけは、どうしても、できなかった。


 封書を鞄の底にそっと入れた。



「ふざけないでよ!」


 遺失物記録室の前で、マリーが声を上げた。リゼットの唯一の仕事仲間である侍女は、台帳を書庫に運び出す木箱を睨みつけている。


「リゼットが5年間でどれだけの物を届けたか、あの侯爵は知ってるの?」

「2,347件です」

「そうよ、2,347件よ! それを『拾って並べるだけ』って!」

「マリー、声が大きいです」

「大きくて結構! だいたいね、あの侯爵だって去年カフスボタンを落としたとき、リゼットが届けたから会議に間に合ったんでしょう!」

「ええ。あの日の台帳には、推定紛失理由として『会議遅刻に伴う走行時の振動』と記録しました」


 マリーが一瞬黙った。


「……あんた、そういうとこよ」

「何がですか」

「泣くか怒るかすればいいのに、台帳の話をする」

「台帳は事実しか書きませんから。泣くより正確です」


 マリーが木箱の蓋を閉めながら、ため息をついた。


「ねえ、リゼット。あんたの備考欄、私は好きだったよ。誰も見てないと思って書いてたんだろうけど」

「規定上は推定紛失理由を記載する欄です。余計なことは書いていません」

「嘘おっしゃい。『推定紛失理由:娘の見舞い帰りの心労』なんて、規定のどこにも載ってないわよ」


 リゼットは答えなかった。


 12冊の台帳を木箱に詰め、書庫へ運んだ。

 備考欄には、規定上は「紛失の推定原因」を書くことになっている。リゼットはそこに、もう少しだけ多くのことを書いていた。


 たとえば——


  遺失物番号1203号

  品名:銀の懐中時計

  拾得場所:東棟3階廊下

  持ち主:財務局次長

  備考:推定紛失理由——娘の見舞いから戻った直後。鎖の留め金が緩んでいた。修理を忘れるほど心配していたと思われる。返却時、本人の目の下に隈あり。


 あるいは——


  遺失物番号1847号

  品名:白い手袋(左のみ)

  拾得場所:中庭ベンチ下

  持ち主:不明

  備考:推定紛失理由——恋人と手を繋ぐために外したまま忘れた可能性が高い。手袋は新品同様だが、右手側のみ使用感あり。左手は守られていたのだろう。


 物を落とす理由には、いつもその人の暮らしが映っている。

 誰にも読まれないと分かっていても、それを書かずにはいられなかった。


(私の存在自体が遺失物みたいなものかもしれない。落とされて、誰にも拾われず、備考欄に「分類不能」とだけ書かれて棚に放置される——)


 思いかけて、首を振った。自分に「推定紛失理由」を書いてどうする。

 遺失物記録室の鍵を総務課に返し、リゼットは宮廷を去った。



 鞄の底の封書を、リゼットは5年間で何度手に取っただろう。

 最初の年は毎月の棚卸しのたびに引き出しから出して、紙質を確認し、封蝋の状態を記録した。上質な羊皮紙。深い藍色の封蝋。差出人の紋章は入っていない。宛名もない。

 2年目に、備考欄にこう追記した。


  経年状態:良好。紙質から推定される差出人の身分は高位。封蝋の押し方に迷いがない。ただし紋章を使用していない点から、公務ではなく私信と思われる。


 3年目の棚卸しで、廃棄候補リストを作ったとき、この封書だけ除外した。規定上、届け先不明品は3年で廃棄できる。理由は——書けなかった。「廃棄不可」とだけ書いた。


 4年目に、封書の角が丸くなっていることに気づいた。自分が何度も手に取っているからだ。


(これは業務上の確認行為であって、個人的な関心ではない)


 5年目——今朝。鞄の底に入れたとき、封蝋にそっと指で触れた。

 割らなかった。中身を読めば、届け先が分かるかもしれない。でも、それは遺失物記録官の正規の手続きではない。未開封のまま保管し、届け先が名乗り出るのを待つのが規定だ。

 規定を守っているだけだ。

 ——5年間、ずっと。



 混乱が始まったのは、3日後だった。


「ブローチがない!」


 同盟国ザルーシアの外交使節に贈るはずだった宝石のブローチが、典礼局の保管室から消えた。正確には、保管室の予備鍵が行方不明になり、開錠に半日かかった上、中のブローチの所在も確認できない。


「記録は? 最後に触ったのは誰だ!」


 アルベール侯爵が怒鳴ったが、遺失物記録室はすでに閉鎖されている。清掃係に兼務を命じてはいたが、台帳の書き方など教えていない。

 廊下には、この3日間で誰にも拾われなかった落とし物が散乱していた。手袋、書類挟み、鍵束、誰かの日記帳、財務局の封蝋印、侍女長の読みかけの小説。以前なら翌朝にはリゼットが回収し、台帳に記録し、持ち主に届けていた物たちだ。

 清掃係は落とし物を見つけると、とりあえず廊下の端に寄せた。3日目には廊下の端が落とし物で塞がり、通行に支障が出始めた。


「そんなに落とすものですかね、宮廷の人間は」


 清掃係が呟いたが、答えられる者はいない。リゼットの台帳には5年間の月別統計があった。月平均39件。春の異動期は50件を超える。その数字を知っていたのは、リゼットと——もう1人だけだった。


「——あの記録官の台帳を持ってこい」


 侯爵の命令で、書庫から台帳が運び出された。


 緊急対策会議の席上、典礼局長が台帳をめくり、保管室の鍵に関する直近の記録を探した。見つかったのは、こうだ。


  遺失物番号2301号

  品名:典礼局保管室の予備鍵

  拾得場所:大食堂入口付近

  持ち主:典礼局長

  備考:推定紛失理由——侍従長主催の昼食会後。侍従長は当日、二日酔いで注意散漫だった模様。なお侍従長による紛失関連事案は今月3件目。


 会議室が凍った。

 侍従長が真っ赤になった。典礼局長が咳払いした。


「……つ、つまり鍵は侍従長が」

「私は落としていない! この備考欄はなんだ! 『二日酔いで注意散漫』とは何事だ!」

「事実かどうかは別として、鍵の所在を辿る唯一の手がかりがこの台帳です」


 アルベール侯爵がそっと台帳を閉じようとしたが、外務次官が手を伸ばした。


「待ってくれ。ザルーシアの使節は明後日到着する。ブローチの行方を辿れるなら——」


 台帳をめくる手が止まらなくなった。

 次に見つかった記録は、さらに詳細だった。


  遺失物番号2315号

  品名:典礼局保管室の予備鍵(2本目)

  拾得場所:大食堂入口付近(前回と同一地点)

  備考:拾得日の翌日に再度同一場所で発見。推定紛失理由——前回と同一。改善の見込みは低い。なお当該鍵で保管室を開けた形跡あり。保管室内の贈答品リストとの照合を推奨。


「……この記録官は、鍵の悪用まで予見していたのか」


 外務次官が呟いた。

 典礼局長が台帳のその行を指で辿り、震える声で付け加えた。


「見てください。この記録の日付は1か月前です。1か月前に、彼女はこの事態を警告していた」

「なぜ誰も読まなかったのだ」

「遺失物の台帳ですよ? 誰が読みますか」


 会議室が、もう一度凍った。今度は笑えなかった。

 読んでいた人間が1人いたことを、この時点ではまだ誰も知らなかった。


 アルベール侯爵は何も言わなかった。言えなかった。


 台帳の記録を辿ると、ブローチは侍従長が「一時的に借用」し、別の保管室に移していたことが判明した。本人に悪意はなかったが、記録がなければ永遠に見つからなかった。

 ブローチは無事に回収され、外交使節への贈呈は間に合った。

 だが問題はブローチだけではなかった。


 記録室閉鎖から7日間で、宮廷内の遺失物に起因する事案が14件発生した。鍵の紛失3件、文書の取り違え4件、贈答品の所在不明2件、私物の盗難疑惑(実際はただの紛失)5件。

 以前はリゼットが朝一番に巡回し、落とし物を回収し、持ち主を特定し、翌日中に返却していた。その一連の作業が消えた途端、宮廷は物の居場所が分からなくなった。


「たかが落とし物ではないか」とアルベール侯爵は言っていた。

 7日目には言わなくなった。


「……この記録官は、今どこに?」


 外務次官が聞いた。


「先週、辞めさせた」


 アルベール侯爵の声は、今度は事務的ではなかった。

 会議室の誰も、彼を慰めなかった。



 騒ぎの顛末を、リゼットは知らない。

 実家の男爵邸で荷解きをしていた5日目の午後、来客があった。


「リゼット・メルシアさん——いや、メルシア記録官」


 玄関に立っていたのは、宮廷書記官長セラス・ヴァルシュタインだった。

 長身で、銀縁の眼鏡をかけた文官。外交文書と宮廷記録の統括を担う、文官の頂点に近い男。


 リゼットとは直接の面識がほとんどない。書記官長が遺失物記録室を訪れたことは——1度だけある。4年前、赴任の挨拶回りで。あの日、リゼットは「ご用件がなければ、落とし物をされた際にお越しください」とだけ言って、彼を帰した。


「どのようなご用件でしょうか」

「これを返しに来た」


 セラスが差し出したのは、リゼットの遺失物台帳だった。12冊のうちの1冊——いや、違う。

 全12冊に、色の違う付箋が貼られている。月ごとに色分けされていた。


「……これは」

「私は4年間、毎月この台帳を閲覧していた」


 リゼットは言葉を失った。


「外交文書を扱う上で、宮廷の人間関係を正確に把握することは不可欠だ。誰と誰が不仲か。誰が注意散漫な時期か。誰が最近、心労を抱えているか」


 セラスが眼鏡の奥から真っ直ぐにリゼットを見た。


「あなたの備考欄は、どんな密偵の報告書より正確だった。侍従長の飲酒傾向、財務局次長の家族関係、典礼局の保管体制の脆弱さ。——私が過去4年間に書いた外交文書の3割は、あなたの備考欄が根拠になっている」


 リゼットは自分の耳を疑った。

 外交文書。宮廷書記官長が起案する、同盟の行方を左右する文書。その根拠が——遺失物台帳の備考欄。


「……閲覧記録がなかったのですが」

「書庫の閲覧規定は署名制ではない。私は毎月1日の朝、開庫と同時に行っていた」

「5年間、一度もお会いしたことがありません」

「会えば、台帳の存在が知られる。知られたくなかった。あの台帳が外交文書の起案に影響していると知られれば、あなたの記録に圧力がかかる。備考欄が忖度で歪められれば、意味がなくなる」


「……つまり、私を守るために」

「あなたの目を守るためだ。物を見て、人を見て、事実だけを書く。あの目が曇れば、私の仕事も曇る」


 リゼットの手が小さく震えた。

 4年間。毎月1日。48回。あの台帳を、読んでいた人がいた。


「マリーさんから聞いた」


 セラスの表情が、わずかに歪んだ。


「あんた4年も台帳読んでて告白しなかったの、馬鹿なの——と、部下3名の前で怒鳴られた。反論の余地がなかった」


 リゼットは思わず口元を押さえた。笑いを堪えているのか、泣きそうなのか、自分でも分からなかった。


「宮廷は今、混乱している」とセラスは続けた。「遺失物記録の不在がここまで影響するとは、アルベール侯爵も想定していなかった。記録室の復活を検討しているが——」


 一拍、間を置いた。


「私は、復職の打診に来たのではない」


 リゼットは鞄の底にある封書のことを、この瞬間、確信した。

 5年間ずっと分類できなかったものの正体を。


「あなたの鞄に、分類不能の封書が1通あるはずだ」


「……なぜ、それを」


「差出人は私だ」


 空気が変わった。

 玄関の外で、風が木の葉を揺らす音がした。


「5年前、赴任の挨拶で遺失物記録室を訪れた日に、あの封書を棚に置いた。わざと。遺失物として」


「……それは」


「手紙だ。あなた宛ての」


 リゼットの指が、鞄の留め金に触れた。


「なぜ——直接、渡してくださらなかったのですか」


「書けなかったからだ。宛名を」


 セラスの声が、初めて低く揺れた。


「赴任初日に、あなたが落とし物を届けに来た。財務局次長の懐中時計だった。あなたは時計を渡すとき、こう言った。『鎖の留め金が緩んでいましたので、修理をお勧めします』——ただ、それだけ」


 リゼットは覚えていなかった。5年前の、何百件もの届け物のひとつに過ぎない。


「次長の娘が入院していたことも、心労で物を落としやすくなっていることも、あなたは全部分かった上で、ただ『留め金が緩んでいました』とだけ言った。傷つけず、踏み込まず、けれど記録には全部残していた」


「……それは事実ですから。事実を書くのが仕事です」


「その日に手紙を書いた。だが宛名を書こうとして、手が止まった。私はあなたの名前を知らなかった。——遺失物記録官、としか」


 リゼットは息を止めた。


「名前を調べることはできた。だが、それでは意味がなかった。あなたに届けてほしかったのだ。あなたが遺失物として拾い、通し番号を振り、備考欄に何かを書き、そして——届け先を探してくれることを」


「……だから、遺失物として」


「そうだ。あなたの仕事を通して、あなたに届く手紙にしたかった」


 リゼットは長い間、黙っていた。

 玄関先の小さな椅子に座ったまま、膝の上の鞄を見つめていた。5年間、毎月手に取った封書。紙質から相当の地位にある人物だと推定した。封の仕方が丁寧すぎると書いた。大切な内容が入っていると思った。

 全部、当たっていた。

 当たっていたのに、差出人だけが分からなかった。


「……あなたは、私の備考欄を信じていたんですね」


「信じていた。あなたが物を見る目は、一度も間違ったことがない。——ただひとつだけ」


 セラスが、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「差出人の推定だけ、外した」


 リゼットの目から、涙が一筋落ちた。


「5年間、あの封書を分類不能と書いて、捨てなかった」


 セラスが、静かに言い切った。


「毎月の棚卸しで手に取って、それでも廃棄しなかった。——あなたがそれを大切にしていたからだろう」


「……開封していません」

「知っている。封蝋が割れていないことは、台帳の記録で確認した。遺失物番号0003号」


 セラスが、暗記していた文面を読み上げた。


「備考欄にはこう書いてあった。——『差出人不明。宛先不明。未開封。分類不能。ただし、紙質と封蝋の色から、書き手は相当の地位にある人物と推定される。封の仕方が丁寧すぎる。大切な内容が入っていると思われる。廃棄不可』」


 リゼットは両手で顔を覆った。


「あなたの備考欄は、いつもそうだ。事実しか書いていないのに、全部の感情が見える」


「——5年分の落とし物は、全部届けました」


 リゼットは手を下ろした。涙の跡が残る頬で、それでも声は震えなかった。


「届けられなかったのは、1通だけです」


 鞄から封書を取り出した。5年分の棚卸しで何度も手に取った封書。角が少しだけ丸くなっている。封蝋は割れていない。


「遺失物番号0003号。本日をもって届け先判明。——受領のご署名をいただけますか」


 セラスは封書を受け取らなかった。

 代わりに、リゼットの手ごと包むように触れた。


「届け先はあなただと、さっき言ったはずだ」


 リゼットの指の上で、封蝋が割れた。

 5年間守り続けた藍色の封蝋が、小さな音を立てて砕けた。

 中身は——1行だけだった。


  あなたの備考欄を、ずっと読んでいたい。


 リゼットはその1行を2度読んだ。3度目に、文字が涙で滲んだ。


「……これが、5年間、分類不能だった理由ですか」

「そうだ」

「宛名がないから届けられなかった。差出人が書いてないから返却もできなかった。中身を確認すれば分類できたのに、未開封のまま保管する規定を、私は5年間守っていました」

「知っている」

「あなたは、私がそうすると分かっていて」

「あなたが規定を破る人間でないことは、台帳の48か月分の記録から確信していた」


 リゼットは笑った。泣きながら笑った。


「備考欄に書きます。遺失物番号0003号、推定紛失理由——差出人が宛名を書く勇気を5年間紛失していたため」

「……反論の余地がない」


 セラスの手が、リゼットの手の上で封書をそっと閉じた。



 後日。


 アルベール侯爵は遺失物記録室の復活を正式に決定した。

 ただし、リゼットが戻ることはなかった。


 書記官長セラス・ヴァルシュタインが、彼女を外交記録室の副官として引き抜いたからだ。提出された理由書にはこう書いてあった。


 「宮廷で最も正確な人間観察の記録者を、遺失物の棚の前に座らせておくのは国家的損失である」


 マリーはこれを読んで「私情しかないでしょう、あれ」と笑った。

 リゼットは否定しなかった。


 遺失物記録室には新しい記録官が着任した。台帳の書き方は、リゼットが残した引き継ぎ書に従っている。備考欄の使い方だけは、真似しようとして3日で挫折したらしい。新しい記録官の備考欄には「紛失」としか書いてない、とマリーが報告してきた。


「あの備考欄は、リゼットにしか書けないのよ。物を見てその人の暮らしが見える人間なんて、そうそういない」


 リゼットは少し照れた。

 照れたことを、セラスに見られた。

 セラスは何も言わなかったが、翌日の外交文書の欄外に「副官の顔が赤い。推定理由:称賛への不慣れ」と小さく書いてあった。

 リゼットはそれを消した。消したが、少し笑った。


 なお、アルベール侯爵はあの緊急対策会議以降、落とし物をしなくなった。正確には、侍従長が落とし物をしなくなった。二日酔いをやめたからだ。

 台帳に書かれるのが怖かったらしい。


(——推定理由:台帳の備考欄による社会的抑止効果。改善は持続する見込み)


 リゼットの新しい執務室は、書記官長室の隣にある。

 机の引き出しに、あの封書が入っている。開封済み。1行だけの手紙。


 外交記録室の備品台帳は味気ない書式だ。日付と品名と数量の列が並ぶだけ。

 だが備考欄は、ある。


 リゼットは最初のページの1行目に、こう書いた。


  遺失物番号0003号——届け先判明。受領済。

  なお、届け先は記録官の隣の席でした。

  推定紛失理由:5年前の書記官長に、宛名を書く勇気がなかったため。

  改善の見込み:あり。

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