第9話 祈りの庭
ノエルさん、と呼んでいることに自分で驚いた。いつから変わったのだろう。たぶん、あの小さな花を見た日からだ。
「全部、お話しします」
彼がそう言ったのは、国王の花壇の前だった。朝の光が白い石畳を照らしている。
「三年前、俺はあの花壇の根に触れた。内容まではわからなかったが、通常の嘘とは違う痕跡があった。報告書には書けなかった。書けば国王の私的な感情が公になる」
「だから白紙にした」
「はい。そして退任した」
風が吹いた。花壇の土が乾いた匂いを運んでくる。
「あなたに引き継いだ時、正直に言うべきでした。でも、あの花壇の秘密を知った人間がどうなるかを知っていたから。知らなければ、退任する必要もない。あなたを守りたかった」
「結果的に、嘘をつくことになった」
「はい。『引き継ぎのために残っている』と。本当は、あなたがあの花壇に触れた時に守れるように、近くにいたかった」
ノエルさんの声が震えた。低くて、かすれていて、必死に言葉を繋いでいる声。この人の声が震えるのを、聞いたことがなかった。
「昨日、あなたに問われた時。花が咲きました」
「ええ。見ました」
「あの花の嘘は、『あなたの能力に興味があっただけです』」
胃の底が落ちた。ずしん、と重いものが沈む感覚。
「……それが、嘘」
「能力に興味があったのは本当です。でも、それだけではなかった。最初から」
(は。ちょっと待って。待って。今の、今のって、つまり)
「あなたがヴァレリオ邸の庭を見て『悲しい庭だ』と言った日から、俺は」
「……」
「すみません。今は、これ以上言えません。国王のことが先です」
飲み込んだ。また飲み込んだ。この人はいつもそうだ。
でも今回は、少しだけ違った。目が赤い。隈の下の肌が、いつもより白い。昨夜、眠れなかったのだ。全部話すと決めて、一晩中、言葉を探していたのかもしれない。この人が言葉を探す姿を想像すると、顎の下あたりがじんと熱くなった。
だが今は、国王のことが先だ。感情は後回し。庭師は庭を読む。それが仕事だ。
(でも、この胸の鼓動は仕事じゃない。仕事の鼓動は、もっと規則正しくて冷たい。今の鼓動は不規則で、熱い。嘘の花が咲きそうなくらい、自分に嘘をつきたい気分だ。「何とも思っていません」って。咲くだろうな。盛大に)
◇
国王への報告は、謁見の間で行った。アルディス三世陛下は、玉座ではなく窓辺の椅子に座っていた。王冠は外している。
「管理官。余の庭を調べたか」
「はい、陛下。あの花壇の土壌には、嘘の根はありませんでした。ただし、嘘に似た痕跡がありました。『大丈夫だ』という言葉が、何重にも積もっていました。先王妃殿下に向けた言葉です」
国王の手が、膝の上で握りしめられた。
「花が咲かなかったのは、陛下がそれを嘘だと自覚していなかったからです。本当に大丈夫だと信じていた。先王妃殿下も、きっとそれをわかっておいででした」
「……では、なぜ根がある」
「根は、結果的に真実でなくなった言葉の残骸です。嘘ではなく、祈りでした」
国王の目から、涙がこぼれた。声は出さなかった。静かに、長い長い十年分の涙が頬を伝った。
「十年間。誰にも聞けなかった。あれが嘘だったのか、祈りだったのか」
「祈りです、陛下」
「そうか」
もう一度、「そうか」と呟いた。窓から差す光の中で、国王の涙が光っていた。
◇
謁見の間のドアが開いた時、ヴァレリオ殿が廊下で待っていた。国王への嘆願に来たのだろう。
「陛下。管理官の巡回権限について、再考をお願いしたく」
「ファーシュタット。一つ聞く。学術院に提出した論文は、本当にお前の研究か」
「もちろんです。すべて私が」
足元で、花が咲いた。薔薇。完全に開いている。嘘だ。世界のルールが証明した。
「もう一つ聞く。婚約期間中、ヴェルデ嬢の技術書を閲覧したか」
「それは、婚約者の研究に興味を持つのは自然なことで」
また花が咲いた。二輪目。弁明するたびに花が開く。
国王が静かに言った。
「花が咲き終わったら、話を聞こう」
ヴァレリオ殿の顔から血の気が引いた。弁明すればするほど花が咲く。黙れば弁明にならない。
三輪目の薔薇が咲いた。
弁明すればするほど花が咲く。嘘をつくことが物理的にできない状況に追い込まれている。
三輪目の薔薇が咲いた。肩が震えていた。翡翠の瞳が潤んでいた。完璧な微笑みは、もうどこにもなかった。
国王が使者に目配せした。ヴァレリオ殿は静かに退室させられた。
扉が閉まった。謁見の間に残ったのは、私と国王と、三輪の薔薇の残り香だけだった。
「管理官」
「はい、陛下」
「よくやってくれた。余は十年間、答えを恐れていた。もう恐れなくてよいのだな」
「はい。あの花壇は、陛下の愛の記録です」
国王が、初めて微笑んだ。
◇
夕暮れの回廊で、ノエルさんが待っていた。
「終わりましたか」
「ええ」
並んで歩いた。
「ノエルさん。あなたの嘘、一つだけでしたね。しかも、こんなに小さい」
「小さい嘘でも、あなたの前では咲く」
ノエルさんの声は低くて静かだった。
「俺はあなたに嘘をつけない人間でいたかった」
喉の奥が詰まった。指先が冷たくなった。胸の中で何かがぎゅうっと絞られている。
「あなたの前で嘘をつけないということは、あなたの前では本当のことしか言えないということです」
「……ノエルさん」
「だから、今は、これ以上言いません。言ったら、全部本当になってしまうから」
不器用だ。何もかも不器用だ。でも、その不器用さが、嘘だらけの世界で一番信じられるものだった。
「じゃあ、いつか言ってくださいね」
ノエルさんが何か言いかけて、また飲み込んだ。飲み込みすぎだ、この人は。いつか全部吐き出してほしい。私の前で。花が咲いてもいい。咲かなくてもいい。どちらでもいいから、全部、言葉にしてほしい。
夕日が回廊の石畳を赤く染めていた。二人の影が長く長く伸びて、先の方で重なっている。影は嘘をつかない。
王宮の鐘が夕刻を告げた。六つの鐘の音が、庭園に響いて消えていった。明日からまた巡回だ。ノエルさんと二人で。二人で歩く庭は、一人で歩くよりも土が温かい気がする。気のせいかもしれない。でも、気のせいでもいい。
そう言って、微笑んだ。
私は歩き出した。




