第8話 たった一つの嘘
国王の花壇の土は、不思議なほど冷たかった。
品評会の翌日。国王に呼ばれた私は、あの花壇の前に膝をついていた。陛下は回廊の奥から見守っている。「好きなように調べなさい」と言われた。ノエル殿も少し離れた場所にいる。
朝の光が花壇を照らしている。土の表面に朝露が残っていて、指先が濡れた。冷たい。でもこの冷たさの奥に、何かがある。赴任初日に触れた時から、ずっと気になっていた。
土に指を沈めた。深く。もっと深く。
赴任初日に触れた時と同じ。根がほとんどない。だが微かな痕跡がある。枯れかけた、歪んだ形の何か。通常の嘘の根とは違う。
指先に意識を集中した。流れ込んできたのは、言葉だった。
『大丈夫だ』
繰り返し。何度も何度も。同じ言葉が、祈りのように積み重なっている。
『大丈夫だ、マリーシャ。必ず良くなる』
王妃の名前。十年前に病で亡くなった先王妃マリーシャ殿下。国王は、病に伏す王妃に「大丈夫だ」と言い続けていたのだ。
十年間。毎日。国を治めながら、妻の手を握りながら。
花壇の土が、指先の温もりで少しだけ温かくなっていた。十年間冷たかった土に、初めて誰かが触れた。
目を閉じた。指先から伝わってくるのは、「大丈夫だ」という言葉の残響だけではなかった。その言葉を支えていた感情。恐怖と希望が入り混じった、祈りのような、呪いのような。死にゆく人の手を握りながら「大丈夫だ」と言い続けることの重さを、私は知らない。知らないが、根は覚えていた。
指先が熱い。根から伝わる感情の残響が強すぎて、手が痺れている。こんなことは初めてだ。嘘の根を読むのとは全く違う。嘘の根は冷たい。でもこの根は温かい。温かくて、悲しくて、優しい。
指を抜いた。鼻の奥がつんとして、視界が滲んだ。
◇
執務室に戻り、ノエル殿に報告した。
「国王陛下の花壇の根は、嘘の根ではありませんでした。『大丈夫だ』という言葉が、何重にも積もっていました」
ノエル殿が目を閉じた。知っていた顔だ。
「やはり」
「知っていたんですね」
「三年前に気づきました。それが、俺が管理官を辞めた理由の一つです」
ノエル殿が窓辺に寄った。
「管理官は全ての庭の報告書を国王に提出します。国王の花壇も例外ではない。俺は三年前にあの花壇を調べ、根の痕跡に気づいた。同時期にヴァレリオ邸の庭で盗用の根も見つけた。二つの秘密を同時に抱えた。片方は証拠不足で動けず、もう片方は報告すれば国王の私的な感情が公になる」
「だから、どちらも抱えたまま辞めた」
「報告書に国王の花壇を『異常なし』と書きました。嘘です。管理官が報告書に嘘を書けば、職を辞すべきです」
窓の外で鳥が鳴いた。その鳴き声だけが沈黙を埋めていた。
「ノエル殿。あなたも嘘をついていたんですね。私に対しても」
ノエル殿の体が強張った。
「引き継ぎ顧問として残った理由。巡回に同行した理由。全部、引き継ぎのためだと思っていました。でも本当は、国王の庭の秘密を一人で抱えきれなくなったからでは」
沈黙。そしてノエル殿の足元に、小さな花が一輪咲いた。
野の花。薔薇ではない。小さな、か弱い花。
嘘をついた。たった今。でも何の嘘だろう。「国王の秘密を抱えきれなくなったから」が嘘なら、別の理由がある。
「あなたの嘘は、一つだけですね」
足元の花を見つめた。こんなに小さい嘘は見たことがない。
「……」
ノエル殿は何も言わなかった。花が一輪だけ、夕日の中で揺れていた。
◇
翌朝、書庫で過去の記録を調べた。ノエル殿の退任記録。「自主退任」と書かれている。だが退任の前月に宮内庁から「花壇調査の制限」に関する通達が出ていた。国王の花壇に触れた管理官は、退任勧奨を受ける慣例があるらしい。
あの手描きの地図。国王の花壇のページだけ、余白が広かった。書けなかったのだ。書いてしまえば報告書に載せなければならない。だから白紙にした。白紙もまた、一つの嘘だ。
ノエル殿はあの白紙のページを見るたびに、自分の嘘を見ていたのだろう。書くべきものを書かなかった。報告すべきことを報告しなかった。そしてその責任を取って辞めた。正しいことをしたかったのに、正しさの定義が衝突して、身動きが取れなくなった。
でも、あの花壇の根に触れた今の私ならわかる。国王は嘘をついたのではない。「大丈夫だ」は、嘘をつくつもりで言った言葉ではなかった。信じたかった。だから花は咲かなかった。だが王妃は亡くなった。嘘でもなく真実でもない言葉の残骸が、枯れかけた根として花壇に眠っている。
嘘ではなく、祈り。
この花壇に咲かなかった花は、嘘の花ではなく、祈りの花だったのだ。
ノエル殿にそう伝えたかった。彼が三年間抱えてきた重荷を、少しでも軽くできるなら。「異常なし」と書いた報告書は嘘ではなかった。祈りは嘘ではない。彼が辞める必要はなかったのだ。
でも彼はそれを知らなかった。知る術がなかった。根の内容を読む力がなかったから。「嘘かもしれない」と思い込んで、三年間、自分を責めていたのだ。
あの手描きの地図の、国王の花壇のページの白紙。あれは嘘ではなかった。祈りの前で、言葉が見つからなかっただけだ。言葉が見つからなかっただけだ。
涙がこぼれた。自分のためではない。三年間一人で重荷を背負った人のために。白紙のページの前で、きっと何度も筆を置いた人のために。
庭師は泣かない。でも今日は、庭師じゃなくて、ただのローレルでいい。泣いたっていい。
書庫の窓から、庭園が見えた。ノエル殿が巡回をしている。一人で、地図帳を広げて、いつもの丁寧な足取りで。
三年間の一人きりの巡回。一人きりの記録。一人きりの沈黙。
もう、一人きりにはさせたくない、と思った。庭師として。それから、庭師としてだけではなく。
あの足元の花。あの嘘の中身を、いつか聞きたいと思った。聞きたい、と思っている自分に、もう驚いてはいない。
窓から見える庭園に、朝日が差し始めていた。春の光の中で、花壇の花が色づいている。嘘の花も、真実の種の花も、同じ光を浴びている。この世界は不完全だ。嘘と真実が隣り合わせで、祈りは花にもならず根にもならない。でも、土は全部覚えている。
庭師の指は、土に触れている時がいちばん正直だ。




